秘密の花園 ~光の庭~

犬飼ハルノ

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真神憲二と真神勝巳

佳客の宴-1-(憲二、勝巳、松永可南子)

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「かつみー、風呂-・・・」

 なんのためらいもなく合い鍵を使い、なんの確認もせず玄関に踏み込んで、後悔した。

 前々から、弟からは訪ねるなら一度電話を入れてくれと言われていたのに。
 目の前に並んだ、女ものの繊細な靴。
 回れ右をすべきだと思ったが、行動に移す前にリビングへ続くドアが開いてしまう。

「風呂って、いったい・・・」

 困惑顔の勝己を見て、舌打ちしたいのをこらえた。

「なんですぐに出てくるんだよ」
「なんでと言われても・・・」
「お邪魔なら帰りましょうか?」

 少し低い甘めの声と供に勝己の背後からひょっこりと顔を見せたのは、頤の細くて顔の小さい、栗色の髪の長い女性だった。


「初めまして。松永可南子と申します。やはり私は帰りましょうか?ちょっと寄っただけですし」

 結局、そのまま上がり込むことになった。
 1DKの勝己の部屋には大きめのローテーブルが真ん中に置かれ、そこにロータイプのソファが合わせてある。
 テーブルの上には二台のノートパソコンと書類らしきものが広げられていた。
 睦み合っている最中でないことがわかり、ひそかに胸をなで下ろした。

 憲二の向かいでぴんと背筋を伸ばした女性は、富士額の美しい、祇園の芸妓のような日本的な顔をしている。
 小柄な身体を包む柔らかなワンピースは上質で、きめの細かい肌からしっとりとした色香を放つ。

 ほのぼのとした笑顔に、憲二は半笑いを浮かべるしかなかった。

「いえどうかそのままに。こちらこそ、初めまして。兄の憲二です」

 これはかなり上等な女じゃないか。

 心の中で勝己に悪態をつく。
 そして、どうみてもこの部屋に馴染みすぎている。
 付き合いはそこそこ長そうだ。
 どうして今まで気が付かなかったかが不思議である。
 それに・・・。

「・・・ああ。お察しの通り、私の方が勝己どころか憲二さんより年上で、一時期は上司でした」

 憲二のかすかな表情もあっというまに読み取って、さらりと流す。

「え?」

 思わず眉をひそめると、紅茶を淹れた勝己がマグカップを検事の前に置いて説明した。

「・・・可南子さんは同じ医局の、助教なんだ」
「助教って・・・」

 勝己が属している大学は学閥の中でもかなり強い権限を持つ、いわば最高峰とも言える所で、さらにそこでそれなりのポジションにいるならばかなり有能だと言うことである。
 無意識のうちに左手をテーブルに載せ、マグカップの取っ手をいじった。

「研修医の時にお世話をしたのがきっかけで・・・。あら?怪我をされているの?」

 めざとく見つけられ、苦笑いをする。

「ああ、これ・・・」

 突撃訪問をしてしまった、そもそもの理由をようやく思い出した。

「憲・・・。どうしたんだそれ」

 すぐに隣に回り込んだ勝己が、左手首を掴む。
 大きめの絆創膏を巻いた人差し指を差し出すと、手首を握る手が冷たい。

「ええと、今日、教授の所にお土産で西表島のパイナップルが届いて・・・」
「もしかしてお前が・・・」
「うん。たまたま秘書が数日休みを取っていて、でも完熟だから今食べたいなーって話になって・・・」

 憲二は勝己の勤める病院と同じ大学に勤務している。

 敷地も近い理系棟で、同じく助教として研究三昧だ。

 しかしさすがの憲二もパイナップルを切るためだけに弟を呼びつけるのはためらわれた。
 だから、なんとなく右手に包丁、左手にパイナップルを手に取った。
 すると、食に飢えている院生たちの目が期待に輝いたのだ。

「皆まで言わなくて良い・・・」

 心なしか、弱々しい声が制止する。

「あら、勝己、あなた大丈夫?」

 言われて弟の顔を覗き込むと、彼の厚めの唇から色が抜けていた。

「なんで?」
「なんでって・・・!!そもそも、ろくすっぽ包丁を握ったことのない憲がなんで率先してパイナップルなんかに挑んでるんだよ!!」

 勝巳が怒鳴るなんてひさびさだ。

「だってこの前、勝己が切ってるのを見たから、あの通りにやればいいんだよなあと思って」

 先週、それこそ実家経由の頂き物の八重山産パイナップルをここで食した。

「ああ、あの八重山パイン、美味しかったわよね」
「食べたんだ?」
「ええ。残りを病院に持ってきてくれたから、医局のみんなで」
「なるほどね」

 あっというまに打ち解けた二人とは対照的に、勝己はソファーのクッションにぽすんと音を立てて顔を埋めた。


「傷口を拝見するわね」

 可南子は向かいから身を乗り出して憲二の手を取り、絆創膏を剥がして覗き込む。

「・・・ざっくりやったわね。痛かったでしょう」
「あ・・・っと思った時には刃物が身体に入っていたから」

 思わず耳をふさぎたくなるのを、クッションを握りしめて勝己は耐えた。

「給湯室にある包丁って、いつの時代からそこにあったか解らない代物でさ・・・」



「この話は、まだ続くのか・・・」

 勝巳のよわよわしい独り言は二人の耳に届かない。
 胃がだんだん痛くなってきた。
 目眩すら感じる。

「ああ、あるある。あるわあ。うちの医局にも。基本、切れないのよね。誰もケアしないから」
「そうそう。だから、変に力を入れたら思いの外ざーっと行っちゃって・・・」

 既に往年の友人のような会話を続ける二人のそばで、クッションにもたれたままの勝己は微動だにしなかった。

「で、勝己はへこんでるの?それとも貧血起こしているの?」
「両方・・・」
「マルチで名高いあなたがよもやお兄さんの怪我を見て貧血起こすなんて、教授たちもびっくりね」
「へえ。こいつ、マルチなんだ?」

 相槌を打ちながら憲二はふと気が付いた。


 普段から、弟は自分のことをほとんど話さない。
 いつも、穏やかに笑っているから、それが当たり前で。
 何も、知らないのかもしれない。
 こんなに長い間、そばにいるのに。

「そうよ?専門を決める時に教授たちがもめてもめて・・・。体力あるし、力もあるし、決断は早いし、なのに手先は器用で細やか。分析にも長けてるしね。私、部長に色仕掛けして引き入れろって真顔で言われたわ」
「え・・・?」
「いろじかけ・・・」

 これは勝巳も初耳だったようで、茫然としている。

「いやあね。私があの馬鹿部長の言いなりになるわけないでしょう。それに、付き合いだしたのって、あなたが医局に馴染んでからじゃない」
「それも、そうだ・・・」

 ぼそりと呟き、ついでにクマのようにのっそり立ち上がって勝己は物置から救急箱を取ってくる。

「ついでに新しい絆創膏貼るか。憲」
「もう、大丈夫なの?」
「多分・・・」
「あぶなかっしいわね。私がしましょ」

 市販の消毒薬を吹きかけて、首をかしげた。

「絆創膏、二種類あるけどどちらが良いかしら。湿潤治療の方だと傷口も綺麗に治るし貼りっぱなしでお風呂も楽なんだけど、合う合わないがあるから・・・」
「俺、そっちはダメみたい。だからここへ来たんだけど・・・」
「え?」

 きょとんと目を見開いた可南子に手を取られたまま、憲二は隣を仰ぎ見た。

「勝己。頭と顔洗って欲しい。意外と難しいと解ったらどうにもこうにも我慢できなくてさ」
「は?」
「果汁が飛んだからさあ、顔を洗おうとしたわけ。そうしたら以外と出来ないんだよ、傷口を避けようとしたら。左手の人差し指なんか、端っこだから関係ないやと思ったんだけど、これが意外や意外、重要なんだよな」

 のほほんとした憲二に、すかさず現役医師たちの真面目な説教が飛ぶ。

「そりゃそうだろう・・・。これ以上粗末にしないでくれ」
「重要でない指なんて、どこにもありません」

 深々とため息をついた可南子は、二人の男性を見上げた。

「なら、今、お二人でお風呂済ませてしまえば如何?ポトフが出来るまでまだ少し間があるし」
「え・・・?」

 勝己はたじろぐ。

「せ、狭いよ、ここの風呂。大人二人は無理だろう。酸欠になるぞ」

 あわあわと反駁すると、憲二の眉間に皺が寄った。

「お前の所はどうだか知らないけどさあ」

 形の良い唇を尖らせて続ける。

「俺の研究室って、いろんな機材があるわけよ。それで、それぞれが稼働していると物凄い熱を発してくれて、今の季節は亜熱帯かってくらい暑いのに更に白衣も着て、もう体液絞りまくりでドロドロでガビガビなんだよ」
「ドロドロでガビガビ・・・」

 何を想像したのか、口元を押さえて赤くなる弟に、憲二はキレた。

「あー、もう。なんでも良いから、俺を洗ってくれ、誰か!!」

 見た目にはツヤツヤの髪を乱暴にがりがり搔く。
 意識すると、汗臭さとほこりっぽさが全身を覆っているような気がしてイライラしてきた。

「なら、私が洗いましょうか?」

 すっと白い手を挙げる可南子に二人は目を向いた。

「・・・は?」
「え?」
「別に人の裸なんて見慣れてるし、勝己よりずっと小柄だし」
「いやいやいや、ちょっと待って、可南子さん」

 あっけにとられた憲二はさすがに声も出ない。

「え?だって、勝己がまた貧血起こすよりましじゃない?私は患者さんだと思えば別に・・・」
「いや、大丈夫。俺、もう大丈夫だから。患者だと思えば、憲二も大丈夫だから」
「あらそう?」
「ああ、大丈夫。大丈夫だとも」

 挙動不審な弟と、見た目よりもドライな彼女のやりとりを、ふーっとため息で吹き飛ばして、襟元のボタンに手を掛けた。

「どうでもいいや。とにかく早く風呂に入りたい」

 ぷちぷちと寛げ始めたのをすかさず勝己が押しとどめる。

「待て、憲二。頼むから脱ぐのは五分で良いから我慢してくれ」





「相変わらず甕棺みたいな湯船だなあ」

「・・・俺らが生まれる前からあるマンションなんだから、こんなもんだろう」

 ほぼ正方形の小さな湯船で170センチ半ばの身体を器用に折りたたみ、側面に背中を寄りかからせている憲二の頭を、洗い場の椅子に腰を下ろした勝己が丁寧にシャンプーをすり込みマッサージする。

 これがなかなか上手くて心地よい。
 本当に器用な男だ。

 医師でなくとも、美容師でもやっていけたんじゃないか。
 ちょっとした王様気分を味わえ、憲二は悦にいる。

「いや、お前、実際この中入ってんの?」
「入ったことがない・・・と言うか、入る暇がない」

 若手医師は激務であると決まってる。
 彼が五分待てと言い置いたのは、久しぶりに使う湯船の様子を見るためだったらしい。

「なるほどね・・・」

 弟は、高校一年生になる頃には180センチ近くまで育ってしまった。
 そして今は、服も、家具も、日本の基本サイズに合わないらしく、窮屈そうな顔をする。

「それに、女がいるとこんなこじゃれた物があるんだな」

 右手の指先でぱしゃりと水面を弾いた。
 こぼれんばかりに満たされた湯船の中はドイツ製の入浴剤で染められ、まるで豆乳風呂に浸かっているようだ。

「前に誰かから貰ったのがあった」
「女か?」
「たぶん・・・」
「お前も隅に置けないな」
「憲、洗い流すから目を瞑って」

 淡々と次を促す弟が憎らしくなり、憲二はいきなり泡だらけになった頭をまるで犬のようにぶるぶると勢いよく振った。

「うわ・・・っ、ちょっと、憲!!」

 飛び散った泡の多くは油断していた勝己の全身にかかったらしい。
 ついでに、振り返らないまま湯水も手ですくってばしゃばしゃとかけてやった。

「・・・!!けん、憲!!ちょっと、俺、服のまんまだって!!」

 勝己はTシャツにジーンズといういでたちのまま風呂場に入っていた。

「彼女が来てるからって気取りやがって。お前も脱げばいいじゃん」
「いや、ちょっと、勘弁してくれよ・・・」
「ははは!ついでにお前も洗っとけよ!!」

 調子に乗って、なおも湯をかけようとすると、ふいに背後から両手を取られた。

「・・・頼むから、大人しくしてくれ、憲。それ以上は傷に障る」

 両手首を、確かな力につなぎ止められる。

 ぴちゃん、と額に生暖かな水滴が落ちた。
 誘われて見上げると、思わぬ近さに、勝己の顔があった。
 視界に映るのは、さかさまの、勝己。
 短く刈り込まれた髪はずぶ濡れで、額の半分を覆っていた。
 いつもと違う角度から見下ろされているせいなのか。
 尖った鼻梁と長い睫に見とれてしまった。
 引き締まった顎を水が伝い、また、ぽたりと頬に落ちる。


「あ・・・」

 なぜか、声が、出ない。
 逆光の中、瞳が緑に光る。
 端正な顔。
 そして、男の顔だ。
 見たことのない、
 喉の奥が、急に乾いていく。
 息が、出来ない。

「・・・ほらみろ。絆創膏もこんなに濡れて・・・」

 鼓膜を、優しく愛撫する、声。
 立ち上る水蒸気と、入浴剤の芳香、そして勝己との境目が解らなくなってきた。
 狭い空間が、勝己に埋められていく。

「目を閉じてろ。すぐ終わるから」

 気が付いたら、右手はとっくの昔に解放されて湯船に沈められ、軽く左手だけ縁に縫い止められていた。

「左手、また出血しているみたいだから、そのまま下ろすなよ」

 すっと、手首の内側の敏感な部分を軽くなでられてざわりと背筋になにかが走る。

「あ・・・。うん」

 声が、上ずってしまった。
 なぜか、それを恥ずかしいと思ってしまう。
 沸き上がる何かを知りたくなくて、自然と目を閉じた。

「やれよ」

 くいっと顎をそらして、わざと傲慢な兄のふりをする。

「ん。じゃあ、ちょっと待って」

 いつもの、弟の声。
 ふいに、熱が、離れていった。
 思わず追いかけた指先をごまかすように、腕を伸ばして湯船の縁に沿わせた。
 カランを回してシャワーの温度を調節している気配を感じた。
 指先とシャワーの湯が同時に額の生え際に触れた時、思わず肩先を揺らしてしまう。

「あ、ごめん。もしかして熱すぎた?」

 すぐに身を引こうとするのをとどめた。

「いや。目を瞑ってるからちょっと過敏になっただけだ」
「じゃあ、続けても?」
「ああ。さっさとやれよ。だんだん湯だってきた」

 ふっと、吐息を感じる。
 我が儘な自分を、穏やかに笑って許す弟の顔が想像できた。

「わかった。すぐに終わらせる」

 最初と同じく慎重な指づかいで泡を落としていく。

 だけど。
 先ほどのように楽しめない。

 頭皮を滑る指先が、
 流れ落ちる湯が、
 むき出しの神経を刺激する。
 そろりそろりと身体の内側から沸き上がる感覚に耐えきれなくて、思わず奥歯をぎゅっと噛みしめた。
 つま先までじんじんとしびれてくる。

「憲?大丈夫か?」
「ん」

 大丈夫。
 だけど、解らない。

 この感覚は、いったい何だ。
 額が、耳が、首筋が、肩が、まるでぺろりと一枚もっていかれてしまったようだ。
 力を込めないと、何かが唇から溢れてしまいそうな気がした。
 全身をこわばらせてせき止める。
 今は、早く終われと、心の中で強く念じた。
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