秘密の花園 ~光の庭~

犬飼ハルノ

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真神憲二と真神勝巳

無花果-2-(俊一、憲二、勝巳、清乃、父惣一郎、母芳恵、祖母桐谷絹)

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 入れ替わりに茶器が運ばれてきた。

「お茶の一杯も出さずにごめんなさいね。まずは引き合わせたかったから」
「いえ・・・」

 席を示されて、今まで立ちっぱなしだったことに気が付いた。
 当主とも、あろうものが。

「俊一は、とても子供たちの扱いが上手いの。知らなかったでしょう?」
「・・・はい」
「私も、知らなかったわ。おあいこね」

 初夏の光の差し込む部屋の中で向き合う。

「・・・何から話そうかしら」

 改めて、母を見つめた。
 たしか七十歳になったと思うが、柔らかく結い上げられた髪は十分に美しく、きめの細かい肌にはまだ張りがあり、絹、という名をそのまま体現した容姿だった。
 しかし惣一郎自身、物心ついた時から母と暮した記憶がほとんど無い。

「そもそもあなたと私の関係が希薄だったから、会話の糸口を見つけるのにも苦労するわ」

 惣一郎は本宅で親族に養育され、絹は東京の別邸を拠点に真神の妻としての務めを果たしていた。

「いえ・・・そんなことは」

 政財界で活躍する家庭は何処も似たり寄ったりだ。

「いえ、そんなこと、なのよ。事実として」

 コーヒーの芳香が親子の間を包み込む。
 優雅な仕草でカップとソーサーをテーブルに戻した絹は、居住まいを正した。

「勝己を産ませたのも、この一年の生活の全てを取り仕切ったのも、私よ」

 真っ直ぐな眼差しを見返すまでもなく、肯いた。

「そうですね。先ほどのあなたたちを見て、ようやく謎が解けたような気がします」

 一年前。芳恵が妊娠を知らせてきた時に自分はすぐ堕ろすよう命じた。

 迷いはなかった。

 憲二の時に妊娠に気付くのが遅れた。それでも女だと診断され胸をなでおろしたが、実際は違った。同じ轍を踏むつもりはない。

 真神の家に跡取りは一人だけ。
 俊一以外はありえないのだ。

 後継者争いを防ぎ、俊一の未来を輝かしいものにするためにも。

「あなたは男だから、堕ろすなんてちょっと吹き出物を取り除くようなものとでも思って、そんなに簡単に言えたのでしょうね」
「簡単というわけでは・・・」
「いいえ。妊娠初期だから胎児も小さくて簡単な掻爬で後遺症もないだろうだと思っていたでしょう。そんなに甘いものじゃないのよ、あれは」

 深々とため息をつく母に違和感を覚える。

「・・・どうしたのですか?まるで・・・」

 その語り方はまるで、身近なことのように。

「ええそうよ。私は二度経験して、最後にこじらせて後遺症にしばらく苦しんだ」

 一瞬、頭の中が白くなる。
 この人は、いったい何を言い出すのだ。

「十六歳の時に一度、そしてあなたを産んで数年後にもう一度。私は子供を堕ろしたの」
「・・・ちょっと待ってください」
「もちろん、春正の子じゃないわよ」

 衝撃だった。

「このことを知る人は春正で最後。みんな死んでしまったわね、もう」

 絹は物憂げに窓の外へ視線を投げた。
 母の整った横顔を黙って見つめる以外、できることはない。生家の桐谷家は元華族の家柄で今も政財界の要の一つであり、資産に関して言うならば真神以上だ。

「初恋の人と引き裂かれて格下の家に嫁がされ数年後再燃、なんて平凡すぎる筋書きね。そして救いようのない世間知らずだった私は、妊娠してようやく相手の本性に気付いたの」

 男の元から逃げ出し、十六の時秘密裏に処理してくれた病院の戸を再び叩く。しかし今度は失敗し、子供を二度と産めない身体になった。
 皮肉なことにそんな絹を誰よりも大切に扱ってくれたのは、名ばかりの夫と思っていた春正だけだった。
 閉鎖的な田舎の家と、真神を見下していた。
 夫の人となりなんて知ろうともしなかった。
 彼は自分などには過ぎた人だったのに。

「今更春正と愛を育むなんて烏滸がましすぎる。だから真神の妻としての仕事で恩を返すと決めたの。それは今も変わらないわ」

 初めて知る真実に、ようやく惣一郎は両親のこれまでに合点がいった。

「・・・峰岸夕子の墓は、未だにないそうね」

 峰岸夕子。本邸へ家政婦として幼い息子とともに住み込んだ、寡婦。
 父、春正が愛した女性。

「・・・さあ?今まで雇い人がいったいどれだけいたと思っているのですか」

 彼女は若かった。芳恵と変わらぬ歳で、子を宿す可能性が十分ある。何よりも、親子ほど年の離れた愛人など醜聞でしかない。
 だから彼女の排除に影で荷担していた。

「あなたがそんなだから・・・」

 絹は何かを言いかけて、口をつぐむ。
 ふっと息を一つついたあと、姿勢を改めた。

「惣一郎」
「はい」
「芳恵と、子供たちを桐谷にもらって良いかしら?」
「・・・は?」
「あなたがいらないなら、私がもらうわ」
「仰る意味がわかりません」
「桐谷絹の養子に、芳恵および清乃、憲二、勝己を頂きたいと思ってるの」

 もともと芳恵と子供たちを真神から除籍するつもりだった。
 しかし。

「私に、あの子たちを頂戴」

 これは、どういうことだ。

「養子に・・・ですか」

 絹はテーブルの上で組まれた息子の骨張った指を眺める。

「そう。光子と同じことね」

 惣一郎の先妻の光子は、絹の大伯父の養女だ。

 零落した宮家から骨董品と一緒に買い上げ、その性質と容姿が気に入り桐谷本家の娘にして、理想の女に育て上げた。
 知性も気品も全てずば抜けて、光子はまるで天の女王のようだった。
 そしてそんな光子が惣一郎の初恋だった。長い間追い続けようやく手に入れたと思った瞬間に、この世を去った。

「それは・・・」
「あなた、まさか真野に帰して四人を座敷牢にでも入れさせるつもりだったの?」

 椅子に深々と身を預けひじ掛けに頬杖をついて、ずばりと絹が切り込んできだ。

「・・・」

 芳恵の実家の真野は真神に従順な分家だ。
 真野家の経済的支援を約束すれば、日陰者として飼い殺しにさせる事は可能だ。芳恵を一生誰にも嫁さず、子供たちも平々凡々に良くも悪くも目立たない日々を送るよう、指示できる。

「それは、どだい、無理な話よ」

 どこが、とは問いたくなかった。

「子供たちを見たでしょう。清乃も憲二も、俊一に引けを取らないわ。たった一年でフランス語とドイツ語、英語をある程度理解できるようになってしまった」

 先ほど聞いた歌も、口にした絵本の題名も、ほぼ完璧な発音だった。

「子供の早期教育に熱中する大人の気持ちが、今はよくわかるの。本当に驚異的な吸収力だから」

 たった一年の暮らしで、子どもたちは瞬く間に成長していった。

「・・・子育てが、こんなに楽しいとは知らなかったわ」

 真神と桐谷の重鎮として采配を振るっていた母が、思わぬ言葉を口にする。

「惜しいことをした、と今更ながら後悔しているの。どうして若い頃の私はあなたに向き合おうとしなかったのか」

 なぜ、いまさらそれを。
 ちらりと、心の奥底に暗い炎がともる。

「惣一郎。もう一度言うわ。芳恵たちを頂戴」
「もらって、どうするつもりですか。今更」

「桐谷芳恵として、再嫁させます」
「・・・は?」

「この一年。私達はここでただの隠遁生活をしていたと思うの?もしそうだとしたら、あなたは島国の小さな権力闘争に明け暮れていただけと言うことになるわね」

 昔より芳恵が美しく見えたのは、心的なものではない。
 もともと稀有な存在なのだと母は言う。

 春正同様、過ぎた人なのだとも。

「芳恵を妻として欲しいという申し入れがすでに多くあるの。もちろん子供たちも一緒にね」

 事情を察したセレブリティたちからの正式な求婚を、実名を挙げて打ち明けた。

「どう?彼らのうちのひとりなら、きっと芳恵たちを大切にしてくれるでしょう」

 この人は、いったい何を。

「これで、あなたも余計なことに頭を悩ませなくて良いわね」

 そうすれば真神の息子は、一人になる。

「あなたの、望み通りではなくて?」

 悪くない、話だ。
 ここで、自分が承諾すれば。




 ふいに、強い風が部屋の中を通りすぎていった。

 煽られてはためくレースのカーテンを眺めながら、腕の中の子供の温かさと確かな重みを楽しむ。
 小さな寝息を立てる末息子は、今までの子供たちの中で一番よく眠る。沢山眠って、驚くほどミルクをよく飲み、たまに重たげな瞼を開き、哲学的な瞳で自分を見つめ、真実を問う。

 お前の、求めるものは何なのか、と。


 この山荘に身を置いて一年近く。

 未だに心が定まらない。
 義母が招いてくれた医療従事者の中に心療カウンセラーがいた。彼女は全てを聞き終えた時、夫惣一郎との関係は典型的なドメスティック・バイオレンスの共依存だと指摘した。

 虐げる者と、虐げられる者。
 憎しみと、愛情と、後悔と、哀れみと、そして、破壊への衝動。

 もう既に子供の成長にまで影響を及ぼしており悪循環でしかないと諭されて、納得はした。
 それを断ち切るには互いに離れるしかないと言うことも。
 義母をはじめとする周囲の人々は外の世界へ連れ出して色々な物を見せてくれ、教えてくれ、毎日が優しく過ぎていく。
 子供たちは鮮やかな花が開いたように生き生きとして、特に次男の心の回復と成長は想像以上のもので、何度も嬉しさを噛みしめた。

 だけど。
 この、ぽっかりと空いた穴はどうしたらいいのだろう。

 時には、訪れる客人の中に自分と子供たちに好意を抱き、一緒に暮さないかと持ちかけてくれるありがたい事も何度かあった。誰もが、自分たちにはもったいない、魅力的な人たちばかりだった。きっと、その手を取れば幸せになるに違いない。

 だけど。
 何かが、私の足を掴まえて離さない。
 行ってはならないと、耳元で囁く声が聞こえる。

 お前の、望みは何だ。

 風に乗って、花の香りに紛れて、問いかける声。


「芳恵」

 名を呼ばれて振り向くと、金に輝く鋭い瞳に胸を射貫かれた。

 ・・・惣一郎。
 私の、夫。

 とくん、とくん、と音がして、身体の中の血が一斉に巡りだしたのを感じる。
 時が、この山荘で止まっていた時が、動き始めた。

 ひとあし、ひとあし。
 靴音が近付く。

「芳恵さま、勝己さまはこちらで預かります」

 誰かが、赤ん坊を抱き取り去っていった。
 扉の閉まる音。
 止まった、風。
 空っぽになった、私の腕。

 ぼんやりと立ちすくんでいると、強い力で引き倒された。

 冷たい、床。
 絶対的な、重み。

 今この部屋の全てが、支配される。
 背中に痛みを感じる間もなく、熱い息が降りてきた。

「芳恵」

 彼は、ただ、名前を呼ぶだけ。
 それだけで。
 全てが砕け散った。
 培ってきた知識も、教養も、鍛錬も、そして子供たちへの想いも。

「・・・芳恵」

 荒い息の下、呼ばれるだけで。
 その瞳の中に映るものを、見ただけで。

「芳恵」

 私は、あなたの女に、戻ってしまう。

「あなた・・・」

 私の、あなた。
 たったひとりの、ひと。

 私の、望みは・・・。

 震える指先で、愛しい人の、輪郭を確かめる。
 


 あの、午後の日。

 別れるために向かった初夏の園で。

 自分は選択を誤ったのだろうか。

 妻も、子供たちも手放していれば、違った未来が待っていたのだろうか。
 実際、母との会話の最後はその流れになった。
 芳恵を手放せと子供のように諭され頭に血を上らせた自分は、言われずともと、離婚届をテーブルに叩きつけて部屋を辞した。
 そのまま誰にも会わずに帰れと背中にかけられた瞬間、破壊衝動が沸き起こった。
 うまく母に取り入ってぬくぬくと生きるあの女に何か一言言ってやらねば、腹の虫が治まらない。
 自分の元では枯れた花のようだったくせに、今は瑞々しく輝く芳恵が、憎い。
 そんなに、真神は苦痛だったか。
 足は、真っ直ぐに芳恵の部屋へ向かった。
 
 しかし、いくつもの扉を開いて進むうちに沸騰した頭もさすがに冷えてくる。
 このまま、進んで良いのか。
 会わずに、帰るべきではないのか。
 迷うけれど、とうとう最後の扉に手をかけてしまった。
 薄い緑と白を基調とした清らかな部屋の真ん中に、聖女がいた。
 白いおくるみの中の赤ん坊をあやしながら、うっすらと目を伏せるその横顔は、今まで見たどの宗教画よりも崇高で、美しかった。
 長い黒髪も、形の良い白い額も、長い睫も、細い体躯も、儚げな面差しも、既にこの世のものではなく、まるで天の国へ属しているのではないのかと錯覚するほどに危うい。

 だけど。
 あれは、俺の女だ。
 今までも、これから先も。

 その欲望が、天上から地上へと引きずり下ろす。

「芳恵」

 声が、みっともなく震えた。
 無意識に握った拳に力を入れる。
 聖女が、振り向いた。
 見つめ合った瞬間、彼女の中がゆっくり変わるのを感じる。
 とくん、とくんと、鼓動が聞こえる。
 もはやそれが自分の心臓の音なのか、彼女のものなのかわからない。
 ただ、互いに、目を離せなかった。

 ひとあし、ひとあし。
 足を進めて近付く横から、他人が入り込む。

「芳恵さま、勝己さまはこちらで預かります」

 見知らぬ女が赤ん坊を奪い取り、去った。
 扉が、締まる。
 その瞬間、全てが決まった。
 この館にいる者全ての未来が。
 広い部屋に取り残された芳恵は呆然と目を見開いたまま動かない。
 心の中に、闇が広がり始める。
 腕の中の赤ん坊は、天へ昇るための羽衣だった。
 もう、彼女が天へ帰ることは叶わない。

 腕を掴む。

 ・・・掴まえた。

 床へ引き倒し、獲物を喰らう。

 お前は、俺のものだ。

 それを、教え込むために。

 二度と空を飛ぶ夢を見せない。
 心の翼をもいで、自由の足を折り、新鮮な空気を奪う。
 ひとかけらも、あまさず、喰らった。

 お前は、俺のもの。

 爪のひとかけらたりとも、だれにも渡さない。

 それがたとえ、神であろうとも。


 獣が、吠える。

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