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第3章 光と影の女たち / Goddess in the Doorway

第29話 越境

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フレームを挟んで伸ばした両手が、確かにリゼの肩を掴んでいた。
その事実を理解するまでに、数秒以上の沈黙が落ちた。

「……ッ」

ユウは息を詰め、手を離すこともできずに固まっていた。

リゼもまた、目を大きく見開いたまま、瞬きすら忘れている。

驚きで心臓が跳ねる。
けれど、それ以上に指先へ伝わってくる感触が、頭を真っ白にしていく。

「……ッ」

細い。

思っていたよりもずっと華奢で、軽く握っただけで壊れてしまいそうな肩。

それでいて、薄布越しに伝わる温かさは、掌をじんわりと痺れさせる。

骨の線がはっきりとわかるほど繊細なのに、そこに確かに生きている重みがあった。

ユウの手がほんのわずかに強まる。
その瞬間、リゼの肩が小さくびくりと震え、押し返すように緊張した。

ふわりと甘い香りまで鼻腔をかすめ、息が止まる。

──これが、リゼの身体の感触。現実だと信じられないのに、幻だと否定できない。

「……これって……」

リゼが掠れるように声を漏らす。
頬がわずかに紅潮し、瞳が揺れていた。

ユウもまた必死に言葉を探すが、喉が張り付いてうまく声にならない。

フレームが低く唸り、縁にノイズが走った。

境界が壊れかけている。
それでもユウの掌には、まだ彼女の柔らかく華奢な肩の感触が残っていた。

「ユウ……これは……」

「……ッわからないよ。でも……」

リゼは一度、長いまつ毛を伏せ、僅かに肩を揺らす。その動きが掌の中に伝わって、ユウは胸を焼かれるように熱くした。

次の瞬間、フレームが大きく軋み、電子音が弾ける。

ユウは慌てて手を離した。
リゼも後ずさるように一歩下がる。

途端にノイズは収まり、フレームは安定した。

けれど、残った感覚だけは──いつまでも掌から消えてくれなかった。



ジャーマンメタルのリフが轟く店内。
寸胴の湯気が立ちのぼる中、店主はお玉でかき混ぜるのを止めた。

スープの表面が、一瞬だけ不自然に波打った。
外気の揺らぎではない。目に見えぬ“何か”が、店内を撫でていった感覚。

「……今のは」

低く呟き、視線を吊り戸棚の上に据え付けられた古い紙へ向ける。
そこには、レシピではない、術式が淡く光っていた。

店主は眉間に皺を寄せ、ゆっくりと手を止めた。
厨房の空気が、ジャーマンメタルの轟音とは無関係に、重たく張りつめていく。

「……誰かが、“越えて”やがるな」

湯気の奥に沈むように、低く吐息を漏らすだけだった。

寸胴の蓋をかぶせる音が、金属的に響いた。
その衝撃音は、まるで警鐘のように店内に残響していた。



観測室の蛍光灯は、昼夜を問わず一定の光を放っている。
灰色のカーペットに、機材の低い唸りが重なる。

真宮カオリはモニター群の前に立っていた。
壁一面のスクリーンに、赤い警告ウィンドウが次々と重なっていく。

──異常値検出。フレーム生成波形、規格外。
──観測点:ゼロ。接続ログ:なし。
──シグナル:401。

冷ややかなアラート音が、規則的に鳴り続ける。
真宮は顎に指を当て、数秒だけ目を細めた。

「……出た!今回はデカい!」

オペレーター席に座る若い分析官が不安げに振り返る。

「先生、確認しましたが……観測ログはやはり空白です。バックエンドにも残っていません」

「けれど波形は継続中よ」

真宮は即答する。
画面の端に走る青いグラフは、まぎれもない“生成”の痕跡を描いていた。

通常の術式であれば決して出ないはずの整然としたカーブ。

「これは偶発的な乱れではない……“意志”だ」

言いながら、自分の声がわずかに硬くなるのを感じる。会議室でのやりとりが脳裏をよぎる──“観測点ゼロで映像が得られた”矛盾。

オペレーターが恐る恐る問う。

「……報告しますか? 本部に」

真宮は答えなかった。
代わりに、スクリーンに映る波形を指先でなぞるように見つめる。胸の奥で、嫌な予感が膨らんでいた。

──城野君。

その名前が、思考の中で静かに浮かび上がる。
確証はない。だが、あの少年だけが「視てしまっている」。

彼だけが、この矛盾の中心にいる可能性がある。
唇を引き結び、真宮は視線を落とした。

「……まだよ」

小さく呟く。
報告すれば、上層部は即座に調査を始めるだろう。だが、それは彼を“対象”に変えてしまう。

静まり返った監視室に、アラートの残響が細く響き続ける。その音は、彼女の胸に重たい圧となって沈んでいた。



夕暮れが石畳を薄紅に染めるころ、ジャスクの三人は依頼帰りの道を歩いていた。

ふと──地面が、ごくわずかに震えた。
揺れと呼ぶには小さい。だが、確かに空気そのものが“軋んだ”感覚。

ナズが足を止め、低く唸った。

「……なんだ、今のは」

ロアは肩越しに振り返り、目を細める。

「魔素の流れが乱れた……? でも方向が掴めない。街全体が震えてるみたいだ」

その声音には警戒が滲んでいた。
普段は冷静な彼女の眉間に、わずかな皺が刻まれる。

ナズは苛立ちを隠さず、拳を握る。

「嫌な気配だ。……くるのか?」

だが、次の瞬間。
ハナラがふっと立ち止まり、空を仰いだ。

「……違う」

その声は小さかったが、確信を帯びていた。
彼女の視線は、夕焼けの向こうにある“別の層”を見透かすように揺れている。

「これは……魔術の干渉。でも、ただの術じゃない」

ナズとロアが同時に振り返る。
ハナラは唇を噛み、ぽつりと続けた。

「……まさか、あの時のアイツ……?」

風がひときわ強く吹き抜け、瓦屋根の上に積もった砂埃を散らす。三人は互いに言葉を失い、ただ空気の異様さに耳を澄ませていた。

石畳の継ぎ目に小さな砂が跳ね、家々の窓がかすかに鳴る。それは一瞬の出来事だったが、確かに街全体に“残響”が走ったのだ。

人々は振り返り、何が起きたのかと互いに顔を見合わせる。

けれど、答えは誰にも分からない。
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