守っていたいよ。

秋音なお

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守っていたいよ。

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 午前六時。電子音を響かせる目覚まし時計を止めて目を覚ます。
 十一月頭の朝はどこか肌寒くて、目を覚ましたとしてもベッドを出ることを躊躇ってしまう。夏だったら目覚まし時計が鳴る前に目を覚ますことだってあるのに。四季折々、様々な顔を見せてくれるところが日本の風情溢れる長所だけど、秋から冬にかけての朝の寒さだけは許せないと思う。
 一生懸命自分の体に言い聞かせ、気合いと共にガバッとベッドから出た。やっぱり部屋の空気は冷たくて、まだ温かいベッドの中に潜りたくなる。温かく柔らかい誘惑に負けぬようもう一度気合いを入れ直し、僕は寝間着を脱いで洋服へと着替えた。

 午前六時半。お湯で溶かしたインスタントコーヒー二杯と半熟の目玉焼き、トースターで少し焦げた食パンをテーブルに並べる。君は朝食べない派の人だから、コーヒーだけを君が座るテーブルの西側、椅子の前に置いた。
 君はこの時間いつも寝ているから「お先に」とだけ呟いて食パンにかじりつく。熱々の食パンはサクサクで、かじると中から白い湯気がもわっと湧いた。ほのかに鼻腔をくすぐられる感覚が心地いい。一口サイズに食パンをちぎると、それを目玉焼きの目玉の部分へと容赦なく突き刺す。表面の膜が破れると黄身が溢れ、それを食パンが吸い、綺麗な黄身色に染まった。
 同棲して間もない頃に君の教えてくれた食べ方。今じゃ僕がハマって事ある毎にリピートしている。そういう意味では、食パンが黄身で染まったように、僕は君に染まったのかもしれない。
「それ、全然上手くないからね?」
 それを聞いた君からはきっとこんなことを言われるんだろう。口を滑らせないようにしなくちゃ。僕はコーヒーを控えめに啜る。目の覚める感覚があった。

 午前七時。僕は自室の机に座っていた。僕の始業時間はよく早いと言われる。僕のような在宅ワークで、なおかつ自分で勤務時間を決めることのできる職種ならば、朝をもっとゆっくりと嗜むことも、或いは仕事を全て夜の僕に託すことだってできる。でも、僕は自分の意思で朝早くからこの仕事を始めていた。大体朝は七時くらいから始め、終わりは夜の九時を過ぎることもよくあった。一日の半分以上を仕事に費やしていた。
 僕の仕事は、簡単に言うと小説家だ。
 流行りの名作を書けるほど、能もなければ知名度もなかったが、一部のマニアのような読書家からは不思議と好まれていた。僕自身、僕の書いた作品は全て恣意的な理由や経路で書かれたものばかりで、そんなものが価値を持って売れ、受け入れられている現状は不思議に思う。未だにこの感覚に慣れない。
 また、僕がそんな作風を得意としているのもあって、僕には雑誌の連載や締切のある原稿がなかった。僕の気の向くまま、思い立ったままに原稿を書き、ひとつの作品が生まれる度に担当編集者へとメールで原稿を送っている。そんな縛りのない仕事体制だったけれど、僕は毎日欠かすことなく机に向かっていた。単純に僕は文章を書くこと自体が好きだった。文字通り、愛していたのかもしれない。
 起承転結を基盤に物語を膨らませ、骨組みとなったストーリー軸へ肉付けのように文章を纏わせ、味気ない部分にはまたひとつと言葉を付け足していく。そうして色付けされた後は言葉の流れの悪い部分へヤスリがけのような校閲を行い、形を整える。そうして作品を生み出していく、創作という行為が完成する。
 最近はもっぱら君のことばかりを書いていて、読み直した時は恥ずかしいくらいに僕の思いが曝け出されている現状に思わず涙が滲んでしまった。そんな色をした短編小説はパソコンのファイルの中にたくさん存在する。その数がひとつずつ増えていく工程を僕は嬉しく思う反面、それと同時にそれだけの時間が経過しているという事実に、不均等な胸騒ぎを覚えていた。

 午後九時。今日の執筆が終わった。パソコンの電源を落とした際、僕の中にある仕事スイッチも同時にオフになったのか、ぐーっと腹が鳴る。そういえば、今日は仕事に熱中するあまりに昼食の存在を忘れていた。体は完全にエネルギー不足になっていたらしく、立ち上がることすらも億劫に思える。マグカップに残っていたコーヒーを飲み干し、ゆっくりと立ち上がって部屋を出た。
 リビングは静かだった。テーブルには口のつけられていない、冷めたコーヒーの入ったマグカップがちんまりと佇んでいる。僕はそれを見ないように避けて通り、キッチンへと向かった。何か作るのも面倒だと思って、買い置きしていたカップラーメンを食べた。お湯を注いで作ったはずなのにあまり温かく思えなくて、それがどうも虚しく思えて半分以上残したままゴミ箱へ捨てた。
 腹よりも先に満たすべきものがあることを思い出す。だけど満たすための術なんてもうない。ただこの悴んだ心だけはなんとしても早急に温める必要があると思い、バスルームへと向かった。粗雑に服を脱ぎ捨て、下着も剥いでシャワーの蛇口をひねる。冷たい水が勢いよく降り注ぐ。そしてそれは時間が経つと共に温まり、電子パネルに表示された42℃になった。
 でも足りない。まだ冷たい。
 ちっとも温かくない。
 全然、この心が温まらない。
 設定温度を変えたらいいのか、水量を増やせばいいのか、
 それとも或いは……
「シャワーじゃなくてちゃんと湯船に浸かろうよ」
 君の声がした、ような気がした。周りには君おろか人の気配がしない。あたりまえだ、君はもういないのだから。今もずっと、流れるシャワーの水音だけがこの狭い空間を反射している。都合のいい空耳だ、こんなの。いや、都合のいい空耳だとしてもかまわないから。

 もう少し、なんとなくでも守っていたいよ。

 シャワーの蛇口を反対に回して水を止める。体を拭き、一度服を着て浴槽を洗う。何も考えずに手だけを動かす。
 理由なんて今の僕は口に出す必要がないと思った。

 午後十時。湯船に浸かりながら、僕は君のことをぼやけた輪郭くらいの明度で思い出している。
 君は半年くらい前に亡くなった。原因は流行病で、一週間もしないで亡くなった。君の名前はさくらという春らしい綺麗な名前だったけど、そんな名前らしく春風に揉まれるよう、あっという間に消えてしまった。その日からずっと、僕は今日のような日常を繰り返している。
 毎朝飲まれるはずもないコーヒーを淹れて、寝坊助な君が起きてくるのを待っている。そして毎晩、そのコーヒーが減らない現実に残酷さを覚え、悴む。
 だからそんな日々を埋めるように何度でも君を書いた。それまでの僕は、毎日ほんの数時間しか小説を書かなかったし、残りの時間は基本君との日常のために使っていた。文章を書くのが好きだから部屋にこもってまで執筆していたなんて嘘だ。いや、文章を書くことが好きであること自体は本当だ。でも、一日の半分以上を執筆に充てる理由にはならない。ずっと小説に向き合うのは、君を失った喪失感から目を背けるためだ。
 だから何度でも君を書いた。
 君を題材にした小説が増える度、形として君を残すことのできた達成感があったが、それと共にこれは自己満にしかならないのではないかという虚無感に苛まれた。そうして一歩も進めないまま、時間ばかりが過ぎていく。

「半熟の目玉焼きにトーストを絡めると美味しいよ」
「ブラックコーヒーばかり飲まないようにしよう」
「朝が苦手でもちゃんと起きるようにしよう」
「仕事は根を詰めすぎないようにしよう」
「お昼ごはんも大事だから忘れないようにしよう」
「こたつを独占するのはやめよう」
「カップラーメンはあまり食べないようにしよう」
「散歩に行く時は財布を持っていこう」
「毎晩シャワーじゃなくて、ちゃんと湯船に浸かろう」
「寒い日は二人寄り添って過ごそう」
「水曜日と日曜日は狭いけど一緒のベッドで寝よう」

 この家には君の姿がまだ透けて見える。足跡が残りすぎている。君の部屋だって、ドアを開けたらあの日から何も変わっていないんだ。時間は止まったまま。僕が進みたくないなら、僕だって進まなくたっていいのかもしれない。抗ってもいいんだろう、きっと。世界と同じ歩幅で歩く必要なんてきっとないから。正解なんて、ひとつだけじゃないだろうから。

 明日はどんな風に生きようか。
 部屋にこもって執筆ばかりするのをやめてみようか。
 君の部屋の掃除でもしてみようか。
 コーヒーを一人分しか淹れないようにしてみようか。
 久しぶりにコンビニでお酒でも買って飲もうか。

 でもやっぱり、今日みたいな何の進展もない日々を繰り返してしまうんだろうか。

 答えのない予定を立てて、消してはまた立て、わからなくなって全部を消す。一度染まってしまったら元に戻れない。それは、こういうことだったのだろうか。今朝食べた食パンを思い浮かべ、ため息をひとつつく。
 やっぱり明日は外へ出よう。この部屋からは君の匂いばかりがするから。そういえば河川敷のコスモスが綺麗に咲いているって担当編集者さんが言ってたっけ。風にさらわれてしまう前に見るのもいいかもしれない。花に風って、昔の人はよく言っていたから。
 僕は湯船の中で膨らんだ空気を漏らすようにはぁ、と息を吐いた。窓が曇るほどの温もりにまた君の色が見えそうになる。
 君の言った通り、シャワーよりも湯船に浸かる方がいいと思った。
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