泣いたふりをした。

秋音なお

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泣いたふりをした。

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 それは、或る暑い暑い平日のこと。私はただ、木製のリビングテーブルの縁にぽつりと座っていた。窓から差し込んだ太陽光が私の体を通り抜けて辺りを乱反射する。世界は相変わらず目に滲みるくらいに眩しい。よくある夏の一部始終に辟易しつつ、私はぼんやりとそれを眺めていた。
 私の正体は、ただのガラスコップである。
 量販店へと出向けば大抵の場所で見つけられる、あのごくありふれたガラスコップだ。無色透明で円柱状の輪郭をした、それ以外に特別言い表しようもないような、平凡なガラスコップである。中身の注がれていない空っぽの私は、今日もこの不変の世界のオブジェとしてぼんやりと時間の流れに身を任せていた。
 私にとってこの世界というのは退屈という言葉、その一言に尽きる。なにせ、この家には私と日常を共に過ごしてくれるような、仲間と呼べる存在が居なかった。ここの家主は独り身であり、尚且つミニマリストと呼ばれる人種だ。そもそもに家に家具や雑貨が数える程にしか揃っておらず、飲用食器に関しては、ガラスコップの私と、ブルーのマグカップの二人だけだった。そして、このマグカップというのはあまり使われない、選ばれない側。私は毎日水道水を注がれ、家主の口づけを受けていたが、彼は月に数回、珈琲を嗜む時にしか棚から出されなかった。常時狭い棚ではなく、外の世界に腰を下ろす私と違って。だが、開放的な空間だと言うのに私はあまり喜べなかった。私にとっては、マグカップの生き方の方が羨ましくてたまらなかったのである。それは怠惰的な意ではない。注がれる飲み物の違いである。私はまた、半年前にマグカップと交わした会話のことを思い出していた。

『やぁ、君はここに来てもうしばらくだが、どんな飲み物の声を聞いたんだい?』
『飲み物の、声……?』
『おや、その様子じゃ、君はまだ飲み物の声を聞いたことがないようだね』
『ええ、そうよ。私に注がれるのは、貴方と違っていつも水道水の一択なんですもの。声をかけたところできっと答えてもくれませんわ。第一、声をかけようだなんて思ったことすらありませんから』
『そりゃあ、声の存在を知らないのならば無理もないね。それに、水道水は人間の叡智のせいで死んでしまっているもの。もし君がこれまでに声をかけていたとしたって返事のひとつも示してくれやしなかっただろう。なにせ、水道水というのは死んでしまったも同然だからね』
『そういう貴方は、聞いたことがありますの?』
『愚問だね、勿論だとも。僕は家主が珈琲を注ぎ入れる度に、言葉を幾つも交わしていくのさ』
『そうなの? 意外だわ。珈琲なんて元をたどれば私にも注がれる水道水なのに』
『たしかにそうだね。メカニズムもカラクリも、僕には理解できないが、何かしらの味や香りを含んだ飲み物であれば声を聞くことができるようなんだ。それは君が言ったように、媒体に水道水が使われていたとしても、ね』
『そうなのね。ってことは、貴方はこれまでに珈琲以外の声も聞いたことがあるの?』
『勿論さ。……とは言っても多いわけではないけれどね。紅茶にミルク、あとはハーブティーの類かな。紅茶に関しては、アールグレイにルイボス、様々な子達の声を聞いたものだ』
『素敵ね。私には縁のない話だけれど』
『そうかな、最近は珈琲とばかりしか話せていないよ?』
『いいじゃない。それでも私にとってはそれも贅沢な悩みに見えるわ。その機会、私にしたら喉から手が出る程に欲しいのよ』
『君にはそうかもしれないけれど、僕にとってはこれはこれでひとつの悩みなのさ。珈琲は苦味の強い味をしてるからね、性格も口調も同様に悪い方向に強いんだ。今では珈琲を注がれるであろう週末が来る度に、億劫な気持ちになるよ』
『そうなの? でも、やっぱり私はそれでもいいからお話がしてみたいわ。ずっと独りで世界を眺めるばかりの人生じゃ、つまらないの一言でしょう?』
『君の言う通りだ。でも安心したまえ。きっと夏が近づけば、君のその願いも叶うよ』
『……どうして? 夏にはなにか特別なものがあるとでも言うの?』
『あぁ、勿論だとも。だがこれは夏までのお楽しみさ。首を長くして待つといい。夏になればきっと、僕の言った言葉の意味がわかるさ』

 昨日のことのようにマグカップの言葉を脳裏で繰り返した。私にとって初めての夏が来たのは一か月前。テレビから真夏日なんて言葉を聞く度に胸が踊ったが、それも最初のうちだけだった。家主はちっとも水道水以外の液体を私に注いでくれない。期待と諦めが半々に私を占めていた。私の体だけが、光の差す度にキラキラと反射した。
 そしてそれは、太陽が空の頂点へと昇りつめた頃、突然の出来事だった。
 家主が太陽光から私を遮るように立つと手元で紙パックの口を開け、それを私の頭にめがけて傾けてきた。どっどっどっ、と暴力的に冷たく橙色をした液体が体の中に注ぎ込まれる。冬に注がれた水道水なんかよりもずっとずっと冷たい感覚に畏怖のような感覚を覚えた。慣れない感覚に怯えた私が顔をしかめると、私の奥から響くように中低音の声がした。
「驚かせてしまったみたいだね」
 それが耳に入った瞬間、頬に熱を感じた。
 追い求め、心待ちにしていた瞬間の幕開けである。
「この声は、もしかして……!」
「あぁ、もしかしなくとも、君に注がれた僕の声だ」
 中身を見ることのできない私には、声しか彼を知る方法がなかったが、ただひとつ言えるのは優しい雰囲気だということだった。声が柔らかく、温もりを帯びている。
「貴方、お名前はなんて言うの?」
「これは失礼。まだ自己紹介がまだだったね。僕はオレンジジュース。遠く離れた温暖な気候の島国から来たんだ」
「オレンジ、ジュース……」
 その飲み物の存在は知っていたというのにいざ目の前にするとそれはひどく華やかで高貴なものに見えた。私好みの声も冷えた体に心地いい。頬の緩む感覚を覚えた。そんな私の表情を見抜いたのか、家主は欠伸を噛み殺しながらキッチンを後にした。
「私、実はこうやって飲み物の声を聞くのが初めてなの」
「あれ、そうなのかい?」
「ええ。今までは水道水しか注がれたことがなくて。水道水はどんなに声をかけても死んだように答えてくれないの」
「そうだったんだね。とても残念なことだ」
「でももういいの。今までの私がそうであったとしても、今の私には貴方、オレンジジュースがいる。貴方に出会うことができたのだから、私はこれで良かったと思うわ」
「そう言ってもらえると注がれた甲斐があったものだ」
「ずっとここに居てほしいくらいだもの」
「…………たしかに、ここに居たいくらいだ」
 声のトーンが、すん、と暗くなる。
「……どうしたの?」
「え、……あぁ、いや、なんでもないさ」
「そう? それならいいんだけど」
 初対面で深追いは良くないと思った私は胸の高揚に任せて話を続けた。話さえできれば、私の心は満たされると思っていたのである。

「ところで次は、君の話を聞かせてはくれないかい?」
「……私の話?」
「あぁ。というのも、僕は故郷のことは知っていても、他のことはほとんど知らないんだ。気づけば僕はさっきの狭い容器の中に詰め込まれていたし、やっと解放されたかと思えばもうこの有様だ。僕には君が羨ましいよ。だから、もしよかったら君の知ってるこの世界のことを、片隅だけでも構わないから教えてはくれないかい?」
「ええ、私なんかでもいいなら、勿論よ」
 二つ返事で私は応じると、この目で見て脳に記録した世界の景色を、紙に色を乗せるように言葉で彩り、表した。

 底冷えた空気を雪が舞い、降り積もり、押し固まり、やがてそれが溶けて草木の茂らせる輪廻をはじめとした、世界の理を話すとその言葉のひとつひとつに彼は頷き、相槌を挟んだ。その声には感嘆が含まれており、もしも彼に顔があるとすれば、きっと目は見開かれ、口元は綻び、鮮やかな色彩を帯びていただろう。そんな反応すらも新鮮で、それらは私の胸を打った。
「君は本当にたくさんの物事を知っているね」
「そうかしら。きっと私が知っている世界も、ほんの少しの片隅だけよ」
「…………本当に、羨ましい限りだ」
「もう、あんまり言わないでよ、照れるじゃない」
 言葉の熱にあてられて私の体、表面がじんわりと汗をかく。私はそれをただの結露だと知っていたが、でもそれが結露だと思いたくなかった。結露は私の人生において幾度と経験のあるものであったが、今の私の胸の内はそんなにも落ち着いた状態ではなかったのである。だからこそ、これこそ特別なものだと思いたかった。
「……あのね。私、貴方のことを好きになってしまったみたいなの」
 思いというのは秘めておくことを美徳だと言われるが、私の場合はするりとこぼれてしまった。中身の透けて見えるような体では、内側に留めておくことも難しかったのである。
「だから、このままここでずっと……」
「…………ずっと、なんてあるわけがないだろう」
 彼は初めて、拒否するように冷たく言葉を吐く。それは私の高揚を遮る雨雲のようだった。さっきまで全肯定で相槌を挟んでいた彼の黒い顔。
「……どうして」
 私には、彼の裏側の意図がわからない。
「……今にきっとわかるよ」
「え?」
「簡単なことさ。君は飲み物を受け止めるガラスコップで」
 私の背後で何者かの気配を感じる。
 嫌な予感がした。

「僕は所詮、ただのオレンジジュースだ」

 気配というのは、家主のものだった。家主はひょいっと私を掴むと頭の縁に口をつけ、テーブルと平行になるくらいに傾けた。勢いよく体からオレンジジュースが流れ出ていく。家主の喉が鳴る度、彼が私の中から奪われる。声が出る暇なんてない。あっという間に彼の全てを奪われてしまった。家主はふぅと息をひとつ残し、私をテーブルに置き去りにして出て行く。
 また独りになった。
 世界は再び、つまらなく静かなものになってしまった。さっきまで言葉巧みに色づけていた世界もただの記号、無機物と有機物の集合体にしか見えなくなった。長いこと待ち望んでいたものは想像以上に美しく、温かく、そしてなによりも残酷な有限だった。わかっていたのに、思うままに舞い上がっていた私が馬鹿だった。体に残ったのは結露だけ。それらが集まり大きな水の塊となり、体を伝う。涙だなんて表すことができれば、まだそれもひとつの風情なんだろうけどこれもどうせただの水滴だ。時間が経てば気化してなかったことになる。体内に残った微かな橙も、しばらくすれば家主の手によって洗われ、水道水で上書きされる。私の心惹かれた彼がここに居た証全てが攫われていく。なんてひどい仕打ちだ。私は何もしていないのに。ただ、心惹かれただけだというのに。
「……せっかく、貴方に会えたのに」
 カタカタと体の芯がひどく小刻みに震え始めた。感情を容器という体では保てないほどに抱え込んでしまった結果、溢れかえってしまったのである。薄い硝子の壁では耐えることのできない悲痛。それはこんなにも劈くように痛いのか。

 ああ、運命というのはこんなにも理不尽なのか!
 出会うだけ損ではないか!

 過ぎていく彼らに対して、私はずっと忘れないのだ。
 ずっと抱え、後生を歩んでいくのだ。
 なんて報われない運命なんだ。
 この体に生まれてしまったのは間違いなのか。
 否、そんなはずはない、なにせ。

「貴方に会えたことは、本当に良かったのだから」

 ピキっと表面で乾いた音がした。左胸を起点とするように、放射線状に体へと亀裂が入った。完全には割れなかったにしろ、容器としての機能は失ってしまった。体の三分の一を占めるように走る亀裂は、最後まで消えることの無い、亡き彼への存在証明のようだ。それが嬉しくて嬉しくて体中から雫が滴り落ち、生涯が報われるように感じた。もうゴミだと呼ばれたって構わない。いっそゴミだと言って眠らせてくれ。

「私はこのまま死ぬからいいのよ」

 私は小さく呟くと、幕引きのように瞼を閉じる。
 棚の向こうで呆然と口を開くマグカップに気づかないふりをして、私はあえて無言を貫いた。
 もういないはずの彼の酸味が亀裂に滲みる。
 テーブルには、小さな水溜まりができていた。
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