織田信長 -尾州払暁-

藪から犬

文字の大きさ
17 / 100
第一章 うつろの気

十七

しおりを挟む
 雨が降り始めていた。
 殿軍から離れていくなかで、信長は自分を守って倒れていく者たちを何度も何度も目にした。
 敵を叩き伏せ、「見たか。織田信長の軍は、三間半の長槍だ」とはしゃいだ者が、次の瞬間には後ろから組み伏せられて首を獲られた。「那古屋へならこちらが近道です」と道案内を買って出た者が、次の瞬間には弓に射かけられて倒れた。
 死に行く誰も彼もが、信長のよく知る者たちだった。いつだったか相撲大会で信長に声援を飛ばした者。百姓の子で、村へ遊びにきた信長に飯を振舞ってくれた者。訳ありげで家族の話を決して語らない身なりの小奇麗な者。実に十人十色だったが、一貫しているのは、命を捨ててでも信長を生かそうとする志だった。
 しかし、横山から南西へ逃げ続けて平針ひらばりというところまできた信長本隊は、ここでついに敵勢に追いつかれてしまった。
『本当に勇敢な武士なら敵に捕まる前に腹を切る』
 かつて父の面前で義兄を指して放った言葉が、信長自身の身に跳ね返ってきていた。
『恒興はもう死んだだろうか? オレも覚悟を決めようか。こいつらを失って生き残ったとしても、織田信長は何もできないだろう。家中での評判はいよいよ地に落ち、自分を信頼する者ばかり悉く死なせて、これで「今川に勝つ」などとは、嘲笑されるのも当然の、まごうことなき大うつけ。無様に首を晒されてしまうのが似合いの醜態に間違いないが、しかし、それで倒れた者たちが生き返るわけでもないのだから、アア、救いがない。「死のうは一定」とは言ったものの、あまりに、あまりにそうだ』
 雷が鳴った。
 敵兵は槍への落雷を恐れて及び腰。さが、信長はなりふり構わず槍を振い、迫ってきた敵を一人突き伏せたが、何の感動もなかった。信長はもはや丹羽氏識の軍勢などとは戦ってはいなかった。敗戦の屈辱と仲間を死なせた恥だけがその胸に波のように押し寄せて、何遍もめぐりくる切腹の欲望を抑えつけるためだけに、腕を動かしているに過ぎなかった。
 反転して死に物狂いで襲いかかると、敵にいくらか隙ができたので、そこからまた逃げた。再び敵に追いつかれたが、また仲間が犠牲となり、幾ばくか命をつないだ。しかし、まだ追いつかれて、ついには馬がやられた。最後の力で付近の林へ逃げ込んで隠れたとき、もう信長のまわりには数名の従者しか残っていなかった。
「悪さばかりして育った所為かな。戦うことより逃げることの方がよほど熟練しているよ。コレも「武士の心得ではない」と平手に叱られるな」
 半ば命を捨てているからこそ口をついて出た軽薄な言葉に、信長に付き従う者たちが笑った。
 もう、命数はつきた。その場にいた全員がそう思ったのだろう。雨が強まるにつれて、皆もたれていた木々からずり落ちるようにして、そのまま気を失った。

 すこし時を遡り、信長が横山の麓で開戦したのと同じ頃、林兄弟の居城・沖村おきむら城では、那古野から戻った林道具が兄の秀貞に対面していた。
「行ってしまったというわけか。信長さまは」
「はい」
 秀貞は道具に向き直らず、粛々と茶を点てている。
「あの方は、そういう人だな」
「うつけと呼ばれる所以です」
「平手殿も心労が耐えぬであろうな」
「よく仰います。アレの世話を平手一人に押し付けたのは他ならぬ兄者ではないですか」
 秀貞は信長元服の際に信長に付けられた一番家老だったが、一貫して信長への干渉を控えていた。少なくとも、平手の奔走ぶりに比べれば、そうだった。
「あの人は誰が何を言っても変わらぬよ。儂には、それが一目見たときに分かったのだ。鞘のない抜き身の刀。触れれば忽ちこの身が切れよう。そして、それならそれでいいと思っている。儂は平手殿とは違うのでな。あの人を立派な当主になどという想いは、鼻からない」
「よくもまあ、次から次へと言葉が出てくるものです。しかし、兄者の心配も、そして平手の心労も、明日からは消えてなくなりましょう」
 嫌な予感がして、秀貞はようやく弟に向いた。その朗らかなもったいぶった口ぶりは、昔から、弟が悪さをするときの口だと決まっていたからだ。
「どういうことか」
 道具は、秀貞から差し出された茶をくいと飲んで、フと息を吐いた。
「実は、平手のところへ間者の件を伝えに行く前日、岩崎城の丹羽氏識に、信長が来るだろうことを伝えてやりました。私の鉄砲隊を貸し付けてね」
「なに?」
 道具はこめかみに指を擦り付け、滔々と語り出す。
「那古屋から岩崎へ至るには、横山の麓の道を縦隊で通るしかない。側面の山上から撃ち降ろせばうつけには成す術がないでしょう。間者が信長の元へ辿りついていれば良し。そうでなければ、焚きつけてやろうとも思っていましたがね」
「道具、貴様、何ということを、」
「これで、もうあのうつけに弾正忠家を引っ掻き回されることもない。そして、平手は面目を失って失脚。兄者の地位も盤石というわけです」
 元々弾正忠家の文官の双璧とも言うべき林秀貞と平手政秀だが、美濃との和睦が成って以降は平手の方がややその権勢を強めていたと言っていい。
「このようなやり口は、信秀さまの望むところではない」
「主の命にただ唯々諾々と従うのは忠義に非ず。家を守る為にはこういった事も必要でしょう。出る杭は叩くと言うが私に言わせればそれでは足りない。歪んだ形の杭は幾度丁寧に叩いてやってもまた出てくるものです。抜き去って、捨ててしまわなければいけません」
 弾正忠家中において信長の排除を志向する者には二通りがいた。「大うつけ」の評に賛同し、愚直に家の未来を憂うが故の者と、信長という危うい人格に本能的な嫌悪を抱く者たちである。道具は後者だった。
 秀貞は弟のその反発心すら見抜いていた。生まれてこの方ほとんど戦場に立たなかったこの男は、それ故に、常に他人を骨の髄まで観察し、楽しむ性分があった。信秀配下にて、情を以て他者を説き伏せる陽の官吏を平手政秀とするなら、知を巡らせ家の危険を粛々と未然に取り除く陰の官吏が林秀貞だった。
「つぎに事を起こすときは、必ず儂に断りを入れよ」
 秀貞はそう言って立ち去ったが、その後ろ姿に向け、、
「心配には及びませんよ。私はただ林家の、そして兄上の栄達を一心に願う者です」
 と道具が笑いかける。一つの大仕事を終えて尊大になった様子。兄の忠告が、自分の才略への嫉妬から生じた牽制だという風に愉快な曲解していた。
 秀貞はそれすらすぐに看破したが、もう振り返ることはない。縁に腰かけると、自然に岩崎城の方を向いていた。
「さて、信長さま、ここでさようならですか。それなら、それでもいい。それでもいいが、」
 暗雲に覆われた空から一筋の稲光が落ちた。秀貞はもう独り言のその続きを呟こうとはしなかった。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【アラウコの叫び 】第1巻/16世紀の南米史

ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。 マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、 スペイン勢力内部での覇権争い、 そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。 ※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、 フィクションも混在しています。 また動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。 HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。 公式HP:アラウコの叫び youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス insta:herohero_agency tiktok:herohero_agency

【アラウコの叫び 】第3巻/16世紀の南米史

ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎週月曜07:20投稿】 3巻からは戦争編になります。 戦物語に関心のある方は、ここから読み始めるのも良いかもしれません。 ※1、2巻は序章的な物語、伝承、風土や生活等事を扱っています。 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。 マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、 スペイン勢力内部での覇権争い、 そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。 ※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、 フィクションも混在しています。 動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。 HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。 公式HP:アラウコの叫び youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス insta:herohero_agency tiktok:herohero_agency

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

戦国終わらず ~家康、夏の陣で討死~

川野遥
歴史・時代
長きに渡る戦国時代も大坂・夏の陣をもって終わりを告げる …はずだった。 まさかの大逆転、豊臣勢が真田の活躍もありまさかの逆襲で徳川家康と秀忠を討ち果たし、大坂の陣の勝者に。果たして彼らは新たな秩序を作ることができるのか? 敗北した徳川勢も何とか巻き返しを図ろうとするが、徳川に臣従したはずの大名達が新たな野心を抱き始める。 文治系藩主は頼りなし? 暴れん坊藩主がまさかの活躍? 参考情報一切なし、全てゼロから切り開く戦国ifストーリーが始まる。 更新は週5~6予定です。 ※ノベルアップ+とカクヨムにも掲載しています。

処理中です...