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第二章 台風の目
六
山口教吉の軍勢はおよそ一五〇〇。七〇〇を率いる信長のほぼ二倍だった。
教吉が、三王山に出していた斥候から信長軍の兵力を伝え聞いたとき、まず考えたことは、「一体なぜ、それしきの兵で出撃してきたのか」ということだった。城での攻防は、守り手が有利なのが普通であり、攻め手は守り手の兵力を圧倒しなければならないからである。
「ああ、ウン、やはりな」
赤塚の地へ自ら駆けてきて、教吉は、自分の推測に誤りがなかったことをしっかりと確認した。
見上げる三王山の頂では、今まさに築城作業が進められようとしていたのだ。
『佐久間信盛の山崎砦築城は、我々に、家中のまとまりを感じさせた。一枚岩の織田勢が五〇〇〇を超える大軍で鳴海城を一挙に落としにくるかもしれない、となれば、蓋を閉じた貝の如くに、厳重に籠城するのが肝要だと構えざるを得ない。だが、それこそが織田信長の狙いなのだ』
「そうして腰が引けた隙をつき少数の精鋭でもう一つ付城を築く……。イヤア、油断も隙もない人だ、まったく」
教吉は三王山への築城を阻止すべく兵を進めたが、すると、信長の方も策が露見したことを悟り、築城を諦めて山を降りだした。打って出てきた鳴海城兵を打ち破ってやろう、と方針を変えたらしい。
赤塚で開戦した両者は、矢合わせに始まり一時は激しい乱戦に突入したものの、やがて一進一退の膠着状態に陥った。
信長の率いる七〇〇の精鋭たちは、数の不利を物ともせず奮戦したが、教吉はそれを目にすると、すぐに自軍の兵を後退させた。信長に鳴海城を落とそうという意欲がない以上、乱戦に付き合って自軍の兵を減らすのは下策だと考えたのだ。なるべく人死を出さぬよう、うまく付近の高所へ退き、無理やりに追いすがってきた不注意の織田兵をいくらか討ち取った。
「駄目ですよ。まるきり相手にされちゃいない」
恒興が前線の様子を信長に伝える。
「三王山へ退こうとしたなら、今度は一気呵成に攻めかかってくるのだろうな。奇抜な采配はないが、隙がない」
戦いが長引けば不利になるのは信長であった。
教吉は鳴海城の防衛にだけ集中できるが、信長の方はそうではない。家中の不穏分子がいつ事を起こすか分かりやしないという状況で長く那古屋を空けるのは危険だった。もし鳴海城を相手にいくらかの戦火を上げられたなら、家中を黙らせる材料の一つにもなったのかもしれない。そういう思惑が信長にもないではなかったが、どうも、敵方の良将の所為でそれも見込めないらしい。
「もう、帰りますか」
恒興はケラケラ笑って冗談のように訊ねたが、
「ウン、そうだな」
信長はまったく簡単にそれを受け入れた。
「アレ? 嫌に引き際を心得たものですね。横山の薬が効きすぎましたか」
「なんだ、戦い足りなければキサマには突撃を命じてやってもいいぞ」
「イヤイヤ、馬鹿言っちゃいけません。感心しているのですよ」
恒興は欣喜雀躍の様子。
「そうと決まればサア逃げよう、やれ逃げよう。と行きたいところですが、しかし、撤退も簡単じゃありませんよ。逃げる背中を見逃してくれるという相手ではなさそうだ」
「そうだな」
信長はチラリと傍らに目をやった。
「だが、それにはオレに一つ考えがある」
視線の先には縄目にかけられた教吉軍の捕虜たちの姿。死の淵にある境遇がそうさせるのか、首だけになっても信長を食い殺さんという執念の目を向けている。
「迂闊に背を見せられないなら、堂々と停戦を申し込んでやるまでだ」
信長は捕虜のうちの一人に短い文を持たせて教吉の陣まで届けさせた。
『山口教吉の辣腕が分かったから、今日は撤退させてもらおうと思う。三王山につくりかけた砦はそっちで壊すなり何なりしてくださいな。
互いに捕虜が数十人いますね。こっちでとっ捕まえた荒川又蔵というのはお前さんの右腕だと聞いているぞ。オレを睨み殺さんというものすごい目をしている奴さ。こいつも返すので、お前の方もうちの兵らを返してくれ。
サテ、オレは穏便に済ませたいところだが、お前が条件を飲まなければ、仕方がないので、互いに人質を殺害し、憎みあってのもう一仕合というわけになるだろう。また、馬の刻までに返書を寄越さなければ、その時も人質は一人残らず殺害する』
教吉は受け取った文の内容に悪い気はしなかった。
『このままじっくり戦えば負ける気はしないが、しかし、勝てる気がするかと言われると怪しいものがある。それほどまでに信長軍は強い。それを思えば停戦は悪い条件ではない』
しかし、それでもまだ信長を疑っている。『抜かりはないか、何か見落としている事実はないか』と気が気ではなかった。既に山崎の砦で出し抜かれているだけに慎重だ。
教吉の不安が解消されることはなかったが、時間が迫ると、もう仕方がなかった。
『いいでしょう。これ以上は無益な戦いです。今日はやめにいたしましょう』
両軍が兵を退いた。そして、互いに改めて正面に対陣して向かい合うと、双方、主将自らの合図で一人ずつ捕虜を交換した。それだけではない。行き違いになって相手の陣へ駆け込んでしまった馬や、使用した弓矢なども数えてぴったり交換した。
一しきりの整理が終わり、いよいよ信長軍が撤退し始めるというところ、信長は、突如、彼方の教吉に向かって叫んだ。
「 まずは良い戦だった、山口教吉。だが、フシギだな。これほどの良将が何故今川などに付くのか。まさか「義元の元で出世できる」などと本気で思っているのではあるまい。アレは山口を守りやしないぜ。松平のようにこき使われて死ぬだけだ。どうだ、旧主を相手に戦う健気さを駿河勢に売り込むよりも、怯えながらも大敵を呑む策謀を練って暮らす方が、武士としてよっぽど面白いとは思わないか」
先ほどまでの戦場に起こったどれよりも通った大声が、敵味方の軍勢の中を駆け巡った。その場にいた誰もが、一言一句を聞き洩らさなかった。そして、驚愕した。調略と呼ぶには大胆が過ぎた。
教吉も思わず呆気にとられたが、一つ深呼吸し、
「我が父の裏をかき山崎に砦を築いた手腕は見事。なれど、あまり欲を出せば身を滅ぼすことになりましょうな。一端の口は、まずもって家中をまとめてからしていただきたい」
やや不慣れな叫びではあるものの、堂々と言い返してみせた。
信長はそれを聞くと、「ヤレヤレ、カタい奴だ」と溜息まじりに言って、今度は本当に那古屋へと帰って行った。
信長軍が撤退していく最中も、教吉の緊張が解けることはなかった。
『アレを「大うつけ」だと言うのは容易だ。どこまでが冗談でどこまでが本音か分かったものじゃない。だが、噂に聞くのと直に見るのとでは大きく違う。あの大声は、自分を調略するためのものではなく、大将自ら鳴海の兵の士気を削ぐための振舞いだったのではないか』
敵を追い散らして城へ戻る、いわば勝ったと言えなくもない自軍にどこか元気がないのを見て、教吉はそう思った。
「相も変わらず何をしてくるか分からない人だ。ひどく疲れる。できればもう御免こうむりたい相手だが、そうもいかないものな」
教吉が、三王山に出していた斥候から信長軍の兵力を伝え聞いたとき、まず考えたことは、「一体なぜ、それしきの兵で出撃してきたのか」ということだった。城での攻防は、守り手が有利なのが普通であり、攻め手は守り手の兵力を圧倒しなければならないからである。
「ああ、ウン、やはりな」
赤塚の地へ自ら駆けてきて、教吉は、自分の推測に誤りがなかったことをしっかりと確認した。
見上げる三王山の頂では、今まさに築城作業が進められようとしていたのだ。
『佐久間信盛の山崎砦築城は、我々に、家中のまとまりを感じさせた。一枚岩の織田勢が五〇〇〇を超える大軍で鳴海城を一挙に落としにくるかもしれない、となれば、蓋を閉じた貝の如くに、厳重に籠城するのが肝要だと構えざるを得ない。だが、それこそが織田信長の狙いなのだ』
「そうして腰が引けた隙をつき少数の精鋭でもう一つ付城を築く……。イヤア、油断も隙もない人だ、まったく」
教吉は三王山への築城を阻止すべく兵を進めたが、すると、信長の方も策が露見したことを悟り、築城を諦めて山を降りだした。打って出てきた鳴海城兵を打ち破ってやろう、と方針を変えたらしい。
赤塚で開戦した両者は、矢合わせに始まり一時は激しい乱戦に突入したものの、やがて一進一退の膠着状態に陥った。
信長の率いる七〇〇の精鋭たちは、数の不利を物ともせず奮戦したが、教吉はそれを目にすると、すぐに自軍の兵を後退させた。信長に鳴海城を落とそうという意欲がない以上、乱戦に付き合って自軍の兵を減らすのは下策だと考えたのだ。なるべく人死を出さぬよう、うまく付近の高所へ退き、無理やりに追いすがってきた不注意の織田兵をいくらか討ち取った。
「駄目ですよ。まるきり相手にされちゃいない」
恒興が前線の様子を信長に伝える。
「三王山へ退こうとしたなら、今度は一気呵成に攻めかかってくるのだろうな。奇抜な采配はないが、隙がない」
戦いが長引けば不利になるのは信長であった。
教吉は鳴海城の防衛にだけ集中できるが、信長の方はそうではない。家中の不穏分子がいつ事を起こすか分かりやしないという状況で長く那古屋を空けるのは危険だった。もし鳴海城を相手にいくらかの戦火を上げられたなら、家中を黙らせる材料の一つにもなったのかもしれない。そういう思惑が信長にもないではなかったが、どうも、敵方の良将の所為でそれも見込めないらしい。
「もう、帰りますか」
恒興はケラケラ笑って冗談のように訊ねたが、
「ウン、そうだな」
信長はまったく簡単にそれを受け入れた。
「アレ? 嫌に引き際を心得たものですね。横山の薬が効きすぎましたか」
「なんだ、戦い足りなければキサマには突撃を命じてやってもいいぞ」
「イヤイヤ、馬鹿言っちゃいけません。感心しているのですよ」
恒興は欣喜雀躍の様子。
「そうと決まればサア逃げよう、やれ逃げよう。と行きたいところですが、しかし、撤退も簡単じゃありませんよ。逃げる背中を見逃してくれるという相手ではなさそうだ」
「そうだな」
信長はチラリと傍らに目をやった。
「だが、それにはオレに一つ考えがある」
視線の先には縄目にかけられた教吉軍の捕虜たちの姿。死の淵にある境遇がそうさせるのか、首だけになっても信長を食い殺さんという執念の目を向けている。
「迂闊に背を見せられないなら、堂々と停戦を申し込んでやるまでだ」
信長は捕虜のうちの一人に短い文を持たせて教吉の陣まで届けさせた。
『山口教吉の辣腕が分かったから、今日は撤退させてもらおうと思う。三王山につくりかけた砦はそっちで壊すなり何なりしてくださいな。
互いに捕虜が数十人いますね。こっちでとっ捕まえた荒川又蔵というのはお前さんの右腕だと聞いているぞ。オレを睨み殺さんというものすごい目をしている奴さ。こいつも返すので、お前の方もうちの兵らを返してくれ。
サテ、オレは穏便に済ませたいところだが、お前が条件を飲まなければ、仕方がないので、互いに人質を殺害し、憎みあってのもう一仕合というわけになるだろう。また、馬の刻までに返書を寄越さなければ、その時も人質は一人残らず殺害する』
教吉は受け取った文の内容に悪い気はしなかった。
『このままじっくり戦えば負ける気はしないが、しかし、勝てる気がするかと言われると怪しいものがある。それほどまでに信長軍は強い。それを思えば停戦は悪い条件ではない』
しかし、それでもまだ信長を疑っている。『抜かりはないか、何か見落としている事実はないか』と気が気ではなかった。既に山崎の砦で出し抜かれているだけに慎重だ。
教吉の不安が解消されることはなかったが、時間が迫ると、もう仕方がなかった。
『いいでしょう。これ以上は無益な戦いです。今日はやめにいたしましょう』
両軍が兵を退いた。そして、互いに改めて正面に対陣して向かい合うと、双方、主将自らの合図で一人ずつ捕虜を交換した。それだけではない。行き違いになって相手の陣へ駆け込んでしまった馬や、使用した弓矢なども数えてぴったり交換した。
一しきりの整理が終わり、いよいよ信長軍が撤退し始めるというところ、信長は、突如、彼方の教吉に向かって叫んだ。
「 まずは良い戦だった、山口教吉。だが、フシギだな。これほどの良将が何故今川などに付くのか。まさか「義元の元で出世できる」などと本気で思っているのではあるまい。アレは山口を守りやしないぜ。松平のようにこき使われて死ぬだけだ。どうだ、旧主を相手に戦う健気さを駿河勢に売り込むよりも、怯えながらも大敵を呑む策謀を練って暮らす方が、武士としてよっぽど面白いとは思わないか」
先ほどまでの戦場に起こったどれよりも通った大声が、敵味方の軍勢の中を駆け巡った。その場にいた誰もが、一言一句を聞き洩らさなかった。そして、驚愕した。調略と呼ぶには大胆が過ぎた。
教吉も思わず呆気にとられたが、一つ深呼吸し、
「我が父の裏をかき山崎に砦を築いた手腕は見事。なれど、あまり欲を出せば身を滅ぼすことになりましょうな。一端の口は、まずもって家中をまとめてからしていただきたい」
やや不慣れな叫びではあるものの、堂々と言い返してみせた。
信長はそれを聞くと、「ヤレヤレ、カタい奴だ」と溜息まじりに言って、今度は本当に那古屋へと帰って行った。
信長軍が撤退していく最中も、教吉の緊張が解けることはなかった。
『アレを「大うつけ」だと言うのは容易だ。どこまでが冗談でどこまでが本音か分かったものじゃない。だが、噂に聞くのと直に見るのとでは大きく違う。あの大声は、自分を調略するためのものではなく、大将自ら鳴海の兵の士気を削ぐための振舞いだったのではないか』
敵を追い散らして城へ戻る、いわば勝ったと言えなくもない自軍にどこか元気がないのを見て、教吉はそう思った。
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この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です))