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第二章 台風の目
九
天文二十一年(一五五二年)八月十六日夜、信長は那古屋を出陣し西進、庄内川の川岸で、末森城から来る織田信光の軍勢を待ち、合流した。
「ご助力感謝します、叔父上」
「かわいい甥の頼みだ。無下にはできまい」
信長軍の陣容を目にした信光は、すこし驚いた。
「ホウ。柴田権六勝家がいるではないか。これは百人力」
取っ手付けたような世辞に、勝家は眉を細めながら、ぶっきらぼうに
「拙者は信勝さまの名代にござる」
とだけ言った。
平手から、「戦の折には、家臣の者たちと評定を設け、協力を仰ぐように」と諫言された信長は、そんなもの無視するつもりではあったが、こと今回の戦に関しては、それを逆手にとった。
『松葉・深田の両城が落とされた。人質をとられているから、予断のない状況である。オレは城を取り戻すべく出陣するつもりだ。すでに叔父上(守山城)にも援軍を要請しているが、末森からも兵を割いてくれないか。あなたたちが今川との戦に慎重になるのは、その和平が天子さまの働きかけに拠ったものであるからだと聞いているが、であれば、清洲衆相手の戦には気にするところなど何もなかろうと思う。マア、戦そのものがイヤになったのなら、仕方ないので、我々が城を取り戻すのを見ていられたら、良い』
こんな風に言われると、見え透いた挑発だとはわかりきっていても、形だけでも兵を出さないわけにいかない。何より、信光が出てきているときに何もしなかったとあっては、信勝としても面目が立たない。いくら信長がうつけの殿様だとは言っても、所詮は乱世のことだから、ある程度の武威を示さなければ当主としての器量を疑われてしまう。
そこで信勝は柴田勝家を自らの代理として差し向けた。信勝自らが出陣しない理由は、ハッキリしていた。 未だ初陣を終えていないからである。
初陣というのは、負けると大層縁起が悪いので、大方、勝利の目途が立っている戦場を選ぶもの。そこへいくと、今回のような突発的、また、既に後手にまわってしまっている戦には、およそ適しないと判断される。
ところが、織田信長の小姓のなかには、この戦いを初陣と覚悟を決めてきた若武者が一人居た。
日を跨いだ深更のこと、信長軍が深田・松田の両城へ迫るために渡河を試みたとき、勝家の隊が行軍を止めた。
「この闇では危のうござる。今少し夜が明けるのを待ってはいかがか」
確かに辺りはまだ真っ暗で、ただ夏の蒸し暑い空気から草の匂いがあふれるばかりの河原である。
「駄目だね。敵もそう思っていよう。だからこそ、いま、渡るのだ」
信長は一切取り合わない。そして、闇のなかで「オイ」と、ある一人の男に先導役を命じた。
それこそが、この日初陣となる件の若武者だった。元服し、名を前田利家という。
彼が育った荒子という地は、庄内川の東側沿岸に位置している。尾張国を流れるこの大きな川で信長も物心つく頃より遊び呆けたものだが、とりわけ利家は、生息する蛙の巣穴まではっきり熟知しているほど、川に詳しかったのである。
「信長さまッ、ここいらがもっとも浅いところかと思います」
かくして闇夜に紛れて川を渡り切った信長軍は、そこで、敵を攻めるにあたって兵を三手に分けた。
まずは、松葉・深田の両城を奪還するための二部隊だが、これは配下に任せてある。敵は、両城を急襲し占領したものの、人質を頼るばかりで、未だろくに兵力を未だ整えられていないと見えたからだ。夜のうちに渡河を成功させ、懐に入り込んだ時点で優勢なのは疑いようがなかった。
では、信長・勝家・信光たちが向かうのは? 敵の本城・清洲城であった。松田・深田へ信長軍が攻めかかったのを知れば、必ず清洲城から後詰の兵を出すに違いない。それが分かっているのなら、予めこちらから迎え撃ちに出てやるまでということだ。
早朝、卯の刻を過ぎた頃、清洲城の大膳らは、信長軍の動きを補足した。「深田・松葉の両城に信長軍が襲いかかった」という報せを聞き、はじめ信長もそこに加わっているものだと思ったが、どうやらそうではないらしい。信長が率いる本軍は、後詰め決戦を見越してすでにこちらへと向かって来ているというではないか。
「どういうわけだ、大膳。これほどの大軍とは聞いておらんぞ」
大膳に頼りきりの他の家老衆は、ここぞとばかりに大膳の責を問いただす。
赤塚に出撃した信長の兵がおよそ七〇〇だと聞き及んだ大膳は、弾正忠家の家督争いが起きる匂いを嗅ぎ取って、此度の挙兵を画策したのだが、蓋を開けてみれば目論見外れも良いところ、およそ弾正忠家が持ちうる限りの総力で以て反撃に出てきた。
「黙れ。野良犬の大将が自ら出張ってきたというのだ。討ち獲る好機ではないか」
と、口で言うものの「我こそは」と名乗り出る者はいない。いくら大将がうつけだろうが、大軍を相手にすることに変わりはない。
すると、
「では私が出ましょう。いつぞやの約束を果たして見せますよ。信長の首を獲って参ります」
坂井甚助が名乗りを上げる。
大膳含めた清洲衆は、本音を言えば、山口教継がそうしたように、今川という大勢力と綿密な連携をとって挙兵に及びたかったが、そうそう表立った動きは難しい理屈がある。
清洲衆すなわち清洲織田氏の権威とは、あくまで尾張守護・斯波氏を補佐する守護代という地位にあった。しかし、名分となるはずの肝心の斯波には、これまで今川と熾烈な争いを続けてきた因縁がある。今川と手を組むことなど、現斯波家当主・斯波義統が承諾するはずがないのだ。ましてやその目的が、元を正せばたかだか清洲織田氏の一配下に過ぎなかった勢力の成敗にしかないというのだから。
権威を利用した者は、権威によって縛られる。清洲衆が尾張を牛耳るためにとった大方針そのものが、土壇場で彼らの戦略の幅を狭めているのだった。
「敵は織田信長自らが出てきているぞ。だが、これは勇気ではないな。後先考えられぬうつけの所業だ。首を獲り、冥土の信秀めに送り届けてやれ」
甚助は覚悟を決めて出撃した。
敵はあの大うつけだと、兵たちも皆知っている。しかし、戦争とは、たとえ乱世といえども、平時の動きではない。そして、平時に、仮に「うつけ」だと思われていたものが、戦場でにおいても同じだとは限らない。
辰の刻、萱津と呼ばれる地で戦端が開かれるや否や、信長自らが率いる精鋭七〇〇が一番槍を競いあって敵へ雪崩れ込んだ。信長もその中に加わって奮戦した。およそ総大将の動きとは言えないが、それだけに兵たちの士気は、清洲衆とは比べものにならないほど高い。
すると、
「玉から攻め込む将棋があるか。オイ、あのうつけを死なさぬようにしろ」
それを見た信光は、信長を守るように、自らの兵をさらに前面に押し出していく。
そうなると、はじめ信長の配下として戦うことには気が進まなかった勝家も、黙ってじっとしているわけにはいかなくなった。
『このままいけば勝ちそうだ。どうせ勝ってしまうなら、信勝さまのためにも、手柄をとられるわけにはいくまい』
予め信長の一手に統率されてはいなかったものの、それぞれの思惑が絡み合い、結果として思いもよらぬ怒涛の勢いをもたらした。甚助の率いる兵だけでは抑えられるものではないことは、もはや明白だった。
しかし、それを理解しながらも、甚助は撤退しない。
「下がるな。退くな。逃げれば、死ぬぞ」
撤退の素振りを見せた瞬間にやられる。それほどの猛攻であった。このままでは駄目だと分かってはいても、退けばそれを早めるだけの行為に他ならないことが、分かってしまう。
屈強な使い手が次々に討ち取られ、やがて信長軍が眼前に迫ってくると、甚助は槍をとり自らの最期を悟った。
「押し返せ!」
撤退の目を捨て、寡兵で突撃を敢行した。信光配下の名のある武士を数名討ち取りはしたものの、それが限界、走りよってきた信長軍の一人が甚助を斬りつける。そして、それを離れたところで見ていた勝家、辺りの敵味方を強引に突き飛ばしながら甚助に詰め寄ると、怪力の槍を振り下ろし、首を叩き落とした。
大将が討ち取られた途端、清洲衆は瞬く間に瓦解して勝手に逃走したが、元より甚助が危惧した通り、すんなりと撤退できるものではない。いち早く逃げようとしたものから、信長軍に組み付かれて、散々に討ち取られてしまった。
「クソッ。良将は初陣から手柄を立てるものだ。これでは、いけない!」
さて、走り回っていた利家だが、まだ一つの首級を上げられないままだった。敵が退却すると、いよいよ手柄なしかと落胆したが、その時、
「これより松葉口へ向かう」
信長の下知が下った。
萱津で信長軍が坂井甚助の首級を上げたとき、すでに深田城口では信長軍が敵を打ち破り城の包囲を敷いていた。残るは松葉城口での攻防のみだが、ここでも信長軍は有利に戦を進めている模様だった。
『早く、……早く行かなければ、終わってしまう!』
信長本軍が松葉城へ到着するや否や、利家は再び走り出て、槍を振るった。敵はすでに疲労の色が濃く、信長本軍を相手どる力など残っていなかった。利家といえども萱津で一戦終えた後なのだが、この意気軒高な若者は、すでに気力が肉体を凌駕しており、まるでいま戦が始まったかのような動きを見せる。
しばらく戦った後、奮闘の甲斐あって、利家は見事に首級を一つ上げることができた。
深田・松田両城の城兵はいずれも野戦で打ち崩され、一度は各々の城へと籠ってはみたが、信長本軍が加わった軍容を目にすると籠城の目を失った。城兵らは「完全に包囲される前に」と脱出を試みたが、またそこでもさらに少し討たれ、それでも残った少数の兵らだけが清洲本城へ逃げ帰って行った。
「やるではないか、兄上の戦を見ているようだ。坂井甚助も討ち取った。これで清洲衆はまたしばらく何もできまい。いずれまた向こうから和睦を乞うてくるだろうな」
信光は戦勝を祝して信長に最大の賛辞を贈ったつもりだったが、
「まだです、叔父上。これよりワタシは清州へ向かいます」
「何をするつもりだ」
「仕上げ」
信長は手勢を率いて清洲へと再び急行すると、電光石火で田畑を焼き払った。敵が出撃する間も与えない。
そして、信長は城に向かって叫んだ。
「これがオレの、織田信長の軍だ。和睦など無粋だ、ナア、坂井大膳よ。大嫌いな織田信長に頭を垂れる目は、たったいまオレの手で断ってやったぞ。雌雄を決しようじゃないか」
萱津の戦いは、紛うことなき信長の勝利に結末した。そして、この戦いを皮切りに、「織田信長が大うつけである」という風聞に、少しずつ疑いが投げかけられるようになった。総力を結集した合戦だったから、戦場で直に信長軍の雄姿を目にした者も多かった。
「うつけかどうかはともかく、見た限りでは、戦争の才能はあるようだぞ。もうしばらく好きにやらせてみてはどうかね」
信光はあるとき信勝にそう言った。信勝はこの叔父の言葉を一蹴できない。裏に、『自分は信長に味方するつもりだが、それでも事を起こす気か』という脅しが含まれていたからである。
萱津での敗戦後、大膳は焦土と化した清洲の村々を見下ろしていた。いつだったか自分が古渡城下に行ったことへの意趣返しを食らっていた。最も信頼する家臣を無為に失い、田畑を焼かれ、あれほど馬鹿にしていた織田信長に敗北し、挑発の限りを突き付けられたはずが、怒り心頭に発した後は、妙に落ち着いていた。
「もはや、手を選んでいられぬなア」
半ば諦念が身体を支配したようでもあるが、しかし、また、肝が据わったという言い方もできるだろう。
「織田信長よ。貴様がうつけかどうかはこの際どうでも良いことだ。この小守護代・坂井大膳、これよりは恥も外聞も金繰り捨て、弾正忠家を滅ぼすことのみにこの生を費やしてやるぞ」
火種は消えず、そこかしこに燻ったまま、織田信長という大風を得てまた一層強く、燃え盛っている。
「ご助力感謝します、叔父上」
「かわいい甥の頼みだ。無下にはできまい」
信長軍の陣容を目にした信光は、すこし驚いた。
「ホウ。柴田権六勝家がいるではないか。これは百人力」
取っ手付けたような世辞に、勝家は眉を細めながら、ぶっきらぼうに
「拙者は信勝さまの名代にござる」
とだけ言った。
平手から、「戦の折には、家臣の者たちと評定を設け、協力を仰ぐように」と諫言された信長は、そんなもの無視するつもりではあったが、こと今回の戦に関しては、それを逆手にとった。
『松葉・深田の両城が落とされた。人質をとられているから、予断のない状況である。オレは城を取り戻すべく出陣するつもりだ。すでに叔父上(守山城)にも援軍を要請しているが、末森からも兵を割いてくれないか。あなたたちが今川との戦に慎重になるのは、その和平が天子さまの働きかけに拠ったものであるからだと聞いているが、であれば、清洲衆相手の戦には気にするところなど何もなかろうと思う。マア、戦そのものがイヤになったのなら、仕方ないので、我々が城を取り戻すのを見ていられたら、良い』
こんな風に言われると、見え透いた挑発だとはわかりきっていても、形だけでも兵を出さないわけにいかない。何より、信光が出てきているときに何もしなかったとあっては、信勝としても面目が立たない。いくら信長がうつけの殿様だとは言っても、所詮は乱世のことだから、ある程度の武威を示さなければ当主としての器量を疑われてしまう。
そこで信勝は柴田勝家を自らの代理として差し向けた。信勝自らが出陣しない理由は、ハッキリしていた。 未だ初陣を終えていないからである。
初陣というのは、負けると大層縁起が悪いので、大方、勝利の目途が立っている戦場を選ぶもの。そこへいくと、今回のような突発的、また、既に後手にまわってしまっている戦には、およそ適しないと判断される。
ところが、織田信長の小姓のなかには、この戦いを初陣と覚悟を決めてきた若武者が一人居た。
日を跨いだ深更のこと、信長軍が深田・松田の両城へ迫るために渡河を試みたとき、勝家の隊が行軍を止めた。
「この闇では危のうござる。今少し夜が明けるのを待ってはいかがか」
確かに辺りはまだ真っ暗で、ただ夏の蒸し暑い空気から草の匂いがあふれるばかりの河原である。
「駄目だね。敵もそう思っていよう。だからこそ、いま、渡るのだ」
信長は一切取り合わない。そして、闇のなかで「オイ」と、ある一人の男に先導役を命じた。
それこそが、この日初陣となる件の若武者だった。元服し、名を前田利家という。
彼が育った荒子という地は、庄内川の東側沿岸に位置している。尾張国を流れるこの大きな川で信長も物心つく頃より遊び呆けたものだが、とりわけ利家は、生息する蛙の巣穴まではっきり熟知しているほど、川に詳しかったのである。
「信長さまッ、ここいらがもっとも浅いところかと思います」
かくして闇夜に紛れて川を渡り切った信長軍は、そこで、敵を攻めるにあたって兵を三手に分けた。
まずは、松葉・深田の両城を奪還するための二部隊だが、これは配下に任せてある。敵は、両城を急襲し占領したものの、人質を頼るばかりで、未だろくに兵力を未だ整えられていないと見えたからだ。夜のうちに渡河を成功させ、懐に入り込んだ時点で優勢なのは疑いようがなかった。
では、信長・勝家・信光たちが向かうのは? 敵の本城・清洲城であった。松田・深田へ信長軍が攻めかかったのを知れば、必ず清洲城から後詰の兵を出すに違いない。それが分かっているのなら、予めこちらから迎え撃ちに出てやるまでということだ。
早朝、卯の刻を過ぎた頃、清洲城の大膳らは、信長軍の動きを補足した。「深田・松葉の両城に信長軍が襲いかかった」という報せを聞き、はじめ信長もそこに加わっているものだと思ったが、どうやらそうではないらしい。信長が率いる本軍は、後詰め決戦を見越してすでにこちらへと向かって来ているというではないか。
「どういうわけだ、大膳。これほどの大軍とは聞いておらんぞ」
大膳に頼りきりの他の家老衆は、ここぞとばかりに大膳の責を問いただす。
赤塚に出撃した信長の兵がおよそ七〇〇だと聞き及んだ大膳は、弾正忠家の家督争いが起きる匂いを嗅ぎ取って、此度の挙兵を画策したのだが、蓋を開けてみれば目論見外れも良いところ、およそ弾正忠家が持ちうる限りの総力で以て反撃に出てきた。
「黙れ。野良犬の大将が自ら出張ってきたというのだ。討ち獲る好機ではないか」
と、口で言うものの「我こそは」と名乗り出る者はいない。いくら大将がうつけだろうが、大軍を相手にすることに変わりはない。
すると、
「では私が出ましょう。いつぞやの約束を果たして見せますよ。信長の首を獲って参ります」
坂井甚助が名乗りを上げる。
大膳含めた清洲衆は、本音を言えば、山口教継がそうしたように、今川という大勢力と綿密な連携をとって挙兵に及びたかったが、そうそう表立った動きは難しい理屈がある。
清洲衆すなわち清洲織田氏の権威とは、あくまで尾張守護・斯波氏を補佐する守護代という地位にあった。しかし、名分となるはずの肝心の斯波には、これまで今川と熾烈な争いを続けてきた因縁がある。今川と手を組むことなど、現斯波家当主・斯波義統が承諾するはずがないのだ。ましてやその目的が、元を正せばたかだか清洲織田氏の一配下に過ぎなかった勢力の成敗にしかないというのだから。
権威を利用した者は、権威によって縛られる。清洲衆が尾張を牛耳るためにとった大方針そのものが、土壇場で彼らの戦略の幅を狭めているのだった。
「敵は織田信長自らが出てきているぞ。だが、これは勇気ではないな。後先考えられぬうつけの所業だ。首を獲り、冥土の信秀めに送り届けてやれ」
甚助は覚悟を決めて出撃した。
敵はあの大うつけだと、兵たちも皆知っている。しかし、戦争とは、たとえ乱世といえども、平時の動きではない。そして、平時に、仮に「うつけ」だと思われていたものが、戦場でにおいても同じだとは限らない。
辰の刻、萱津と呼ばれる地で戦端が開かれるや否や、信長自らが率いる精鋭七〇〇が一番槍を競いあって敵へ雪崩れ込んだ。信長もその中に加わって奮戦した。およそ総大将の動きとは言えないが、それだけに兵たちの士気は、清洲衆とは比べものにならないほど高い。
すると、
「玉から攻め込む将棋があるか。オイ、あのうつけを死なさぬようにしろ」
それを見た信光は、信長を守るように、自らの兵をさらに前面に押し出していく。
そうなると、はじめ信長の配下として戦うことには気が進まなかった勝家も、黙ってじっとしているわけにはいかなくなった。
『このままいけば勝ちそうだ。どうせ勝ってしまうなら、信勝さまのためにも、手柄をとられるわけにはいくまい』
予め信長の一手に統率されてはいなかったものの、それぞれの思惑が絡み合い、結果として思いもよらぬ怒涛の勢いをもたらした。甚助の率いる兵だけでは抑えられるものではないことは、もはや明白だった。
しかし、それを理解しながらも、甚助は撤退しない。
「下がるな。退くな。逃げれば、死ぬぞ」
撤退の素振りを見せた瞬間にやられる。それほどの猛攻であった。このままでは駄目だと分かってはいても、退けばそれを早めるだけの行為に他ならないことが、分かってしまう。
屈強な使い手が次々に討ち取られ、やがて信長軍が眼前に迫ってくると、甚助は槍をとり自らの最期を悟った。
「押し返せ!」
撤退の目を捨て、寡兵で突撃を敢行した。信光配下の名のある武士を数名討ち取りはしたものの、それが限界、走りよってきた信長軍の一人が甚助を斬りつける。そして、それを離れたところで見ていた勝家、辺りの敵味方を強引に突き飛ばしながら甚助に詰め寄ると、怪力の槍を振り下ろし、首を叩き落とした。
大将が討ち取られた途端、清洲衆は瞬く間に瓦解して勝手に逃走したが、元より甚助が危惧した通り、すんなりと撤退できるものではない。いち早く逃げようとしたものから、信長軍に組み付かれて、散々に討ち取られてしまった。
「クソッ。良将は初陣から手柄を立てるものだ。これでは、いけない!」
さて、走り回っていた利家だが、まだ一つの首級を上げられないままだった。敵が退却すると、いよいよ手柄なしかと落胆したが、その時、
「これより松葉口へ向かう」
信長の下知が下った。
萱津で信長軍が坂井甚助の首級を上げたとき、すでに深田城口では信長軍が敵を打ち破り城の包囲を敷いていた。残るは松葉城口での攻防のみだが、ここでも信長軍は有利に戦を進めている模様だった。
『早く、……早く行かなければ、終わってしまう!』
信長本軍が松葉城へ到着するや否や、利家は再び走り出て、槍を振るった。敵はすでに疲労の色が濃く、信長本軍を相手どる力など残っていなかった。利家といえども萱津で一戦終えた後なのだが、この意気軒高な若者は、すでに気力が肉体を凌駕しており、まるでいま戦が始まったかのような動きを見せる。
しばらく戦った後、奮闘の甲斐あって、利家は見事に首級を一つ上げることができた。
深田・松田両城の城兵はいずれも野戦で打ち崩され、一度は各々の城へと籠ってはみたが、信長本軍が加わった軍容を目にすると籠城の目を失った。城兵らは「完全に包囲される前に」と脱出を試みたが、またそこでもさらに少し討たれ、それでも残った少数の兵らだけが清洲本城へ逃げ帰って行った。
「やるではないか、兄上の戦を見ているようだ。坂井甚助も討ち取った。これで清洲衆はまたしばらく何もできまい。いずれまた向こうから和睦を乞うてくるだろうな」
信光は戦勝を祝して信長に最大の賛辞を贈ったつもりだったが、
「まだです、叔父上。これよりワタシは清州へ向かいます」
「何をするつもりだ」
「仕上げ」
信長は手勢を率いて清洲へと再び急行すると、電光石火で田畑を焼き払った。敵が出撃する間も与えない。
そして、信長は城に向かって叫んだ。
「これがオレの、織田信長の軍だ。和睦など無粋だ、ナア、坂井大膳よ。大嫌いな織田信長に頭を垂れる目は、たったいまオレの手で断ってやったぞ。雌雄を決しようじゃないか」
萱津の戦いは、紛うことなき信長の勝利に結末した。そして、この戦いを皮切りに、「織田信長が大うつけである」という風聞に、少しずつ疑いが投げかけられるようになった。総力を結集した合戦だったから、戦場で直に信長軍の雄姿を目にした者も多かった。
「うつけかどうかはともかく、見た限りでは、戦争の才能はあるようだぞ。もうしばらく好きにやらせてみてはどうかね」
信光はあるとき信勝にそう言った。信勝はこの叔父の言葉を一蹴できない。裏に、『自分は信長に味方するつもりだが、それでも事を起こす気か』という脅しが含まれていたからである。
萱津での敗戦後、大膳は焦土と化した清洲の村々を見下ろしていた。いつだったか自分が古渡城下に行ったことへの意趣返しを食らっていた。最も信頼する家臣を無為に失い、田畑を焼かれ、あれほど馬鹿にしていた織田信長に敗北し、挑発の限りを突き付けられたはずが、怒り心頭に発した後は、妙に落ち着いていた。
「もはや、手を選んでいられぬなア」
半ば諦念が身体を支配したようでもあるが、しかし、また、肝が据わったという言い方もできるだろう。
「織田信長よ。貴様がうつけかどうかはこの際どうでも良いことだ。この小守護代・坂井大膳、これよりは恥も外聞も金繰り捨て、弾正忠家を滅ぼすことのみにこの生を費やしてやるぞ」
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センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
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【第壱章 独裁者への階段】 純粋に国を、民を憂う思いが、粛清の嵐を巻き起こす
【第弐章 川中島合戦】 甲斐の虎と越後の龍、激突す
【第参章 戦争の黒幕】 京の都が、二人の英雄を不倶戴天の敵と成す
【第四章 織田信長の愛娘】 清廉潔白な人々が、武器商人への憎悪を燃やす
【最終章 西上作戦】 武田家を滅ぼす策略に抗うべく、信長と家康打倒を決断す
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です))