遥かなる遺言

和之

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  井津治は男が去ったドアを暫く眺めた。
 よくもヌケヌケと今更やって来たもんだ。あの男にはプライドや意地ってもんがないのか。そんな厄介なもんがありゃあ今の世の中そんなに上手く生きられねえか。とにかくあいつは母の美しい想い出を掻き回す為だけにやって来たもんじゃないか「ハゲタカみたいな男だ」考えれば考えるほど腹の虫が暴れ出した。しかし湖と向こうの山を眺めていれば腹の虫はおとなしくなる。それほど湖西の風景は彼に多くの安らぎを与えてくれる。更に湖北に足を伸ばせば琵琶湖に突き出た岬が、湖を世間から隔絶するように孤高の境地に誘ってくれた。今朝は湖北に思いを寄せておじさんを偲んでいたのに、なのにあの男はまた俗世間に引き落とした。
  幾ら縁が切れたとはいえ二十年ぶりに尋ねて来てくれた。懐かしさの余り此の時はいやな過去を一瞬脳裏から消し去っていた。突然の思いもよらない出来事に、大恩ある長沼さんのお通夜まで記憶の外にはじけ飛ばしてしまった。それが我ながら未熟で不徳な人間だと己を呪った。
「とうに別れたとは云え、なんで母はあんな男に気を許したのだろうそれが若さだったのか、いや恋は盲目で他に何も見え無かったんだきっとそうに違いない」
  だが母は二十年も前に亡くなっていた。それを確かめられた相手は何も無い男だった。長沼のおじさんだけが母の本当の価値を知っているはずだった。母が徳の有る人だったのか確かめるべき人も昨夜見罷まかった。今日がその人の通夜だった。
                                                  
 通夜の席には最初に長女の優子がご主人を伴ってやってきた。
「これはこれは旦那様ですか」桐山が親しげに云うと、優子の返事と同時に黒の礼服の男は佐伯(さえき)と名乗った。安らかなお顔ですよ一度見てあげてください、と桐山は祭壇前に安置された棺に案内した。丁度お顔の部分だけが観音開きになってご覧になれます、と説明すると佐伯は扉を開けて暫し眺めて閉ざした。
 この人にかき回されたなあとポツリと云って佐伯は控え室へ向かった。桐山と野々宮は彼を見送った。
「おじいちゃんは手広く何でもやってましたからお気になさらないで」
 そこへ入れ替わりにやはり喪服の着物に替えた雅美がやってきた。
「あら雅美ひとり。泰宏(やすひろ)さんは?」と優子が言った。
「今朝神戸に着く予定が海が荒れて今、潮岬の沖を航行中って知らせてきたの、もう直ぐ紀伊水道だから御通夜は無理みたい」
「ご主人、船に乗ったはるんですか」桐山が言った。
「二等航海士で神戸に住んではるんです」優子が答える。
「船乗りでっか、どう云う成り染めか知りまへんけど・・・、この街では余り聞かないお仕事ですね」
「そうでしょう、あの人が会わせたんです」と雅美は棺を指差した。
  それから雅美は何かを念じるように、これは祖母から聞いた話だけど語り出した。
 今から五年前祖父夫婦が八月に北海道とロシアを廻る四泊五日のクルーズ船に乗りました。夕方に舞鶴を発った船は翌朝小樽に着き、札幌を観光して夜小樽を出るとコルサコフ(祖父はコルサコフでなく大泊だと何度も訂正した)に朝着いてユジノサハリンスクへ(ここでも祖父は豊原だとまた同じように訂正した)祖父は樺太を尋ねることがこの旅の目的でしたね。お陰で同行させられた祖母は迷惑でした。祖母は同じクルーズ船なら南方の島々を廻る旅の方がどんなに愉しくて心弾むか知れはしないと、だけど夏は涼しいところが一番だと説き伏せられて同行したのですが。色とりどりの花に熱帯魚が群れる南国に比べて、ただ気候も天然のクーラーの様でもない。陽射しは強いし何より荒れた地に針葉樹ばかりだから、茶色と緑だけのモノトーンの世界に祖母は憂鬱になり塞ぎ込んだ。

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