遥かなる遺言

和之

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 網元と娘の由貴乃と長沼はアレクセイの形見を背負って真岡を離れた。避難民と荷車が移動する中を掻き分けて、豊原から大泊港へ急いだ。ここで二十日に真岡が艦砲射撃を受けて、上陸したソ連軍に町が壊滅状態になったことを知った。
 三人は二十一日の夜から三隻の引き上げ船が運航されることを知った。三人は桟橋に駆けつけた。すでに二隻の大きい客船は出て行って、今は千トン未満の貨物船や小型の船しか桟橋には残ってない。これでピストン輸送されたならソ連の侵攻に取り残される。網元は残っている一番大きな船を目指した。
 乗船は女、子供と老人が優先されしかも手荷物も制限され、警察官と憲兵が厳しく乗船のチェックをしていた。由貴乃は絶対乗せる、若い長沼は乗船拒否される確率が高かった。それに大きいリュックサックは目立ちすぎ、中身を調べられるは必定。そこで前日乗り遅れた時の為に手配してある小船に、アレクセイの資産を長沼に託して脱出させる。資産の大半は長沼が小船で運び北海道で落ち合う。由貴乃はちっぽけな船で渡る長沼を心配した。漕ぎ手には船頭を一人雇っているが不安だった。
 由貴乃は長沼と一緒に行きたかったが「金をお前に預ける以上は娘は絶対に一緒に行かせない、ここで別れても金を持っている限り必ず再会する」とわしと娘が一緒なら長沼も持ち逃げはしない、必ず会いに来ると云う読みもあった。とにかく時間の猶予がない、グズグズ出来ない。網元と由貴乃は船に駆け込むと泰東丸はすぐ出港した。桟橋には大きなリュックを置いたまま長沼は手を振った。
 必ず来るのよーと云う由貴乃の声が遠ざかった。
 彼は桟橋の人波を掻き分けて手配してある海岸まで歩いた。
 小舟を用意して待っていた船頭は、客が三人から一人に減ったが、料金は三人分徴収していた。船頭は重い荷物に疑念を持った。長沼は寺の住職だった父に代わって仏像と経典を運んでいると誤魔化した。船頭は仏像ねと不気味に笑った。舟は暗い海を岸沿いに漕ぎ出した。
 西能登呂岬で陸から離れるとオールから船外機に切り替えて暗夜の海に乗り出すと波も激しく揺れ始めた。何度か波を被りながらやっと陸が見えてきた。だがこの手配した船頭が曲者だった、三人から一人に客が減ったのを好いことに、長沼の荷物を狙って送り狼に変身した。
 船頭は岸に近づくと彼をオールで殴りつけた。幸い急所は外れたが深手を負って夢中で船頭を海に投げ込んで奪ったオールで逆に殴り殺した。舟を捨てると直ぐに長沼はアレクセイの遺品を埋めた。後はどう歩いたか分からずさ迷う内に行き倒れた。
 長沼は佐伯に助け出されたときに、泰東丸の消息をうわ言のように云っていた。気になり佐伯が調べたら樺太からの引き上げ船、泰東丸は寄港した稚内は引き上げ者が一杯で、小樽へ行き先を変更していた。
 その泰東丸は二十二日早朝増毛沖にて浮上潜水艦の砲撃で撃沈されたと長沼に告げた。一晩寝ただけで病み上がりでふらつく彼は、ケガを押して佐伯の馬車で遭難現場へ急いだ。そこで海岸に流れ着いたと云う由貴乃の遺体を確認した。これが長沼の樺太からの逃避行だった。
 おじさんは戦後の闇市で今日の財産の基礎を作ったと云ってました。でもその原資がこの時の亡命ロシア人から委託された物だったんです。下落した円と違ってドル紙幣は進駐軍には絶対的な価値を持ってました。それを大量に持つ長沼は闇市では面白いように商売が出来て、その後は円の復活と共に歩んできたのです。
 長沼は浜頓別に漂着するとそれら資金を埋めて、帰る時に掘り出して持ち帰った。この資金が無ければ今日の資産形成はなかった。だがおじさんの原資を作ったのはロシア人だが、最愛の人を奪ったのも同じロシア人である。この矛盾を抱えたまま長沼は母、知代子を通じて井津冶に伝えて亡くなった。

  澄んだ青空とそれを映した湖面が、戦のない日々と共にどこまでも広がっている。祖父の過去の話には繕い切れない矛盾が漂っていた。この流れを受け継ぐにはどうすればいいか、重い課題を井津治は背負ってしまった。
「由貴乃さんを見つけた時におじいちゃんは心境を語ることはなかったのでしょうか?」
 礼子の素朴な疑問は誰もが持ったに違いなかった。
 これも母からの伝え聞きなんだ。それは殆どの遺体が損傷が激しいのに由貴乃はまるで眠っているように横たわっていた。浮上した潜水艦は砲撃で停止した泰東丸に接近して避難民で溢れる甲板に船が沈むまで容赦なく機銃掃射を加えた。それなのに彼女の遺体は一発の銃弾も受けていなかった。事実多数の遺体は銃弾で手足がもがれ内臓は飛び出し肉片は飛び散っていた。
「彼女のお父さんはどうなったんです?」
 野々宮の問いに永倉はいい気はしないながらも礼子の手前答えた。
「年配の男性の遺体もあったけどどれも損傷がひどくて見分けられなかった。生存していれば一番に娘さんの遺体を引き取るはずです」
 彼女は永久の別れを告げるためだけに、姿を留めていたんだとおじさんは云っていた。遺体は火葬されて近くの寺に埋葬されたが、一部を持ち帰っておじさんは密かに母と一緒に納骨した。井津治は終わりの方は語りのトーンが落ちていた。
「それが例の菩提寺ですか。よく奥さんが認めましたね」
 野々宮は井津治をさけて誰とはなく言った。
「祖母は別に自分のお墓を作るからって云う条件なの」と礼子は一呼吸おいて言った。
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