遥かなる遺言

和之

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 彼はそのニコラエスクから大正九年に伯父を頼ってやって来た。彼は町外れの小高い丘のふもとに在る伯父の家に同居した。やがて亡くなった祖父の家に二十年以上住みついてすっかりこの町の者として定着した。
 真岡の網元は恵須取に自ら切り開いた漁場を別に持っていた。もっとも春にやって来るヤン衆たちは、町外れの漁場の番屋で寝起きしていた。長沼もニシン漁が始まればここで寝起きした。
 網元の娘の由貴乃は長沼を見て「やはり都の人は違う」とヤン衆とは一線を隔てて彼に好意を寄せた。漁場を経営する父も二人の仲と縁談は別だ、と娘に言い聞かせてあるのかそんなに気にしてなかった。
 近年ここの漁場はニシンが減って採算が合わなくなった。更に北の恵須取の漁場が活気付いていた。網元は潮時と借り主に返還する話をした。収入の絶える亡命ロシア人は、網元から長沼に話を持ち掛けた。長沼は独立を機会に由貴乃と一緒にとスンナリと話はまとまりかけたが網元は漁場の権利は認めても娘との結婚は認めなかった。
 父は恋は一時、生活は一生だから相手はやっぱり製紙会社か樺太庁の者と決めていた。一時の気まぐれで娘が一生を棒に振らせたくなかった。先のことは分からないが今は何の保証もない。漁師より肩書きや地位の在る者の方がはるかにいいのは親心だ。一人娘に無理はさせたくないと頑強に反対した。網元は全てをご破算にして長沼を解雇した。彼は敷香にある製紙会社で働くことになった。そこでの良し悪しはともかくソ連侵攻で運命がまた流転する。    
 八月十一日に国境を越えたソ連軍は半田、古屯、気屯(けとん)の各陣地に在る日本軍の頑強な抵抗で頓挫した。結局十五日の停戦時でやっと国境から五十キロ南下した気屯で停戦した。国境から百キロ離れた敷香にはまだ戦火は及んでない。長沼は真岡の製紙工場の様子を見る口実で由貴乃に会いに行った。官営鉄道で豊原から乗り換え、豊真(ほうしん)線で真岡に向かった。
 途中の峠越えはトンネルでなく手前の山裾をぐるりと廻って、今来た線路の上を通るループ橋になっていた。そこで国籍不明機の銃撃で列車は止まってしまった。銃撃でパイプが破損したらしく蒸気圧が上がらず列車は立ち往生した。ループ橋は真岡の手前の急峻な勾配にあり、乗客は徒歩で熊笹の生い茂る路を抜けて真岡に出た。長沼は直ぐに網元の家に駆け込んだ。緊迫した情勢に網元は長沼を受け入れ敷香の様子を窺った。
 国境付近でソ連の侵攻を食い止めて、今のところは平穏だが時間の問題だからすぐに北海道への避難を勧めた。が恵須取にはまだソ連が来ないのを知って、網元はここまで築いたものを失うのに躊躇した。長沼は国境から避難して来た社員が夥(おびただ)しい量の戦車がやって来たと口々に話しているのを知っている。地の利を得た日本軍が巧みに防戦しているが、兵力に差がありすぎていつまで持ちこたえるか不安だった。もうすでに敷香もソ連の支配下かも知れないと説得したが動かない。
 十五日に終戦放送が流れて軍が停戦交渉に入ると知って益々様子を見るようになった。そこへ恵須取の漁場から逃れてきた者がやって来た。彼らは二日前に恵須取が艦砲射撃を受けて町は壊滅して、住民はソ連軍による略奪暴行を受けていると知らされた。網元は慌てて避難準備をして漁場を借りてる、ロシア人アレクセイの下へ庇護を求めた。
 アレクセイは彼らを一時受け入れたが、留まる事を拒否し一刻も早く内地へ行く事を勧めた。彼はニコラエスクの事件の被害者として革命軍の非道を知っていた。
 この事件は尼港事件として日本でも報道された。大正九年の冬、ニコラエスク(尼港)の町は冬は凍結して陸の孤島になる。そこへ革命軍が来て、政府軍との内戦で白系ロシア人と共に千人近い日本の居留民と軍人も革命軍に惨殺された。そこから亡命したアレクセイはソ連と云う革命政府を信じていない。だからここで死ぬか、脱出する二者択一しかないと決断を迫った。実際多くの人々が網元の周りで自決していた。
 アレクセイは悲惨な革命の後で、いずれニコラエスクに帰るには毎年網元から受け取る漁場の賃料を貴金属にしていた。もしアメリカ移住ならとドル紙幣にも換えていた。ソ連が変わるのを期待して郷里に近い真岡に住んでいたが年老いてしまった。
 今の革命政府には何をされるか判らない。その恐怖を網元に懇々と諭した。網元はついに樺太脱出を決意した。アレクセイは老齢を理由に同行を断り、代わりに今まで蓄えた資産をいずれ返してほしいと預けた。それは死んではならないと云う意味に受け取れるアレクセイの処置だった。祖国を信じない彼だがやって来るのが同胞だと云う微かな期待を淡雪の様に持った。だがその淡雪までも彼は消してしまった。網元たちが屋敷を背にして響いた一発の銃声がそれを物語っていた。長沼たちは真岡で無駄な時を過ごしてしまって今は振り返る余裕もなかった。
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