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野々宮の車は湖岸沿いに建つワンルームマンションに着いた。三階建ての新しい洒落たこざっぱりした建物だった。ここから祖父の関連会社の大津支店に勤務していると聞いたから不在かも知れないと思った。が礼子はあの子はここから一日中湖を眺めているはずだと云ってインターホンを押した。出てきた永倉はまた野々宮が一緒なので不機嫌な顔になった。
「何してたの? 休みだったんでしょう連絡ないからこっちから来たわ」
「何でこの人が一緒なの?」
「失礼ねわざわざ送ってくれたのに」
「じゃもう彼は用がないんだ」
「そうはいかないわ、あたしに歩いて帰れって云うの!」
「駅までだろう」
「いえ自宅まで送ります」
「ねえそんな話はもういいから例の件詰めないといけないでしょう」
「この前はそんな話しどうでもいいって言ってたから今日は家にいたんだ」
「じゃ他の話にしましょ、それならいいでしょう」
頷きながら永倉は目障りのように野々宮を見た。その目に礼子は直ぐ反応した。
「あなたは線香だけを挙げて直ぐ帰っただけでしょうけど、この人はずっと泊まり込みで恩あるおじいちゃんのおローソクの火の番をしてくれた人なのよ、そんな目で見るのはおかしいわよ」
永倉は渋々愛想笑いを浮かべて湖岸の公園へ二人を誘った。目の前に湖が見えるベンチに座った。穏やかな湖面に数隻のヨットが風を孕んで漂ってる。一年で一度だけ別な姿を見せたあの夏の賑わいはなく本来の湖らしさが戻ってた。
「何が聞きたいんだ」今更と永倉は言いたげだった。
「さっきまで佐伯さんとこへ行ってたの、でこの前は途中までって言ってたけど義兄さんはおじいちゃんは真岡まで行ったと聞いてるみたい・・・」
佐伯さんがそう云うのならそうだろう。ぼくの勘違いだろうとあっさりと訂正した。だけど礼子は必要に追求した。祖父があたしの結婚にそこまで肩入れするのは不思議(おかしい)もっと大きな釣り合いの取れるものがあるはず。過去に在った大きな負の遺産を引き摺っているのでは、との疑念が払拭されないまま祖父は逝ってしまった。それを正しく伝えた可能性が有ったのはあなたのお母さんだけだと云う。おじいちゃんにとってあなたのお母さんは昔の人の身代わりだけなのかしら、それともその人を祖父は擬似化してるのか。そうかも知れない、いやそうなんだと高まる礼子の疑問に永倉は応えねばならないように誘導された。
目に見えず計り知れない物に人は畏怖するし、目の前にある湖もそうだ。だから拝む、崇拝するが何もないものを漠然と敬ってもやはり対象物は求める。形を作りそこに乗り移ってると信じれば祈りにも熱が篭もるし受け継ぐ者も出来る。それをおじさんは母に宿したが、母は直ぐに亡くなった以上、それを受け継ぐのはぼくしかいない。だがそれを安易に他の人に伝えてはいけない。
ーー祖父は大事な秘密を隠しています。それを打ち明けられたのは母一人だけです。母は死ぬ前にこれだけはあなたに言っておきたい、けれど他言してはいけませんと釘を刺された。それで今まで黙っていました。佐伯さんが知れば驚く事実ですが、そしておじさんが母や私や佐伯さんにおこなったのは、真岡のある人への言い尽くせない思いがあったのです。それはおじさんがその事実を語ったのは母だけであった。それ以外には奥さんとか二人の息子さんには、断片的なものをほんの少し語ったかも知れませんが、多くを忠実に語ったのは母ひとりだけです。おじさんが生きた証しを伝えたいと思ったのは母だけだった、と云うことを知ってほしい。だから今まで聞いた噂は全て忘れて、これから語ることだけを記憶に留めてほしい。だから話したい、と彼は母の人格を守る為にも重い沈黙を破った。
「まずおじさんは実家の小浜で三男に生まれました」と永倉は語り始めた。
小浜では、長男一家が生活するだけの田畑しか残ってないから次男三男は家を出ました。三男のおじさんは近在で漁師の仕事を手伝っていたが、小船での少ない稼ぎではらちがあかない、しかし船を買うにはとてつもない金がいる。おじさんは小樽へ行きニシン漁をやったが、雇われの身分ではまとまった金は出来ない。そこで漁場の権利がここより手に入れやすい樺太の真岡へ渡った。
真岡は海岸沿いに横に長く開けた町で、神戸のように奥域がない。もっとも六甲山のような高い山が迫っているわけでもない。比較的なだらかな熊笹に覆われた丘が続いていた。その熊笹を分け入ると辺りは山林になり、峠を越えると鬱蒼たる森林が広がるその向こうが府庁の豊原だ。地名の真岡もここからきているのかも知れない。
北海道を結ぶ港は真岡と大泊だが、大泊港は冬はオホーツクの流氷の影響で欠航する。しかし真岡は不凍港で府庁の豊原とは道路と鉄道の両方で結ばれていた。だから冬も閉ざされることはない。この町は製紙工場が並ぶ大きな町だった。町はパルプ工場の煙突が立ち並び、そして町はずれの浜がニシン場だった。製紙業の従業員の社宅や、その関連の家並みに混じってカニ缶で働く者の家もあった。町の真ん中には彼らを目当てに多くの店が建ち並んでいた。町外れの境目に長沼が奉公する網元の家があった。この漁場は日露戦争の以前から住んでいたロシア人の物だが、今はその親戚筋の亡命ロシア人アレクセイ・ラブリネンコから借りていた。
アレクセイはロシア革命で赤軍に包囲されたニコラエスク(尼港)から命からがら逃れてやって来た。いわゆる尼港事件である。
尼港事件は大正九年の一月にニコラエスクにやって来た赤軍が、主に政府軍と戦って町を制圧した時に起った事件。この時に八百人近い日本人居留民と日本軍守備隊合わせて千人以上が赤軍に殺された事件。
野々宮の車は湖岸沿いに建つワンルームマンションに着いた。三階建ての新しい洒落たこざっぱりした建物だった。ここから祖父の関連会社の大津支店に勤務していると聞いたから不在かも知れないと思った。が礼子はあの子はここから一日中湖を眺めているはずだと云ってインターホンを押した。出てきた永倉はまた野々宮が一緒なので不機嫌な顔になった。
「何してたの? 休みだったんでしょう連絡ないからこっちから来たわ」
「何でこの人が一緒なの?」
「失礼ねわざわざ送ってくれたのに」
「じゃもう彼は用がないんだ」
「そうはいかないわ、あたしに歩いて帰れって云うの!」
「駅までだろう」
「いえ自宅まで送ります」
「ねえそんな話はもういいから例の件詰めないといけないでしょう」
「この前はそんな話しどうでもいいって言ってたから今日は家にいたんだ」
「じゃ他の話にしましょ、それならいいでしょう」
頷きながら永倉は目障りのように野々宮を見た。その目に礼子は直ぐ反応した。
「あなたは線香だけを挙げて直ぐ帰っただけでしょうけど、この人はずっと泊まり込みで恩あるおじいちゃんのおローソクの火の番をしてくれた人なのよ、そんな目で見るのはおかしいわよ」
永倉は渋々愛想笑いを浮かべて湖岸の公園へ二人を誘った。目の前に湖が見えるベンチに座った。穏やかな湖面に数隻のヨットが風を孕んで漂ってる。一年で一度だけ別な姿を見せたあの夏の賑わいはなく本来の湖らしさが戻ってた。
「何が聞きたいんだ」今更と永倉は言いたげだった。
「さっきまで佐伯さんとこへ行ってたの、でこの前は途中までって言ってたけど義兄さんはおじいちゃんは真岡まで行ったと聞いてるみたい・・・」
佐伯さんがそう云うのならそうだろう。ぼくの勘違いだろうとあっさりと訂正した。だけど礼子は必要に追求した。祖父があたしの結婚にそこまで肩入れするのは不思議(おかしい)もっと大きな釣り合いの取れるものがあるはず。過去に在った大きな負の遺産を引き摺っているのでは、との疑念が払拭されないまま祖父は逝ってしまった。それを正しく伝えた可能性が有ったのはあなたのお母さんだけだと云う。おじいちゃんにとってあなたのお母さんは昔の人の身代わりだけなのかしら、それともその人を祖父は擬似化してるのか。そうかも知れない、いやそうなんだと高まる礼子の疑問に永倉は応えねばならないように誘導された。
目に見えず計り知れない物に人は畏怖するし、目の前にある湖もそうだ。だから拝む、崇拝するが何もないものを漠然と敬ってもやはり対象物は求める。形を作りそこに乗り移ってると信じれば祈りにも熱が篭もるし受け継ぐ者も出来る。それをおじさんは母に宿したが、母は直ぐに亡くなった以上、それを受け継ぐのはぼくしかいない。だがそれを安易に他の人に伝えてはいけない。
ーー祖父は大事な秘密を隠しています。それを打ち明けられたのは母一人だけです。母は死ぬ前にこれだけはあなたに言っておきたい、けれど他言してはいけませんと釘を刺された。それで今まで黙っていました。佐伯さんが知れば驚く事実ですが、そしておじさんが母や私や佐伯さんにおこなったのは、真岡のある人への言い尽くせない思いがあったのです。それはおじさんがその事実を語ったのは母だけであった。それ以外には奥さんとか二人の息子さんには、断片的なものをほんの少し語ったかも知れませんが、多くを忠実に語ったのは母ひとりだけです。おじさんが生きた証しを伝えたいと思ったのは母だけだった、と云うことを知ってほしい。だから今まで聞いた噂は全て忘れて、これから語ることだけを記憶に留めてほしい。だから話したい、と彼は母の人格を守る為にも重い沈黙を破った。
「まずおじさんは実家の小浜で三男に生まれました」と永倉は語り始めた。
小浜では、長男一家が生活するだけの田畑しか残ってないから次男三男は家を出ました。三男のおじさんは近在で漁師の仕事を手伝っていたが、小船での少ない稼ぎではらちがあかない、しかし船を買うにはとてつもない金がいる。おじさんは小樽へ行きニシン漁をやったが、雇われの身分ではまとまった金は出来ない。そこで漁場の権利がここより手に入れやすい樺太の真岡へ渡った。
真岡は海岸沿いに横に長く開けた町で、神戸のように奥域がない。もっとも六甲山のような高い山が迫っているわけでもない。比較的なだらかな熊笹に覆われた丘が続いていた。その熊笹を分け入ると辺りは山林になり、峠を越えると鬱蒼たる森林が広がるその向こうが府庁の豊原だ。地名の真岡もここからきているのかも知れない。
北海道を結ぶ港は真岡と大泊だが、大泊港は冬はオホーツクの流氷の影響で欠航する。しかし真岡は不凍港で府庁の豊原とは道路と鉄道の両方で結ばれていた。だから冬も閉ざされることはない。この町は製紙工場が並ぶ大きな町だった。町はパルプ工場の煙突が立ち並び、そして町はずれの浜がニシン場だった。製紙業の従業員の社宅や、その関連の家並みに混じってカニ缶で働く者の家もあった。町の真ん中には彼らを目当てに多くの店が建ち並んでいた。町外れの境目に長沼が奉公する網元の家があった。この漁場は日露戦争の以前から住んでいたロシア人の物だが、今はその親戚筋の亡命ロシア人アレクセイ・ラブリネンコから借りていた。
アレクセイはロシア革命で赤軍に包囲されたニコラエスク(尼港)から命からがら逃れてやって来た。いわゆる尼港事件である。
尼港事件は大正九年の一月にニコラエスクにやって来た赤軍が、主に政府軍と戦って町を制圧した時に起った事件。この時に八百人近い日本人居留民と日本軍守備隊合わせて千人以上が赤軍に殺された事件。
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