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「ソ連が崩壊して割と自由にいけるようになったからでしょう、おじいちゃん前から行きたいって言っていたから」
「若い頃に一度行ったそうですね」と野々宮は永倉からの話を付け加えた。
「そうー? 樺太のそんな詳しい話は訊いてない初耳ね、知代子さんにだけに語ったのね」と優子は云ったが、佐伯は怪訝な顔でおじいちゃんから訊いた話と、永倉君のは少し違ってたが、もう歳だから思い違いだろうとその話はそこで終わった。
「十六、七か、樺太では林業が盛んで各地に製紙工場が出来てたんですよ。行く前は漁業だと思ってたんですが見極めが早かったんですね。でも最初は真岡で網元の家に弟子入りしたそうでした」
「でもなぜそんな地へ行ったんだろう」野々宮は訊いた。
「あの頃はみんな夢を見ていた。大陸へね。若狭の海を見て育ったから樺太へ行ったんでしょう。ハイリスク、ハイリターンって云うやつですね運もあるが努力すればそれだけ返ってくる」と佐伯は答えた。
今は夢がないんだろうか? 野々宮は考えた。今は大きく変わる事のない調和のとれた安定の時代。それは誰でも夢見られた未知の世界が開拓され尽くされた。今は限られた特異な世界しか残らないきわめて限定的な時代。だがあの頃は良かったが、先行きの見えない不安な時代だった。それは言い換えれば無限の可能性を秘め、広い視野で捉えられる者だけが挑める時代かも知れない。先が見えないから尻込みする者と飛び込む者。満たされぬ世界で逆に無気力になる者。それでも先人達が刈り尽くした荒野に微かな希望を持って、仄暗い灯りを頼りに歩む者もいる。そして厳格に管理されてない国境があった。だからいつでも自由に行けたが、身の安全の保証もなかった。国が管理するのでなく個人で管理するのだ。行き詰まった人だけが飛び出していった。長沼さんもその一人だったんだ。あれから良くも悪くも管理された時代が続いた。平成に入ってソ連が崩壊して秩序が乱れた。再び管理責任が問われるときに、責任能力の無い奴が、自由を叫んだ時が一番危険だ。とにかく礼子さんのお陰でまた一口会員の獲得に成功した。これで彼女の抱える難問にもいよいよ真剣に応えてやらないといけなくなった。それは永倉と正面から向き合う事を意味する。二人は佐伯宅を辞した。
「なぜ彼は堅田に住んでいるんですか。いや別にどこに住もうと人の勝手ですが山向こうじゃ不便でしょう」
「気持ちだけでも多府県なのがいいんでしょう、祖父への配慮から」
「なら距離はあっても大阪方面のほうがはるかに便利なのに」
「祖父に似て海が好きなのかも知れない、まあ、あそこは湖だけど」
「じゃあ大阪湾でも好いでしょう」
「祖父は『あれだけ船が行き交えばあそこは海じゃない』と言ってました。だから海でなく、今走ってるここと同じ道路なのよ祖父に言わせれば」
「何もない見渡せる場所が海であり陸なんだ。・・・でこのままタイムリミットになれば遺言は無効なんですよね。その場合・・・」
「そう。その場合法定相続人、この場合おばあちゃんに半分その息子、つまりお父さんと伯父さんが残りを分けて孫にはなしってことでしょう」
「二人のお姉さんは気が気でないでしょうね」
「そうでもないでしょう。おばあちゃんの遺産はお父さんに、お父さんの遺産はあたしたちに順送りになるからその頃にはもっと額が増えてるかも知れないわよ」
「えらい暢気なんですね。それにそうなると相続税で目減りしません?」
「それは岩佐さんが考えてくれるわ、あのひと天才なんだから」
「脱税の?」
「弁護士さんよ、失礼ねー・・・あっそうかあなた一番信用できない人間だって云ってましたね」
「それはあなたの方じゃなかったっけ・・・いや失礼、随分脱線しましたけれど結局、永倉さんはどうなんですか?」
「だから苦労してるんじゃないの」
「何に? 礼子さんあなた何に迷ってるんですか、何が障害なんです」
「良く考え下さい。期限は切ってあっても誰と、つまり相手は指名してないのよ極端な話あなたにも権利があるのよ」と礼子は意味ありげに妖しい目をした。
「冗談でしょう」
「そう冗談だけど」と礼子は急に冷めた瞳でアッサリと突き放した。
「冗談だから言えるんでしょう。たとえ思っていてもまともには言えないでしょう」
「いやに絡んでくるのね、野々宮さん! ・・・」彼女は突然笑い出した。
彼女の表情は虹の出る前の空模様(狐の嫁入り)に似て野々宮は戸惑った。どう勘違いしたのか彼女は真顔になった。
「どうしたんですか? 急に」
「あなたはどうしてそんなところが井津冶に似ているの。あの子の子供の頃を想い出したわ」
此の人は掴みどころのない人だ。
「それよりどこまで送ればいいんです?」
「もうそんなところまで来たの。じゃ真直ぐ行って」
「また比叡山の山越えですか」
「そう、井津冶とこよ、あなたも一緒に会ってくれるでしょう」
「この前、会ったばかりですけど・・・・ご希望でしたら」
「もう、日にちがないのよつべこべ言わないの」
「ソ連が崩壊して割と自由にいけるようになったからでしょう、おじいちゃん前から行きたいって言っていたから」
「若い頃に一度行ったそうですね」と野々宮は永倉からの話を付け加えた。
「そうー? 樺太のそんな詳しい話は訊いてない初耳ね、知代子さんにだけに語ったのね」と優子は云ったが、佐伯は怪訝な顔でおじいちゃんから訊いた話と、永倉君のは少し違ってたが、もう歳だから思い違いだろうとその話はそこで終わった。
「十六、七か、樺太では林業が盛んで各地に製紙工場が出来てたんですよ。行く前は漁業だと思ってたんですが見極めが早かったんですね。でも最初は真岡で網元の家に弟子入りしたそうでした」
「でもなぜそんな地へ行ったんだろう」野々宮は訊いた。
「あの頃はみんな夢を見ていた。大陸へね。若狭の海を見て育ったから樺太へ行ったんでしょう。ハイリスク、ハイリターンって云うやつですね運もあるが努力すればそれだけ返ってくる」と佐伯は答えた。
今は夢がないんだろうか? 野々宮は考えた。今は大きく変わる事のない調和のとれた安定の時代。それは誰でも夢見られた未知の世界が開拓され尽くされた。今は限られた特異な世界しか残らないきわめて限定的な時代。だがあの頃は良かったが、先行きの見えない不安な時代だった。それは言い換えれば無限の可能性を秘め、広い視野で捉えられる者だけが挑める時代かも知れない。先が見えないから尻込みする者と飛び込む者。満たされぬ世界で逆に無気力になる者。それでも先人達が刈り尽くした荒野に微かな希望を持って、仄暗い灯りを頼りに歩む者もいる。そして厳格に管理されてない国境があった。だからいつでも自由に行けたが、身の安全の保証もなかった。国が管理するのでなく個人で管理するのだ。行き詰まった人だけが飛び出していった。長沼さんもその一人だったんだ。あれから良くも悪くも管理された時代が続いた。平成に入ってソ連が崩壊して秩序が乱れた。再び管理責任が問われるときに、責任能力の無い奴が、自由を叫んだ時が一番危険だ。とにかく礼子さんのお陰でまた一口会員の獲得に成功した。これで彼女の抱える難問にもいよいよ真剣に応えてやらないといけなくなった。それは永倉と正面から向き合う事を意味する。二人は佐伯宅を辞した。
「なぜ彼は堅田に住んでいるんですか。いや別にどこに住もうと人の勝手ですが山向こうじゃ不便でしょう」
「気持ちだけでも多府県なのがいいんでしょう、祖父への配慮から」
「なら距離はあっても大阪方面のほうがはるかに便利なのに」
「祖父に似て海が好きなのかも知れない、まあ、あそこは湖だけど」
「じゃあ大阪湾でも好いでしょう」
「祖父は『あれだけ船が行き交えばあそこは海じゃない』と言ってました。だから海でなく、今走ってるここと同じ道路なのよ祖父に言わせれば」
「何もない見渡せる場所が海であり陸なんだ。・・・でこのままタイムリミットになれば遺言は無効なんですよね。その場合・・・」
「そう。その場合法定相続人、この場合おばあちゃんに半分その息子、つまりお父さんと伯父さんが残りを分けて孫にはなしってことでしょう」
「二人のお姉さんは気が気でないでしょうね」
「そうでもないでしょう。おばあちゃんの遺産はお父さんに、お父さんの遺産はあたしたちに順送りになるからその頃にはもっと額が増えてるかも知れないわよ」
「えらい暢気なんですね。それにそうなると相続税で目減りしません?」
「それは岩佐さんが考えてくれるわ、あのひと天才なんだから」
「脱税の?」
「弁護士さんよ、失礼ねー・・・あっそうかあなた一番信用できない人間だって云ってましたね」
「それはあなたの方じゃなかったっけ・・・いや失礼、随分脱線しましたけれど結局、永倉さんはどうなんですか?」
「だから苦労してるんじゃないの」
「何に? 礼子さんあなた何に迷ってるんですか、何が障害なんです」
「良く考え下さい。期限は切ってあっても誰と、つまり相手は指名してないのよ極端な話あなたにも権利があるのよ」と礼子は意味ありげに妖しい目をした。
「冗談でしょう」
「そう冗談だけど」と礼子は急に冷めた瞳でアッサリと突き放した。
「冗談だから言えるんでしょう。たとえ思っていてもまともには言えないでしょう」
「いやに絡んでくるのね、野々宮さん! ・・・」彼女は突然笑い出した。
彼女の表情は虹の出る前の空模様(狐の嫁入り)に似て野々宮は戸惑った。どう勘違いしたのか彼女は真顔になった。
「どうしたんですか? 急に」
「あなたはどうしてそんなところが井津冶に似ているの。あの子の子供の頃を想い出したわ」
此の人は掴みどころのない人だ。
「それよりどこまで送ればいいんです?」
「もうそんなところまで来たの。じゃ真直ぐ行って」
「また比叡山の山越えですか」
「そう、井津冶とこよ、あなたも一緒に会ってくれるでしょう」
「この前、会ったばかりですけど・・・・ご希望でしたら」
「もう、日にちがないのよつべこべ言わないの」
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