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日和見日記
折れた翼は
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俺は電車に乗っていた。隣には綿貫がいる。
もちろんデートではない。
俺は複雑な気持ちだった。綿貫もそんな顔をしていた。
綿貫さやかは兄である、綿貫隆一の行き先を捜すために、この春から、調査を続けていた。
俺はその調査を手伝った。綿貫本人の身の上話をはじめ、数多くの人の話を聞いた。綿貫の父親と母親、綿貫隆一の親友である高橋雅英とその恋人の井上奏子。綿貫の周りでは多くの人間が悲劇の渦中にいた。
綿貫さやか、隆一兄妹の両親は綿貫さやかが小さい頃に命を落としていた。
高橋雅英は隆一を巻き添えにしないために、ザイルを切って、滑落死した。
井上奏子は不治の病に侵され余命は常人の半分以下と宣告された。
綿貫は隆一が遭難した父親を捜しに行ったのではなく、別の目的があったと考えた。「亡者を帰るべきところに帰す」この亡者は誰なのか?それが調査の起こりだった。
隆一が両親の次に亡くしていたのは親友だった。しかし、高橋雅英の遺骸は回収されており、高橋雅英の帰る場所を探しに行くというのは妙である。ならば鎮魂が目的だったのだ、と綿貫は言った。俺はそれに対し何も言わなかった。
高橋雅英は自らザイルを切った。普通そんなことするだろうか?
高橋雅英は恋人が下衆に襲われ、エイチアイブイに感染してしまったのを自分のせいだと思い詰めていた。彼は繊細な人間だった。彼の精神状態は非常に不安定だった。
綿貫隆一がそのことを見抜けずに責任を感じていた可能性は否めない。そして、彼の一族が経営する大海原病院が高橋雅英の恋人を治せないということにもいらだち、あるいは無力感を感じたかもしれない。
だが、そんな悩みは時間が解決したはずだ。高橋雅英が親友を失ったのは今から十年前。去年の時点で数えても、九年前の出来事だ。そんな昔のことに気を病んで、失踪するようなことがあるだろうか?
俺達は足踏みをするばかりで、調査は一向に進まなかった。
綿貫は高橋雅英の石碑を見に行こうと提案する。
慰霊碑。誰が建てたのかもわからない慰霊碑。
結論から言うと、綿貫さやかと俺がこの四か月間行ってきたことは、無意味とまではいわないが、ほとんど道草を食っていたようなものだ。
俺は綿貫隆一の顔を知らなかった。早い段階で彼の顔を見ていたのならば、この調査はもう少し早く終わっていただろう。
調査が道草を食っていたようなものだと俺は言ったが、妙な点には気づいていた。
綿貫隆一がいなくなったのは去年の夏だ。それを俺に教えた綿貫賢二は淡々としていた。淡々としすぎていた。親族の失踪にどうしてああも、他人行儀でいられるのだろうか。
綿貫隆一は自らを「籠の中の鳥」と称した。翼がないのならば生きている価値もないとも。俺は詩でも読みたかったんだろうと大して気にしなかったが、彼に関してそれは心の中を大きく占めることだったのだ。
行方不明者の調査をするのだ。調べるものと言ったら限られてくる。綿貫隆一の失踪を知らせる、記事がどこかに出ていてもおかしくない。俺はすっかり事件のことを理解したつもりでいたから、隆一失踪の記事など探そうともしなかった。綿貫が、失踪した。そして遭難した。と言い張るのだから信じるしかあるまい。そう考えていた。
俺が最初からこの調査に熱心に取り組んでいたら、早い段階で過去の記事を探ることを考えただろう。事実確認は基本であるが、基本だからこそ取り除いてはいけない。
俺が記事を探し出そうとしたのは、綿貫隆一の写真を見た後だった。
しかし、記事などなかったのだ。綿貫兄妹の父親が剣岳で遭難したという記事は見つかった。だが、その息子が遭難したという記事は見つからなかった。
思え返せば、綿貫隆一が失踪していると知っていた、あるいは言っていたのは綿貫賢二、綿貫さやか、それだけなのだ。
綿貫兄妹の父親がよく利用していたという旅館の女将は、綿貫の父が遭難したことは知っていたが、その息子が遭難していることは知らなかった。俺が石碑を見に行った小旅行の後に綿貫邸の前で出会った綿貫隆一の大学の同期だと言っていた、男は遭難でも失踪でもなく、綿貫隆一が休職しているといった。まるで、しばらく仕事を休むことになると綿貫隆一にはわかっていたかのようだ。
井上奏子も綿貫隆一が失踪していると聞いて驚いていた。友人であったはずの彼女でさえ、隆一の失踪を知らない。
正確に言えば、綿貫賢二は隆一が失踪したとは言っていない。彼は「隆一は山に行ったきり帰って来ない」と言っただけだ。
そうなのだ。綿貫隆一が失踪したと固く信じているのは綿貫さやかだけなのだ。
綿貫さやかの祖父は「隆一が戻ってこないだとすれば、そうするより仕方ない」と綿貫賢二に向かって言った。戻ってこないのだとすれば、というのは仮定条件だ。つまりその可能性はゼロではない。まるで綿貫隆一は自分の意志で、家に帰っていないのかのような言い方だ。
そうなのだ。綿貫隆一は何か、不慮の事故のために家に帰られなくなったのではない。失踪には違いないがそこには隆一の意志が存在しているのだ。
綿貫隆一は確実に生きている。
それに気づいた俺は、すぐに綿貫邸を訪れた。綿貫の叔父に確認するためだ。しかし彼は家を留守にしていた。代わりに萌菜先輩に会った。
「あなたはどこまで知っているんですか?隆一さんのことについて」俺は彼女に問い詰めた。
「私にはそれを口にする権限はない。私は綿貫家の人間には相違ないが、綿貫隆一の問題について口出しをする権利はない」
その言葉は、俺の考えを裏付けるのに充分であった。
萌菜先輩が映画撮影に綿貫さやかを引き寄せたのも、山岳部を巻き込んだのも、俺達に井上奏太、ひいては井上奏子と接触させるためだったのかもしれない。
萌菜先輩は綿貫がどういうことを調べていて何に行き詰っているのか知っていたのだろう。
結果として、井上奏子は隆一の失踪の直接の原因ではなかったが、解が間違いと知ることも調査のうちである。
萌菜先輩は事情により、綿貫に直に真実を伝えることはできなかったが、間接的にヒントを与えようとしたのだ。
俺は萌菜先輩が好意的であったとわかっても気味悪く思った。実の妹に、兄についての真実を隠しているこの綿貫という家が。
萌菜先輩は続けて「たとえ、叔父さんなどに聞いても教えてはもらえない。君はさやかと親しいのかもしれないが所詮は部外者だ」と言った。
俺はいらだちさえ覚えた。寒気がした。綿貫という家には得体のしれないものが蠢《うごめ》いている。
妹にさえ兄が生きていることを隠さなければならない理由などが存在するのか。
関係者に教えてもらえないのならば、自分で探るしかない。
綿貫隆一は生きている。俺はごく最近に彼に会っている。
彼を見たのは北岳、あの石碑のところで出会った青年が、綿貫隆一その人だ。
彼が生きていて、北岳付近にいるとなれば、あの石碑を建てたのが誰であるのかなんてほとんどわかったようなものだ。あれは綿貫隆一が親友を偲んで作らせたものだ。
俺は北岳の麓の石材店にしらみつぶしに電話を掛けた。「最近、北岳に慰霊碑を建てた人を知らないか」と。
最終的に行きついた、その人の居場所、そこに俺達は向かっている。
小さな町だ。とても活気ある街とは言い難い。
小さな町の小さな診療所。俺はそこの診察室に座っていた。
「今日はどこが悪いのですか」整った顔をしている、若い医師はそういった。俺のことは覚えていないようだった。
「悩み事が尽きないんです」俺は言った。彼は妙な顔をした。「話を聞いてください。先生」
「……あなたはここの町の人ではないですよね。若い人は少ないですから、頭に入っています」彼はそういった。
「俺は愛知からきました。ある人に頼まれごとをされまして。人探しです。いや理由探しですかね」
「なんですか」彼はもう、真顔に戻っている。医師だから、患者の話を聞かないわけにはいかないのだ。それがどんなに突拍子のないことでも。
「理由探しと言いましたが、確認と言ったほうがいいかもしれませんね。綿貫……隆一先生。どうしてこの場所にいるんですか?」俺は彼がピクリと反応したのを見た。
「君は誰だ」
「さやかさんの友達ですよ」そういうと彼は何かを悟ったらしかった。「隆一先生、あなたは去年の夏に家を出た。愛知を出て、今ここにいる。その理由はなんですか」
「理由ねえ。知りたいのなら、自分で考えてごらん」彼は答えを言う気はないらしかった。
俺はそれを言うのはためらわれた。萌菜先輩が言ったように俺は所詮部外者なのだ。だが、ここまで来た以上引き返すわけにはいかない。
「さやかさんは、あなたが高橋雅英さんを悔やんで家を出たと考えた」俺がそういうと、彼は
「そんな……」
「そんな格好のいい理由ではない」彼の代わりに俺が言う。「あなたが家を出たのは、大海原に、綿貫家に囚われるのが嫌だったからですね?」綿貫隆一は何も言わなかった。十も年下の俺に、説教じみたことを言われて気分がいいはずがない。彼に俺はどう見えているだろうか。探偵ごっこをし、答えがわかってはしゃいでいる餓鬼に見えているのだろうか。
綿貫隆一は自分を籠の中の鳥だと称した。それは綿貫家という、大きな鳥籠から逃れられない、自分自身を風刺してそう表現したのだ。綿貫隆一は家が定めるように、医師になり、病院を継ぎ、また次の世代につなぐという、一族の奴隷になるのを厭ったのだ。彼は自由に生きたかった。親友の恋人一人を救えない、図体だけでかい病院のトップになどなりたくはなかった。
俺は綿貫隆一が何も話さないことも覚悟していたが、彼はしばしの沈黙の後、重い口を開いた。
「俺はあの家が……嫌いだ。人を救う素晴らしい仕事?そんなのは嘘だ。病院の中は腐っている。腐った医者たちが気にしているのは自分たちのことで、患者のことなんかこれっぽっちも考えちゃいない。
人をかき集めても、金をかき集めても、救えない人間はごろごろいる。実際、俺の知り合いの病気も治せないんだ。病院を継いで、そこに縛られて、どんなに頑張っても、病院を守るのに精いっぱいで、患者のことはおざなりになる。
家を守れだ?知ったことではない。守る価値なんてどこにあるんだ。伝統なんてばかばかしい。そんなものは何の足しにもならない。
俺は爺さんたちに家を出るといった。そうしたら、勘当といわれた。だが構わなかった。
爺さんたちは俺を失踪したことにしたよ。笑えるね。跡取り息子が家出とは世間様には公表できないわけだ。何よりも大事なのは体裁だからな
俺は晴れて自由の身になった。
俺は自分のやっていることが間違っているとは思わない。大病院で人を救うのと、田舎の診療所で人を救うのとで価値に違いがあると思うか?俺がこの地で人々を診るのが、腐った病院を継ぐより価値の低いことだとは思わない。
……俺の親父が剣岳で死んだことは知っているか?」彼はそういった。
「はい。知っています」俺は答えた。
「なんで親父が、幼い俺と、さやかを残して、危険な山に行ったと思う?
親父も俺と同じだったからだ。綿貫という思い看板を背負わされて、自分の生き方を定められて、自由に生きていけない苦しみに喘いだ。毎日人が病院で死んでいく。普通の医者はな、そんなのにはなれちまうんだ。だが親父は普通の医者じゃなかった。すべての人間を救うのなんて人間にはできない。心を捨てなきゃ医者なんてやっていけない。
だが親父は心を捨てることをできなかった。
強いストレスを紛らすためには強い刺激が必要だ。だから山に登るんだ。
親父はそうして逝ってしまった。
俺は違う方法を取って、逃げただけだ。
君は俺を笑うか。責任逃れする俺を」
「俺はあなたを非難するつもりはありません。俺は部外者ですから。ただ、さやかさんが一人ぼっちでいることにあなたが平気でいられるのかは疑問です」
「……さやかはもう知っているのか?」
俺は答える代わりに、外に待機させていた彼女を中に呼び寄せた。
「お兄ちゃん……」綿貫は目に涙を浮かべている。死んだと思っていた家族に再会したのだ。そうなるのが当然だろう。綿貫隆一は居心地が悪そうだった。綿貫は彼に駆け寄って抱きついた。
「……笑ってくれ。馬鹿な兄ちゃんを」そういう綿貫隆一に対し、綿貫さやかは涙をこぼしながら、ふるふると首を振るばかりである。「……さやか。一緒に暮らそうか?お前もくだらない伝統のために縛られるのは嫌だろう。お前と生活していくだけの余裕はある。大学にだって行かせてやれる。これでも医者なんだ。もっと都会に住みたいのならば引っ越してもいい。あの家にいる理由なんてないだろう」
綿貫さやかは、顔を上げ言った。「私はあそこの家にいます」
「兄ちゃんが嫌いか?」
「いえ、お兄ちゃんは大好きです。できることなら一緒に暮らしたいです。
でも、私は綿貫の女です。私が今ここにいるのは綿貫家があったからです。曽祖父が病院を作り、祖父が受け継ぎ、父や叔父さんたちが守ろうとしてきたものがあったから私はこの世に生まれたんです。
私は自分を生んだ存在を恨めるでしょうか?
いえ、そんなことはできません。私は家のために生きたいのです。私はそのことを不幸せなことだとも、窮屈なことだとも思いません。病院が万能ではないのは事実です。でも、それを嘆き、見ぬふりをしたところで何の解決にもならないことも事実です。私はそんな現状を変えたい。
変えることは難しいことかもしれません。だけど、変えようとしない限り変わらないのも事実なんです。
私はあの家を守ります。安心してください。お兄ちゃんはもうつらい思いをしなくてもいいんです。私がいますから。お兄ちゃんが戻ってきたいと思えるような病院にします。それまで待っていてください」綿貫はそういって診察室を出て行ってしまった。
「ほんと、情けない兄貴だよな」綿貫隆一はそう呟く。
「……井上奏子さんに会いました」隆一はこちらを見た。「彼女は生きています。あなたは彼女を救えないことを嘆いた。親友を亡くし、その恋人も救えないことを嘆いた。
でも、まだ彼女は生きています。生きることをあきらめていません。
釈迦に説法かもしれませんが言わせて下さい。俺は大きな病院が無駄な存在だとは思いません。確かに救えない人もいるのかもしれませんが、多くの人を救ってきたのも事実です。
医者が何を思おうと、金が欲しいのか、尊敬されたいのか、社会的地位が欲しいのか、ただ漫然と親の病院を引き継いだのか、何を考えていようと、救われる身としては、助かればそれでいいとも思えます。患者が欲しいのは自分の命であって、美談ではないのです。
それに、感染したら助からないと言われた病気がもはや不治の病ではなくなったり、かかったら十年後には死ぬとされたエイズも平均寿命には届きませんが、余命が伸びていることも事実です。
数多くの病気があります。大海原病院が日本一の病院としてそれらの病気の研究に関してまったくの役立たずだったのでしょうか?
全国の系列病院で優秀な医師を育ててきた大海原病院が医学の発展に貢献してこなかったといえるでしょうか?
俺はあなたの家が世界中の患者に影響を及ぼすような大きなことをやってきたと信じて疑いません。
あなたはたった一人の人間さえ救えないという。だけど、あなたの家は億単位の人を救ってきたんです。
それでもあなたが、自分の家に対し、誇りを持てないというならば、もう言うことはありません」
俺はそれだけ言って、挨拶をして、診察室を出ようとした。
「君の名前を聞いていなかったな」綿貫隆一は俺を呼び止めた。
「深山太郎です」
「最後に教えといてあげよう、深山君。なんで叔父や爺さんがさやかに何も教えなかったのかを。
それは、さやかまでもが家を捨てて逃げてしまうことを恐れたからだよ。あれはそういう家なんだ」
俺は何も言わず一礼だけして、その場を後にした。
もちろんデートではない。
俺は複雑な気持ちだった。綿貫もそんな顔をしていた。
綿貫さやかは兄である、綿貫隆一の行き先を捜すために、この春から、調査を続けていた。
俺はその調査を手伝った。綿貫本人の身の上話をはじめ、数多くの人の話を聞いた。綿貫の父親と母親、綿貫隆一の親友である高橋雅英とその恋人の井上奏子。綿貫の周りでは多くの人間が悲劇の渦中にいた。
綿貫さやか、隆一兄妹の両親は綿貫さやかが小さい頃に命を落としていた。
高橋雅英は隆一を巻き添えにしないために、ザイルを切って、滑落死した。
井上奏子は不治の病に侵され余命は常人の半分以下と宣告された。
綿貫は隆一が遭難した父親を捜しに行ったのではなく、別の目的があったと考えた。「亡者を帰るべきところに帰す」この亡者は誰なのか?それが調査の起こりだった。
隆一が両親の次に亡くしていたのは親友だった。しかし、高橋雅英の遺骸は回収されており、高橋雅英の帰る場所を探しに行くというのは妙である。ならば鎮魂が目的だったのだ、と綿貫は言った。俺はそれに対し何も言わなかった。
高橋雅英は自らザイルを切った。普通そんなことするだろうか?
高橋雅英は恋人が下衆に襲われ、エイチアイブイに感染してしまったのを自分のせいだと思い詰めていた。彼は繊細な人間だった。彼の精神状態は非常に不安定だった。
綿貫隆一がそのことを見抜けずに責任を感じていた可能性は否めない。そして、彼の一族が経営する大海原病院が高橋雅英の恋人を治せないということにもいらだち、あるいは無力感を感じたかもしれない。
だが、そんな悩みは時間が解決したはずだ。高橋雅英が親友を失ったのは今から十年前。去年の時点で数えても、九年前の出来事だ。そんな昔のことに気を病んで、失踪するようなことがあるだろうか?
俺達は足踏みをするばかりで、調査は一向に進まなかった。
綿貫は高橋雅英の石碑を見に行こうと提案する。
慰霊碑。誰が建てたのかもわからない慰霊碑。
結論から言うと、綿貫さやかと俺がこの四か月間行ってきたことは、無意味とまではいわないが、ほとんど道草を食っていたようなものだ。
俺は綿貫隆一の顔を知らなかった。早い段階で彼の顔を見ていたのならば、この調査はもう少し早く終わっていただろう。
調査が道草を食っていたようなものだと俺は言ったが、妙な点には気づいていた。
綿貫隆一がいなくなったのは去年の夏だ。それを俺に教えた綿貫賢二は淡々としていた。淡々としすぎていた。親族の失踪にどうしてああも、他人行儀でいられるのだろうか。
綿貫隆一は自らを「籠の中の鳥」と称した。翼がないのならば生きている価値もないとも。俺は詩でも読みたかったんだろうと大して気にしなかったが、彼に関してそれは心の中を大きく占めることだったのだ。
行方不明者の調査をするのだ。調べるものと言ったら限られてくる。綿貫隆一の失踪を知らせる、記事がどこかに出ていてもおかしくない。俺はすっかり事件のことを理解したつもりでいたから、隆一失踪の記事など探そうともしなかった。綿貫が、失踪した。そして遭難した。と言い張るのだから信じるしかあるまい。そう考えていた。
俺が最初からこの調査に熱心に取り組んでいたら、早い段階で過去の記事を探ることを考えただろう。事実確認は基本であるが、基本だからこそ取り除いてはいけない。
俺が記事を探し出そうとしたのは、綿貫隆一の写真を見た後だった。
しかし、記事などなかったのだ。綿貫兄妹の父親が剣岳で遭難したという記事は見つかった。だが、その息子が遭難したという記事は見つからなかった。
思え返せば、綿貫隆一が失踪していると知っていた、あるいは言っていたのは綿貫賢二、綿貫さやか、それだけなのだ。
綿貫兄妹の父親がよく利用していたという旅館の女将は、綿貫の父が遭難したことは知っていたが、その息子が遭難していることは知らなかった。俺が石碑を見に行った小旅行の後に綿貫邸の前で出会った綿貫隆一の大学の同期だと言っていた、男は遭難でも失踪でもなく、綿貫隆一が休職しているといった。まるで、しばらく仕事を休むことになると綿貫隆一にはわかっていたかのようだ。
井上奏子も綿貫隆一が失踪していると聞いて驚いていた。友人であったはずの彼女でさえ、隆一の失踪を知らない。
正確に言えば、綿貫賢二は隆一が失踪したとは言っていない。彼は「隆一は山に行ったきり帰って来ない」と言っただけだ。
そうなのだ。綿貫隆一が失踪したと固く信じているのは綿貫さやかだけなのだ。
綿貫さやかの祖父は「隆一が戻ってこないだとすれば、そうするより仕方ない」と綿貫賢二に向かって言った。戻ってこないのだとすれば、というのは仮定条件だ。つまりその可能性はゼロではない。まるで綿貫隆一は自分の意志で、家に帰っていないのかのような言い方だ。
そうなのだ。綿貫隆一は何か、不慮の事故のために家に帰られなくなったのではない。失踪には違いないがそこには隆一の意志が存在しているのだ。
綿貫隆一は確実に生きている。
それに気づいた俺は、すぐに綿貫邸を訪れた。綿貫の叔父に確認するためだ。しかし彼は家を留守にしていた。代わりに萌菜先輩に会った。
「あなたはどこまで知っているんですか?隆一さんのことについて」俺は彼女に問い詰めた。
「私にはそれを口にする権限はない。私は綿貫家の人間には相違ないが、綿貫隆一の問題について口出しをする権利はない」
その言葉は、俺の考えを裏付けるのに充分であった。
萌菜先輩が映画撮影に綿貫さやかを引き寄せたのも、山岳部を巻き込んだのも、俺達に井上奏太、ひいては井上奏子と接触させるためだったのかもしれない。
萌菜先輩は綿貫がどういうことを調べていて何に行き詰っているのか知っていたのだろう。
結果として、井上奏子は隆一の失踪の直接の原因ではなかったが、解が間違いと知ることも調査のうちである。
萌菜先輩は事情により、綿貫に直に真実を伝えることはできなかったが、間接的にヒントを与えようとしたのだ。
俺は萌菜先輩が好意的であったとわかっても気味悪く思った。実の妹に、兄についての真実を隠しているこの綿貫という家が。
萌菜先輩は続けて「たとえ、叔父さんなどに聞いても教えてはもらえない。君はさやかと親しいのかもしれないが所詮は部外者だ」と言った。
俺はいらだちさえ覚えた。寒気がした。綿貫という家には得体のしれないものが蠢《うごめ》いている。
妹にさえ兄が生きていることを隠さなければならない理由などが存在するのか。
関係者に教えてもらえないのならば、自分で探るしかない。
綿貫隆一は生きている。俺はごく最近に彼に会っている。
彼を見たのは北岳、あの石碑のところで出会った青年が、綿貫隆一その人だ。
彼が生きていて、北岳付近にいるとなれば、あの石碑を建てたのが誰であるのかなんてほとんどわかったようなものだ。あれは綿貫隆一が親友を偲んで作らせたものだ。
俺は北岳の麓の石材店にしらみつぶしに電話を掛けた。「最近、北岳に慰霊碑を建てた人を知らないか」と。
最終的に行きついた、その人の居場所、そこに俺達は向かっている。
小さな町だ。とても活気ある街とは言い難い。
小さな町の小さな診療所。俺はそこの診察室に座っていた。
「今日はどこが悪いのですか」整った顔をしている、若い医師はそういった。俺のことは覚えていないようだった。
「悩み事が尽きないんです」俺は言った。彼は妙な顔をした。「話を聞いてください。先生」
「……あなたはここの町の人ではないですよね。若い人は少ないですから、頭に入っています」彼はそういった。
「俺は愛知からきました。ある人に頼まれごとをされまして。人探しです。いや理由探しですかね」
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「理由探しと言いましたが、確認と言ったほうがいいかもしれませんね。綿貫……隆一先生。どうしてこの場所にいるんですか?」俺は彼がピクリと反応したのを見た。
「君は誰だ」
「さやかさんの友達ですよ」そういうと彼は何かを悟ったらしかった。「隆一先生、あなたは去年の夏に家を出た。愛知を出て、今ここにいる。その理由はなんですか」
「理由ねえ。知りたいのなら、自分で考えてごらん」彼は答えを言う気はないらしかった。
俺はそれを言うのはためらわれた。萌菜先輩が言ったように俺は所詮部外者なのだ。だが、ここまで来た以上引き返すわけにはいかない。
「さやかさんは、あなたが高橋雅英さんを悔やんで家を出たと考えた」俺がそういうと、彼は
「そんな……」
「そんな格好のいい理由ではない」彼の代わりに俺が言う。「あなたが家を出たのは、大海原に、綿貫家に囚われるのが嫌だったからですね?」綿貫隆一は何も言わなかった。十も年下の俺に、説教じみたことを言われて気分がいいはずがない。彼に俺はどう見えているだろうか。探偵ごっこをし、答えがわかってはしゃいでいる餓鬼に見えているのだろうか。
綿貫隆一は自分を籠の中の鳥だと称した。それは綿貫家という、大きな鳥籠から逃れられない、自分自身を風刺してそう表現したのだ。綿貫隆一は家が定めるように、医師になり、病院を継ぎ、また次の世代につなぐという、一族の奴隷になるのを厭ったのだ。彼は自由に生きたかった。親友の恋人一人を救えない、図体だけでかい病院のトップになどなりたくはなかった。
俺は綿貫隆一が何も話さないことも覚悟していたが、彼はしばしの沈黙の後、重い口を開いた。
「俺はあの家が……嫌いだ。人を救う素晴らしい仕事?そんなのは嘘だ。病院の中は腐っている。腐った医者たちが気にしているのは自分たちのことで、患者のことなんかこれっぽっちも考えちゃいない。
人をかき集めても、金をかき集めても、救えない人間はごろごろいる。実際、俺の知り合いの病気も治せないんだ。病院を継いで、そこに縛られて、どんなに頑張っても、病院を守るのに精いっぱいで、患者のことはおざなりになる。
家を守れだ?知ったことではない。守る価値なんてどこにあるんだ。伝統なんてばかばかしい。そんなものは何の足しにもならない。
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……俺の親父が剣岳で死んだことは知っているか?」彼はそういった。
「はい。知っています」俺は答えた。
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だが親父は心を捨てることをできなかった。
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「いえ、お兄ちゃんは大好きです。できることなら一緒に暮らしたいです。
でも、私は綿貫の女です。私が今ここにいるのは綿貫家があったからです。曽祖父が病院を作り、祖父が受け継ぎ、父や叔父さんたちが守ろうとしてきたものがあったから私はこの世に生まれたんです。
私は自分を生んだ存在を恨めるでしょうか?
いえ、そんなことはできません。私は家のために生きたいのです。私はそのことを不幸せなことだとも、窮屈なことだとも思いません。病院が万能ではないのは事実です。でも、それを嘆き、見ぬふりをしたところで何の解決にもならないことも事実です。私はそんな現状を変えたい。
変えることは難しいことかもしれません。だけど、変えようとしない限り変わらないのも事実なんです。
私はあの家を守ります。安心してください。お兄ちゃんはもうつらい思いをしなくてもいいんです。私がいますから。お兄ちゃんが戻ってきたいと思えるような病院にします。それまで待っていてください」綿貫はそういって診察室を出て行ってしまった。
「ほんと、情けない兄貴だよな」綿貫隆一はそう呟く。
「……井上奏子さんに会いました」隆一はこちらを見た。「彼女は生きています。あなたは彼女を救えないことを嘆いた。親友を亡くし、その恋人も救えないことを嘆いた。
でも、まだ彼女は生きています。生きることをあきらめていません。
釈迦に説法かもしれませんが言わせて下さい。俺は大きな病院が無駄な存在だとは思いません。確かに救えない人もいるのかもしれませんが、多くの人を救ってきたのも事実です。
医者が何を思おうと、金が欲しいのか、尊敬されたいのか、社会的地位が欲しいのか、ただ漫然と親の病院を引き継いだのか、何を考えていようと、救われる身としては、助かればそれでいいとも思えます。患者が欲しいのは自分の命であって、美談ではないのです。
それに、感染したら助からないと言われた病気がもはや不治の病ではなくなったり、かかったら十年後には死ぬとされたエイズも平均寿命には届きませんが、余命が伸びていることも事実です。
数多くの病気があります。大海原病院が日本一の病院としてそれらの病気の研究に関してまったくの役立たずだったのでしょうか?
全国の系列病院で優秀な医師を育ててきた大海原病院が医学の発展に貢献してこなかったといえるでしょうか?
俺はあなたの家が世界中の患者に影響を及ぼすような大きなことをやってきたと信じて疑いません。
あなたはたった一人の人間さえ救えないという。だけど、あなたの家は億単位の人を救ってきたんです。
それでもあなたが、自分の家に対し、誇りを持てないというならば、もう言うことはありません」
俺はそれだけ言って、挨拶をして、診察室を出ようとした。
「君の名前を聞いていなかったな」綿貫隆一は俺を呼び止めた。
「深山太郎です」
「最後に教えといてあげよう、深山君。なんで叔父や爺さんがさやかに何も教えなかったのかを。
それは、さやかまでもが家を捨てて逃げてしまうことを恐れたからだよ。あれはそういう家なんだ」
俺は何も言わず一礼だけして、その場を後にした。
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