26 / 29
第二十四章:鏡の中の少女
カーテンの隙間から差し込む朝陽が、白磁のカップを穏やかに照らしていた。
「おはようございます、史帆さん。起きられますか?」
「……んっ……おはよ……もぅ……楓ちゃんが昨日は寝かせてくれなかったんでしょ」
史帆はシーツの海から這い出し、重い瞼をこすりながら不満を漏らした。
けれどその声に棘はなく、昨夜を思い出すだけで頬が薄紅に染まっていく。
「すいません。手加減したかったのですが、史帆さんがあまりにも可愛くて、つい」
楓は悪戯っぽく微笑み、湯気の立つコーヒーをテーブルに置いた。
いつの間に起きて準備を済ませたのか、楓の身なりは指先から毛先まで既に完璧に整えられていた。
シワひとつないシャツの襟元からは清潔な香りが漂い、凛とした姿は朝の清冽な空気そのものだ。
対する史帆といえば、はだけた寝間着の間から覗く鎖骨には昨夜の痕跡が淡く残り、柔らかい髪は無防備に跳ねている。
そんな自分の「寝癖だらけの無様な姿」が、楓の洗練された美しさに甘やかされている事実を突きつけてくるようで、史帆はむず痒いような気恥ずかしさに身を縮めた。
しかし、楓が次に手にしたのは、昨夜の甘い空気とは異質な、年月の重みを感じさせる古びた茶封筒だった。
「先生、『水無月史帆』の原点を見つけました」
封筒から取り出されたのは、端が少し波打った原稿用紙の束。
そこには、現在の洗練された筆致とは似ても似つかない、丸っこくて拙い、けれど一文字一文字に命が宿っているような文字が並んでいた。
史帆はそれを見た瞬間、ベッドから飛び起きた。
「やめて、楓ちゃん! それは……誰にも見せないって決めてたやつなの!」
反射的に手を伸ばしたが、楓はしなやかな動作でそれを躱す。
デビュー作『雨音のセレナーデ』で世間が絶賛した「清廉な色気」や、計算された美しさはそこにはない。
そこに綴られていたのは、奥手な自分にコンプレックスを抱き、現実には存在しない「理想の王子様」に救われることを夢見ていた、剥き出しの女子高生・史帆の渇望だった。
「返して……恥ずかしすぎて死んじゃう……っ!」
「いいえ。これは死ぬほど恥ずかしいものでも、隠すべき汚点でもないですよ」
楓は史帆の制止を無視し、窓際に立って原稿の一節を読み上げ始めた。
「『彼は私の手を取り、暗闇から連れ出してくれる。その指先が触れるだけで、私は自分を忘れてしまいそうになる』……ふふ、素敵な一節です」
「あぁっ、もう……やめて……!」
史帆は両手で顔を覆い、ソファに突っ伏した。
甘く蕩けるような非現実的な展開、今の自分が読めば背中が痒くなるようなストレートな憧憬。
けれど楓は、その手を優しく退けると、史帆の瞳をじっと見つめた。
「先生、なぜこれが恥ずかしいのですか? 確かに文体は稚拙ですが、ここには今の先生が失くしてしまった、純粋な『飢え』があります。先生は、自分が思っているよりも、ずっと自分のことを書くのが得意なのではないですか?」
楓の言葉が、史帆の心の奥底に眠っていた記憶の蓋を叩く。
「この物語に登場する数々の王子様。孤独な少女を救い出し、すべてを委ねさせ、甘く蕩けさせる……。これって、今の私と先生の関係そのものでもあるのですが、読者と先生の関係でもありますよね」
「……どういうこと?」
問い返した史帆の耳元に、楓の熱い呼気が触れた。
「つまり、先生が王子で、読者が孤独な少女です。かつてのあなたがこの原稿を書いて救われたように、今の読者もまた、あなたの描く世界に救い出されたいと願っている。あなたは、過去の自分を救うためにペンを取った王子様なんですよ」
史帆は息を呑んだ。
鏡を見るたびに、自信のなさが透けて見える自分の地味な顔が嫌いだった。
気の利いたお喋りもできず、ただ物語の中に逃げ込むしかなかった臆病な少女。
そんな「何者でもない自分」を殺して、清廉な「水無月史帆」という鎧を纏って戦ってきたつもりだった。
けれど、楓の言葉は、その鎧の下で震えていたかつての自分を、優しく抱きしめてくれた。
自分が書いた稚拙な王子様たちは、決して滑稽な妄想などではなく、誰よりも先に自分自身を救うために伸ばした、精一杯の手だったのだ。
コンプレックスも、痛々しいほどの憧れも、無駄ではなかった。
楓に暴かれた過去の自分が、今の自分を肯定してくれるような気がした。
「私……王子様に、なれてたのかな」
「ええ。あなたは、私にとっても、ファンにとっても、唯一無二の救世主です」
朝の光の中で、史帆は自分という人間を、初めて丸ごと愛せたような気がした。
溢れた涙が頬を伝い、楓のシャツに小さな染みを作っていく。それを愛おしそうに見つめていた楓が、ふと、宝物を提案するかのような悪戯っぽい光を瞳に宿した。
「……ねえ、先生。この物語、今のあなたで書き直してみませんか?」
「えっ……これを? でも、こんな古臭い王子様ものなんて……」
戸惑う史帆の頬を、楓の細い指先が優しくなぞる。
「王子様のままでいいんです。ただ――その王子様が、実は女の子だったという設定に変えてみるのはいかがでしょう」
楓の言葉に、史帆は弾かれたように顔を上げた。
「女の子の、王子様……?」
「かつてのあなたが夢見た、あなたを救い出してくれる完璧なヒーロー。それを、等身大の、けれど誰よりも強く美しい女性として描き直すんです。これこそが、今の『双葉雫』としての毒と、かつての『水無月史帆』としての祈りを融合させる、最高の舞台になると思いませんか?」
楓はそう言うと、史帆の耳元に唇を寄せ、まるで共犯者への囁きのように声を潜めた。
「モデルなら、すぐ目の前にいます。……あなたが夢見た王子様を、私が形にしてみせます」
史帆の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
自分の内側にあった幼い憧れが、楓という現実の愛を得て、新しい物語として芽吹こうとしている。
「楓ちゃんを、王子様に……」
「ふふ、光栄です。あなたの筆を動かすためなら、私はどんな役にもなりましょう」
史帆は、まだ寝癖のついたままの頭で、けれど真っ直ぐに楓を見つめ返した。
恥ずかしさで封印していた過去が、楓の手によって、眩いばかりのインスピレーションへと書き換えられていく。
「……書いてみたい。楓ちゃんという、私の王子様のこと」
史帆のその言葉を聞いた瞬間、楓の口角が満足げに、そして艶やかに持ち上がった。
「おはようございます、史帆さん。起きられますか?」
「……んっ……おはよ……もぅ……楓ちゃんが昨日は寝かせてくれなかったんでしょ」
史帆はシーツの海から這い出し、重い瞼をこすりながら不満を漏らした。
けれどその声に棘はなく、昨夜を思い出すだけで頬が薄紅に染まっていく。
「すいません。手加減したかったのですが、史帆さんがあまりにも可愛くて、つい」
楓は悪戯っぽく微笑み、湯気の立つコーヒーをテーブルに置いた。
いつの間に起きて準備を済ませたのか、楓の身なりは指先から毛先まで既に完璧に整えられていた。
シワひとつないシャツの襟元からは清潔な香りが漂い、凛とした姿は朝の清冽な空気そのものだ。
対する史帆といえば、はだけた寝間着の間から覗く鎖骨には昨夜の痕跡が淡く残り、柔らかい髪は無防備に跳ねている。
そんな自分の「寝癖だらけの無様な姿」が、楓の洗練された美しさに甘やかされている事実を突きつけてくるようで、史帆はむず痒いような気恥ずかしさに身を縮めた。
しかし、楓が次に手にしたのは、昨夜の甘い空気とは異質な、年月の重みを感じさせる古びた茶封筒だった。
「先生、『水無月史帆』の原点を見つけました」
封筒から取り出されたのは、端が少し波打った原稿用紙の束。
そこには、現在の洗練された筆致とは似ても似つかない、丸っこくて拙い、けれど一文字一文字に命が宿っているような文字が並んでいた。
史帆はそれを見た瞬間、ベッドから飛び起きた。
「やめて、楓ちゃん! それは……誰にも見せないって決めてたやつなの!」
反射的に手を伸ばしたが、楓はしなやかな動作でそれを躱す。
デビュー作『雨音のセレナーデ』で世間が絶賛した「清廉な色気」や、計算された美しさはそこにはない。
そこに綴られていたのは、奥手な自分にコンプレックスを抱き、現実には存在しない「理想の王子様」に救われることを夢見ていた、剥き出しの女子高生・史帆の渇望だった。
「返して……恥ずかしすぎて死んじゃう……っ!」
「いいえ。これは死ぬほど恥ずかしいものでも、隠すべき汚点でもないですよ」
楓は史帆の制止を無視し、窓際に立って原稿の一節を読み上げ始めた。
「『彼は私の手を取り、暗闇から連れ出してくれる。その指先が触れるだけで、私は自分を忘れてしまいそうになる』……ふふ、素敵な一節です」
「あぁっ、もう……やめて……!」
史帆は両手で顔を覆い、ソファに突っ伏した。
甘く蕩けるような非現実的な展開、今の自分が読めば背中が痒くなるようなストレートな憧憬。
けれど楓は、その手を優しく退けると、史帆の瞳をじっと見つめた。
「先生、なぜこれが恥ずかしいのですか? 確かに文体は稚拙ですが、ここには今の先生が失くしてしまった、純粋な『飢え』があります。先生は、自分が思っているよりも、ずっと自分のことを書くのが得意なのではないですか?」
楓の言葉が、史帆の心の奥底に眠っていた記憶の蓋を叩く。
「この物語に登場する数々の王子様。孤独な少女を救い出し、すべてを委ねさせ、甘く蕩けさせる……。これって、今の私と先生の関係そのものでもあるのですが、読者と先生の関係でもありますよね」
「……どういうこと?」
問い返した史帆の耳元に、楓の熱い呼気が触れた。
「つまり、先生が王子で、読者が孤独な少女です。かつてのあなたがこの原稿を書いて救われたように、今の読者もまた、あなたの描く世界に救い出されたいと願っている。あなたは、過去の自分を救うためにペンを取った王子様なんですよ」
史帆は息を呑んだ。
鏡を見るたびに、自信のなさが透けて見える自分の地味な顔が嫌いだった。
気の利いたお喋りもできず、ただ物語の中に逃げ込むしかなかった臆病な少女。
そんな「何者でもない自分」を殺して、清廉な「水無月史帆」という鎧を纏って戦ってきたつもりだった。
けれど、楓の言葉は、その鎧の下で震えていたかつての自分を、優しく抱きしめてくれた。
自分が書いた稚拙な王子様たちは、決して滑稽な妄想などではなく、誰よりも先に自分自身を救うために伸ばした、精一杯の手だったのだ。
コンプレックスも、痛々しいほどの憧れも、無駄ではなかった。
楓に暴かれた過去の自分が、今の自分を肯定してくれるような気がした。
「私……王子様に、なれてたのかな」
「ええ。あなたは、私にとっても、ファンにとっても、唯一無二の救世主です」
朝の光の中で、史帆は自分という人間を、初めて丸ごと愛せたような気がした。
溢れた涙が頬を伝い、楓のシャツに小さな染みを作っていく。それを愛おしそうに見つめていた楓が、ふと、宝物を提案するかのような悪戯っぽい光を瞳に宿した。
「……ねえ、先生。この物語、今のあなたで書き直してみませんか?」
「えっ……これを? でも、こんな古臭い王子様ものなんて……」
戸惑う史帆の頬を、楓の細い指先が優しくなぞる。
「王子様のままでいいんです。ただ――その王子様が、実は女の子だったという設定に変えてみるのはいかがでしょう」
楓の言葉に、史帆は弾かれたように顔を上げた。
「女の子の、王子様……?」
「かつてのあなたが夢見た、あなたを救い出してくれる完璧なヒーロー。それを、等身大の、けれど誰よりも強く美しい女性として描き直すんです。これこそが、今の『双葉雫』としての毒と、かつての『水無月史帆』としての祈りを融合させる、最高の舞台になると思いませんか?」
楓はそう言うと、史帆の耳元に唇を寄せ、まるで共犯者への囁きのように声を潜めた。
「モデルなら、すぐ目の前にいます。……あなたが夢見た王子様を、私が形にしてみせます」
史帆の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
自分の内側にあった幼い憧れが、楓という現実の愛を得て、新しい物語として芽吹こうとしている。
「楓ちゃんを、王子様に……」
「ふふ、光栄です。あなたの筆を動かすためなら、私はどんな役にもなりましょう」
史帆は、まだ寝癖のついたままの頭で、けれど真っ直ぐに楓を見つめ返した。
恥ずかしさで封印していた過去が、楓の手によって、眩いばかりのインスピレーションへと書き換えられていく。
「……書いてみたい。楓ちゃんという、私の王子様のこと」
史帆のその言葉を聞いた瞬間、楓の口角が満足げに、そして艶やかに持ち上がった。
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
〈社会人百合〉アキとハル
みなはらつかさ
恋愛
女の子拾いました――。
ある朝起きたら、隣にネイキッドな女の子が寝ていた!?
主人公・紅(くれない)アキは、どういったことかと問いただすと、酔っ払った勢いで、彼女・葵(あおい)ハルと一夜をともにしたらしい。
しかも、ハルは失踪中の大企業令嬢で……?
絵:Novel AI
義姉と押し入れに隠れたら、止まれなくなった
くろがねや
恋愛
父の再婚で、義姉ができた。
血は繋がっていない。でも——家族だ。そう言い聞かせながら、涼介はずっと沙耶から距離を取ってきた。
夏休み。田舎への帰省。甥っ子にせがまれて始まったかくれんぼ。急いで飛び込んだ押し入れの中に、先客がいた。
「……涼介くん」
薄い水色の浴衣。下ろした髪。橙色の光に染まった、沙耶の顔。
逃げ場のない暗闇の中で、二人分の体温が混ざり合う。
夜、来て。
その一言が——涼介の、全部を壊した。
甘くて、苦しくて、止まれない。
これは、ある夏の、秘密の話。
春に狂(くる)う
転生新語
恋愛
先輩と後輩、というだけの関係。後輩の少女の体を、私はホテルで時間を掛けて味わう。
小説家になろう、カクヨムに投稿しています。
小説家になろう→https://ncode.syosetu.com/n5251id/
カクヨム→https://kakuyomu.jp/works/16817330654752443761
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
久しぶりに帰省したら私のことが大好きな従妹と姫はじめしちゃった件
楠富 つかさ
恋愛
久しぶりに帰省したら私のことが大好きな従妹と姫はじめしちゃうし、なんなら恋人にもなるし、果てには彼女のために職場まで変える。まぁ、愛の力って偉大だよね。
※この物語はフィクションであり実在の地名は登場しますが、人物・団体とは関係ありません。
身体だけの関係です‐原田巴について‐
みのりすい
恋愛
原田巴は高校一年生。(ボクっ子)
彼女には昔から尊敬している10歳年上の従姉がいた。
ある日巴は酒に酔ったお姉ちゃんに身体を奪われる。
その日から、仲の良かった二人の秒針は狂っていく。
毎日19時ごろ更新予定
「身体だけの関係です 三崎早月について」と同一世界観です。また、1~2話はそちらにも投稿しています。今回分けることにしましたため重複しています。ご迷惑をおかけします。
良ければそちらもお読みください。
身体だけの関係です‐三崎早月について‐
https://www.alphapolis.co.jp/novel/711270795/500699060