何でも屋と季節外れの夢

水之音 霊季

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四章 アスカと一〇一号室

一 明日の予定 ─二〇一九年 五月六日─ 一

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 世界は、私を中心に回っていない。

 私が悩んだり、躓いたり、
 壁にぶつかって立ち止まっても、
 世界は歩むペースを緩めてはくれない。

 お腹は空くし、眠くもなるし、
 お客さんだってやって来る。

 二〇三号室での怪現象。

 あれに思考を裂く時間が
 仕事や生理現象に持っていかれる。

 今や二〇三号室での体験は、
 記憶には残りつつも、
 意識の外に追いやられていた。

 そして、さらなる追い討ちが私を襲う。

 それは、朝食にサンドイッチを
 作っていた時のことだ。

 涙に濡れた体を
 シャワーで温めてきたルミが、
 切り落とされたパンの耳を
 つまみ食いしながら一言。

「明日なんだけど、お店休んでもいい?」

「明日? 別にいいけど、なんかあるの?」

「うん。一度、向こうに帰ろうと思って」

「は……?」

 大きな震えが体内で起きた。

 力を失った指から
 ミニトマトが零れ落ちる。

 ミニトマトがまな板に弾んで、
 そのまま床に落下していった。

 質の悪いスーパーボールのようなそれは、
 私の爪先にぶつかって、ようやく止まった。

 昨日は恐怖、今日は動揺。

 私の心臓は忙しさに目を回していた。

「どうして急に……」

 声が震えそうだった。

 落ち着き払っているルミのことが
 不思議でしょうがなかった。

 けど、落ち着いているはずだ。

 彼女が一度家に帰る理由。

 それは、誰が聞いても
 納得せざるを得ない理由だった。

「私、ここに来て二週間じゃない?
 なんかね、まずい気配がするんだよね」

「まずい気配?」

「……色々と腐ってる気がする」

 牛乳、お肉、卵、野菜、
 食べ終わったカップ麺。

 見えない虫が背筋を駆け上ってきたから、
 私は慌ててルミの口を止めた。

 けど、私の反応を面白がっているのか、
 彼女の喋りはますます加速する。

 洗っていない食器が山積み、
 お風呂の水が入れっぱなし、
 炊いたご飯はそのままかもしれないし、
 洗濯物はまだ洗濯機の中で湿っているとか。

「わかった! わかったから!」

 そう言えば、ここに来た時のルミは
 お風呂に入るのも忘れるくらいに
 参っていたっけ。

 それなら、
 色々と放ったらかしになるのも無理はない。

 このままだと、
 ルミの部屋が地獄絵図と化してしまう。

「帰るのはわかったけど、大丈夫なの?」

 彼氏さんのことを思い出すことが、
 失踪した事実を突き付けられることが、
 それらが辛いとルミは話していた。

 彼女が向かおうとしているのは、
 二人で暮らしていた部屋であり、
 そこには彼氏さんを思い出させるものが
 無数に存在しているはずだ。

 その場所に、
 彼女は自ら飛び込もうとしている。

 心配になって当然だった。

 けれど、ルミは
「向こうには泊まらないから大丈夫だよ」と、
 そう口にした。

 その言葉に、私はホッと胸を撫で下ろす。

 それから、転がっていたミニトマトを
 ようやく拾い上げた。

 捨てるのは勿体なかったから、
 冷たい流水でこれでもかと洗ってやった。
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