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狭間の国編
エトランジュ、目が覚める
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小さい頃からリアンナはおてんばだった。
普通の令嬢がたしなむような刺繍やダンスは大の苦手。それよりも剣に興味を示して父を驚かせ母を悲しませた。「せっかくの美人さんなのに」と。
案の定屋敷の中でおとなしくしているよりも幼なじみのレギオンと外を駆け回って遊ぶようになってしまった。
普通の村の女の子のような簡素な格好で、やはり簡素な格好のレギオンと連れだって抜け出してしまい、また母のため息が増える。一応母の課した課題はこなしているのでレギオンと遊ぶこと自体はとがめられなかった。
その日もいつも通りレギオンと連れだって町外れの小川まで来ていた。
「リア、見て!」
レギオンが得意そうな顔で練習用の短い杖を取り出した。これは魔法使いが使う魔法の媒介になるものだ。魔法の才能を見せたレギオンは最近魔法の勉強を始めていて、その成果をリアンナに披露したくて仕方がないというキラキラの瞳をしていた。もちろんリアンナも楽しみにしてここへ来たのだ。こちらもワクワクする気持ちを全身で体現している。
レギオンは小川の前で軽く目をつぶり深く息を吸う。右手に持った杖を流れる水にかざし意識を集中する。
「――――水よ」
たぷん。
水面に、川の流れとはあからさまに別物の波紋が描かれる。そこからすうっと細い水柱が立ち上り、勢いよくしぶきを散らし始めた。ちょうど噴水を見ているようだ。散ったしぶきはきらきらと日の光を反射し、小さな虹をその上に描き出した。
「う……わあ! きれい! すごい!」
大きなリアンナの瞳がまんまるに開いて、小さな手は夢中でぱちぱちと拍手を繰り返す。レギオンも嬉しそうににっこり笑い、構えていた杖を下ろし魔法を解いた。同時に立ち上っていた水が魔法の支えを失って小川へ落ちて大きな音を立てた。
「すごい! すごいよレギオン。きっとえらい魔法使いになるんだね!」
「うん! 俺、すごい魔法使いになってリアのこと守ってやるからな」
「ありがとレギオン」
二人は魔法の成功に夢中になっていて、近寄ってくる足音に気がつかなかった。――――大きな野犬が自分たちを狙っていることに気がついたときにはもう逃げ場がないほどの距離に来てしまっていた。
「リア! 僕のうしろに」
レギオンが必死にリアンナをかばい、杖を野犬に向ける。だが杖の先がカタカタと小刻みに震えている。震えながらもレギオンは野犬から目を離さず、小さな声でリアンナに言った。
「リア、僕が隙を作るから合図したら逃げるぞ」
「わ、わかった」
「いくよ――――火よ!」
途端にレギオンの杖から勢いよく炎が噴き出す。さすがにあたりを焼き尽くすとかそんな威力があるわけではなくかがり火くらいの大きさだが、ランプの火くらいしか出せないはずのこの年頃の子供にしては巨大な炎だ。
野犬が炎にたじろいで数歩後じさったのを見てレギオンが叫ぶ。
「リア! いって!」
「う、うん」
リアンナは言われたとおり必死に走り出す。後ろを振り返らず全速力で走り、大きな木のあるところまで来て初めて振り返った。
「――――!」
その光景に背筋が凍る。レギオンはまだ杖を構えたまま野犬と対峙しているではないか。しかも炎はさっきよりもあからさまに小さくなってきている。野犬もそれがわかったのだろう、うなりながら今にもレギオンに飛びかかろうとしている。
リアンナは手近に落ちていた太めの枝と石を握りしめて来た道を駆け戻った。
<ほう? だから見ず知らずのこの子を助けてくれたのか>
「目の前で危険な目に遭っている者を、ましてや助けを求めている者を見捨てられるわけがないから」
<ならばあの大蜘蛛を倒してしまえば良かったのではないかえ?>
「私は助けを求められたが、なぜあの毛玉が襲われていたのか理由を知らなかった。だからあの蜘蛛殿を悪と決めつけることはできない。理由もわからず殺すのは食べるためか――――戦だけだ」
ふ、と意識が浮上する。
誰かと話していたような気もするが、たったいま目が覚めたのだから自分は眠っていたのだろう。体を起こそうとして。
「――――!」
肩が焼け付くように痛い。そして体がひどく重たい。
「ああ、まだ寝ておるのじゃ。あれだけ力を吸い取られてはまだ辛いじゃろ」
声がして誰かがふわりとふかふかの毛皮でリアンナを包んだ。暖かい。
心地よさに目を閉じ、そのまままどろみの中へと漂っていった。
再び目を覚ましたときもふかふかの毛皮の中だった。とても暖かい、触り心地のいい毛皮にうっとりするが、前回のようなだるさはるっかりぬけているのでゆっくりと体を起こしてみた。
肩の痛みはまだあるものの、随分楽になっている。
「ここは――――」
やっと今までのことを思い出した。不思議に美しい世界、毛玉と大蜘蛛。
あたりを見回すと、広い部屋の中にいることがわかった。木や蔦で組み上げられたような造りだが、決して粗末ではなくむしろ植物でできた宮殿の一室のように美しい。使われている木は丁寧に磨き上げられ、それを鮮やかな緑の蔦でどうやったのかわからないが美しく編み上げられている。リアンナ自身は真っ白な毛皮に包まれてふかふかする絨毯の上に寝かされているようだ。
「目が覚めたかえ」
はっと振り向くと、蔦で編まれた丸いかごが吊るされていて、そこに女性がゆったりと座っているのが見えた。透き通るような白い肌、宝石のような銀の瞳、輝くサラサラの真っ直ぐな緑の髪。年の頃はリアンナより少し上だろうか。
「はい、何やらご迷惑をおかけしたようです」
「逆じゃ、おまえが妾の眷属を助けてくれたのじゃ。こちらが礼を申さねばならぬ。のう、フィオ」
フィオ、という呼びかけに応えたのはリアンナを包んでいた毛皮。どうやら大きな動物に包まれて寝ていたらしい。道理で暖かかったわけだ。
長いマズルが特徴的な顔。フワフワの毛は長く白く、極上の触り心地だけど。リアンナを包んで丸まっていられるほどに長い尻尾は更に長い毛。瞳は黒曜石のような深い黒だ。
「――――綺麗だ」
思わず言葉が溢れる。近づいてきた鼻をそっと撫でると気持ち良さそうに目を細めた。
「フィオというんだね。私を抱いてくれていたのか。ありがとう。疲れただろう?」
〈そんなことないよ〉
頭に直接声が聞こえてリアンナは驚いた。
「今のは、フィオ?」
〈そうだよ、フィオがお話したの〉
ペロリと頬を舐められた。くすぐったい。
〈フィオ、リアンナにありがとう言う。助けてくれてうれしお〉
「うれしお?」
〈あ、違った、うれしい〉
ブンブンと長い尻尾を振るとふわふわと風が起こる。
「――――あれ? 助けた、って」
〈リアンナ、蜘蛛からフィオ助けてくれた〉
「え? あの小さな――――」
混乱するリアンナをその場に置いてフィオが立ち上がる。ふわりと舞うような動きでリアンナの目の前に坐り、そのまま居ずまいをただす。
シュルシュルシュルシュル。
するとみるみるうちに体が縮み、リアンナの膝よりも下くらいの高さの毛玉になってしまった。そう、大蜘蛛に襲われていた、あの毛玉だ。
真っ白な毛の中にビー玉のようなくりんくりんの黒い瞳とつやつやした鼻、小さな尖った口が見え、ピンクの舌がチロチロ動いているのが見える。
「フィオは自在に姿を変えられるのじゃ」
緑髪の女性がそう補足する。けだるそうに脇息に身を預け、どこから取り出したのか長い筒を咥えてふうう、と煙を吐く。察するにあの筒は煙管なのだろう。
「そうなんだ。フィオはすごいな」
すると毛玉の尻尾をちぎれんばかりに振っている。相当うれしいらしい。うれしさ余ってぽんと地面を蹴り飛びついてきたので、リアンナは慌ててフィオを抱き留めた。そのまま顔をベロベロ舐めるので慌てて顔から引きはがした。
「さて、リアンナ」
呼ばれて緑髪の女性を振り返った。
「フィオを助けてもらった上にあの大蜘蛛と事を構えるのも避けてくれた。事情もわからんだろうに、こちらとしてはありがたいと言うほかない。改めて礼を言うぞ。名乗りおくれたが、妾はこの狭間の国の主アディーラ、おぬしらの世界で言うところの精霊の親玉のようなものじゃ」
「私はジグハルド王国白狼騎士団第三部隊隊長、リアンナ=オリエ=エリダールと申します――――いや、どうやら不思議なことに私のことはいろいろとご存じのようですが」
「夢の中でいろいろと話してくれだじゃろう?」
「夢……?」
そういえば幼い頃の夢を見たり、誰かと話をしていた気がする。
「あれか――――」
「まあ、ひとつだけ言い訳させてもらえばの、妾は質問しただけで答えたのはおぬしじゃ。無理矢理覗いたわけではないから勘弁するのじゃ――――さあ、そろそろ何か食べた方がよい」
アディーラがパンパンと手を叩くと果物や飲み物を捧げ持った者達が現れ、リアンナとアディーラの間にセッティングしていった。どうやらしばらく寝たままだったリアンナには喉を通りやすいので助かる。
「さて、食べながら話そうかの。ほれ、その赤い実はポワンと言うてな、甘酸っぱくて美味いぞ。礼儀など構わぬからかぶりつけ」
言いながらアディーラは手近の黄色い実にかぷりと齧り付いた。リアンナもそれに倣ってポワンに齧り付くと、甘酸っぱい果汁がたっぷりと口の中をうるおしてくれる。しゃくしゃくとした歯ごたえも心地よく、言われたとおりとても美味しい。嬉しそうな顔をしていたのだろう、アディーラはリアンナの様子をみてにこにこと機嫌が良さそうだ。
「まず、おぬしが世界を渡り歩いていることは知っている。呪いでそうなっていることもな。この狭間の国は世界と世界の狭間にある小さなところ、だが重要な役割を担っておる」
アディーラは黄色の実を食べ終わり、木製のゴブレットから飲み物を飲み始めた。つんと酒精の香りがするのでどうやら酒のようだ。
「ここは精霊達の故郷なのじゃ。おぬしらの世界も含め、どの世界にも精霊はいる。それは世界を世界として成立させるためには不可欠な要素でな、あまり知られてはおらんじゃろうが」
「はい、初耳です」
「ちなみに魔法も精霊がいないと発動せなんだ。魔力は個人個人が持っているものじゃが、それを魔法として発動させるためには精霊の存在が不可欠なのじゃ。その精霊の生まれ故郷はここ狭間の国、ここから精霊はありとあらゆる世界に渡っていく」
「渡って……」
「ああ、残念じゃがおぬしを元の世界に送ってやることはできん。精霊達はどの世界に行くかをきめることはできんのじゃ。いわば一発かぎりの博打のようなものでな。一度行くと戻ってくることもできん。そういうさだめなのじゃ。すまんのう」
「いいえ、とんでもない」
「そしてあの大蜘蛛も実は精霊の仲間じゃ。といってもどちらかというと魔物に近いので妾たちとはまた別の生き物じゃが。やつらとは大昔は争っていたこともあったが、今はかっちりと棲み分けをしたことで不可侵条約を結んでおる。おぬしが大蜘蛛と会ったあの森はちょうど境界線に当たってな。あの森だけはどちらのものか曖昧な上、幻惑花の群生地なので近づかないように言っておったものを、フィオが迷い込んでしまったのじゃ」
幻惑花。地面に咲いていた小さな花を思い浮かべる。
「あの花は生き物を惑わし森から出られなくする。あの大蜘蛛にはなぜか効果がないようでな、迷い込んだものは大蜘蛛が食べてもよいという決まりになっておるのじゃ。危うくフィオも奴の食卓に上がるところじゃった」
フィオがくうんと鼻を鳴らしてうなだれたのをそっと撫でてやった。
「あそこで大蜘蛛をおぬしが倒してしまっていたらまた戦の火種になってしまうところじゃった」
そうだったのか。リアンナは自分の選択にほっとした。危うく戦になるところだった。
「アディーラ様。それでは件の大蜘蛛殿と争うおつもりはないのですね」
「無論。必要なのは均衡、あちらが攻めてくれば応戦はするが、あやつもそれほど阿呆ではない。我々はいわば光と影。どちらかが存在しなくなればもう片方も存在はできん。そのようにできておるのじゃ。そして我々が滅びること、それは――――」
「そうか。精霊が産まれなくなる、あらゆる世界がなくなるということか」
「正解じゃ。だからこの狭間の国にはそうそう異世界からの来訪者は来ない。妾は外の世界を見ることはできるがの。――――のう、リアンナ」
「はい?」
「この世界も存外退屈での。外の世界を見るくらいしか楽しみがないのじゃ。どうじゃ、おぬしがこの世界から旅立った後もおぬしの旅を時折覗かせてはもらえぬか。おぬしらの行く末が気になってのう」
「構いません……が」
リアンナは首をかしげた。今、アディーラは「おぬしら」と複数形で表現した。しかしリアンナの旅は孤独な旅。
「アディーラ様。その、おぬしら、とは――――」
「おお、話しておらなんだ。フィオ」
呼ばれてフィオがアディーラを見上げ、きちっとお座りした。どこかかわいらしさの中にもきりっとした雰囲気を漂わせているが、なにかが笑いを誘う。
「このフィオをおぬしの旅に同行させて欲しいのじゃ」
「ええ?」
フィオを見下ろすとフィオもリアンナを見上げる。
「同行、とおっしゃいますが、私の旅は行き先を自由に決めることができません。フィオはここへ戻ってこられなくなります」
「構わん。フィオはおぬしについていく定めにある。それとも嫌か? リアンナが嫌なら拒否することもできるが」
「嫌ではありません。むしろ嬉しいですが、フィオのことを考えると」
<連れてってくれないの?>
フィオが悲しそうな声で聞いた。うっかりフィオと目を合わせてしまったリアンナは、小首をかしげ黒いきらきらの瞳を寂しそうに潤ませたフィオのあざといほどのかわいさに「うっ」と言葉を詰まらせる。
「そういうわけじゃ……」
<フィオ、リアンナと会えた。これ、ものすごくラッピ>
「らっぴ?」
<違った、ラッキー。数え切れないほどの世界を渡りながらここにたどり着く、ありえないくらいの幸運>
「幸運――――」
<っていうか、たぶんリアンナ、フィオに引き寄せられた。これ、ラジオのまほう>
「どういうこと? それにラジオの魔法って」
<間違えた。ラジオじゃないよ、レギオンの魔法>
普通の令嬢がたしなむような刺繍やダンスは大の苦手。それよりも剣に興味を示して父を驚かせ母を悲しませた。「せっかくの美人さんなのに」と。
案の定屋敷の中でおとなしくしているよりも幼なじみのレギオンと外を駆け回って遊ぶようになってしまった。
普通の村の女の子のような簡素な格好で、やはり簡素な格好のレギオンと連れだって抜け出してしまい、また母のため息が増える。一応母の課した課題はこなしているのでレギオンと遊ぶこと自体はとがめられなかった。
その日もいつも通りレギオンと連れだって町外れの小川まで来ていた。
「リア、見て!」
レギオンが得意そうな顔で練習用の短い杖を取り出した。これは魔法使いが使う魔法の媒介になるものだ。魔法の才能を見せたレギオンは最近魔法の勉強を始めていて、その成果をリアンナに披露したくて仕方がないというキラキラの瞳をしていた。もちろんリアンナも楽しみにしてここへ来たのだ。こちらもワクワクする気持ちを全身で体現している。
レギオンは小川の前で軽く目をつぶり深く息を吸う。右手に持った杖を流れる水にかざし意識を集中する。
「――――水よ」
たぷん。
水面に、川の流れとはあからさまに別物の波紋が描かれる。そこからすうっと細い水柱が立ち上り、勢いよくしぶきを散らし始めた。ちょうど噴水を見ているようだ。散ったしぶきはきらきらと日の光を反射し、小さな虹をその上に描き出した。
「う……わあ! きれい! すごい!」
大きなリアンナの瞳がまんまるに開いて、小さな手は夢中でぱちぱちと拍手を繰り返す。レギオンも嬉しそうににっこり笑い、構えていた杖を下ろし魔法を解いた。同時に立ち上っていた水が魔法の支えを失って小川へ落ちて大きな音を立てた。
「すごい! すごいよレギオン。きっとえらい魔法使いになるんだね!」
「うん! 俺、すごい魔法使いになってリアのこと守ってやるからな」
「ありがとレギオン」
二人は魔法の成功に夢中になっていて、近寄ってくる足音に気がつかなかった。――――大きな野犬が自分たちを狙っていることに気がついたときにはもう逃げ場がないほどの距離に来てしまっていた。
「リア! 僕のうしろに」
レギオンが必死にリアンナをかばい、杖を野犬に向ける。だが杖の先がカタカタと小刻みに震えている。震えながらもレギオンは野犬から目を離さず、小さな声でリアンナに言った。
「リア、僕が隙を作るから合図したら逃げるぞ」
「わ、わかった」
「いくよ――――火よ!」
途端にレギオンの杖から勢いよく炎が噴き出す。さすがにあたりを焼き尽くすとかそんな威力があるわけではなくかがり火くらいの大きさだが、ランプの火くらいしか出せないはずのこの年頃の子供にしては巨大な炎だ。
野犬が炎にたじろいで数歩後じさったのを見てレギオンが叫ぶ。
「リア! いって!」
「う、うん」
リアンナは言われたとおり必死に走り出す。後ろを振り返らず全速力で走り、大きな木のあるところまで来て初めて振り返った。
「――――!」
その光景に背筋が凍る。レギオンはまだ杖を構えたまま野犬と対峙しているではないか。しかも炎はさっきよりもあからさまに小さくなってきている。野犬もそれがわかったのだろう、うなりながら今にもレギオンに飛びかかろうとしている。
リアンナは手近に落ちていた太めの枝と石を握りしめて来た道を駆け戻った。
<ほう? だから見ず知らずのこの子を助けてくれたのか>
「目の前で危険な目に遭っている者を、ましてや助けを求めている者を見捨てられるわけがないから」
<ならばあの大蜘蛛を倒してしまえば良かったのではないかえ?>
「私は助けを求められたが、なぜあの毛玉が襲われていたのか理由を知らなかった。だからあの蜘蛛殿を悪と決めつけることはできない。理由もわからず殺すのは食べるためか――――戦だけだ」
ふ、と意識が浮上する。
誰かと話していたような気もするが、たったいま目が覚めたのだから自分は眠っていたのだろう。体を起こそうとして。
「――――!」
肩が焼け付くように痛い。そして体がひどく重たい。
「ああ、まだ寝ておるのじゃ。あれだけ力を吸い取られてはまだ辛いじゃろ」
声がして誰かがふわりとふかふかの毛皮でリアンナを包んだ。暖かい。
心地よさに目を閉じ、そのまままどろみの中へと漂っていった。
再び目を覚ましたときもふかふかの毛皮の中だった。とても暖かい、触り心地のいい毛皮にうっとりするが、前回のようなだるさはるっかりぬけているのでゆっくりと体を起こしてみた。
肩の痛みはまだあるものの、随分楽になっている。
「ここは――――」
やっと今までのことを思い出した。不思議に美しい世界、毛玉と大蜘蛛。
あたりを見回すと、広い部屋の中にいることがわかった。木や蔦で組み上げられたような造りだが、決して粗末ではなくむしろ植物でできた宮殿の一室のように美しい。使われている木は丁寧に磨き上げられ、それを鮮やかな緑の蔦でどうやったのかわからないが美しく編み上げられている。リアンナ自身は真っ白な毛皮に包まれてふかふかする絨毯の上に寝かされているようだ。
「目が覚めたかえ」
はっと振り向くと、蔦で編まれた丸いかごが吊るされていて、そこに女性がゆったりと座っているのが見えた。透き通るような白い肌、宝石のような銀の瞳、輝くサラサラの真っ直ぐな緑の髪。年の頃はリアンナより少し上だろうか。
「はい、何やらご迷惑をおかけしたようです」
「逆じゃ、おまえが妾の眷属を助けてくれたのじゃ。こちらが礼を申さねばならぬ。のう、フィオ」
フィオ、という呼びかけに応えたのはリアンナを包んでいた毛皮。どうやら大きな動物に包まれて寝ていたらしい。道理で暖かかったわけだ。
長いマズルが特徴的な顔。フワフワの毛は長く白く、極上の触り心地だけど。リアンナを包んで丸まっていられるほどに長い尻尾は更に長い毛。瞳は黒曜石のような深い黒だ。
「――――綺麗だ」
思わず言葉が溢れる。近づいてきた鼻をそっと撫でると気持ち良さそうに目を細めた。
「フィオというんだね。私を抱いてくれていたのか。ありがとう。疲れただろう?」
〈そんなことないよ〉
頭に直接声が聞こえてリアンナは驚いた。
「今のは、フィオ?」
〈そうだよ、フィオがお話したの〉
ペロリと頬を舐められた。くすぐったい。
〈フィオ、リアンナにありがとう言う。助けてくれてうれしお〉
「うれしお?」
〈あ、違った、うれしい〉
ブンブンと長い尻尾を振るとふわふわと風が起こる。
「――――あれ? 助けた、って」
〈リアンナ、蜘蛛からフィオ助けてくれた〉
「え? あの小さな――――」
混乱するリアンナをその場に置いてフィオが立ち上がる。ふわりと舞うような動きでリアンナの目の前に坐り、そのまま居ずまいをただす。
シュルシュルシュルシュル。
するとみるみるうちに体が縮み、リアンナの膝よりも下くらいの高さの毛玉になってしまった。そう、大蜘蛛に襲われていた、あの毛玉だ。
真っ白な毛の中にビー玉のようなくりんくりんの黒い瞳とつやつやした鼻、小さな尖った口が見え、ピンクの舌がチロチロ動いているのが見える。
「フィオは自在に姿を変えられるのじゃ」
緑髪の女性がそう補足する。けだるそうに脇息に身を預け、どこから取り出したのか長い筒を咥えてふうう、と煙を吐く。察するにあの筒は煙管なのだろう。
「そうなんだ。フィオはすごいな」
すると毛玉の尻尾をちぎれんばかりに振っている。相当うれしいらしい。うれしさ余ってぽんと地面を蹴り飛びついてきたので、リアンナは慌ててフィオを抱き留めた。そのまま顔をベロベロ舐めるので慌てて顔から引きはがした。
「さて、リアンナ」
呼ばれて緑髪の女性を振り返った。
「フィオを助けてもらった上にあの大蜘蛛と事を構えるのも避けてくれた。事情もわからんだろうに、こちらとしてはありがたいと言うほかない。改めて礼を言うぞ。名乗りおくれたが、妾はこの狭間の国の主アディーラ、おぬしらの世界で言うところの精霊の親玉のようなものじゃ」
「私はジグハルド王国白狼騎士団第三部隊隊長、リアンナ=オリエ=エリダールと申します――――いや、どうやら不思議なことに私のことはいろいろとご存じのようですが」
「夢の中でいろいろと話してくれだじゃろう?」
「夢……?」
そういえば幼い頃の夢を見たり、誰かと話をしていた気がする。
「あれか――――」
「まあ、ひとつだけ言い訳させてもらえばの、妾は質問しただけで答えたのはおぬしじゃ。無理矢理覗いたわけではないから勘弁するのじゃ――――さあ、そろそろ何か食べた方がよい」
アディーラがパンパンと手を叩くと果物や飲み物を捧げ持った者達が現れ、リアンナとアディーラの間にセッティングしていった。どうやらしばらく寝たままだったリアンナには喉を通りやすいので助かる。
「さて、食べながら話そうかの。ほれ、その赤い実はポワンと言うてな、甘酸っぱくて美味いぞ。礼儀など構わぬからかぶりつけ」
言いながらアディーラは手近の黄色い実にかぷりと齧り付いた。リアンナもそれに倣ってポワンに齧り付くと、甘酸っぱい果汁がたっぷりと口の中をうるおしてくれる。しゃくしゃくとした歯ごたえも心地よく、言われたとおりとても美味しい。嬉しそうな顔をしていたのだろう、アディーラはリアンナの様子をみてにこにこと機嫌が良さそうだ。
「まず、おぬしが世界を渡り歩いていることは知っている。呪いでそうなっていることもな。この狭間の国は世界と世界の狭間にある小さなところ、だが重要な役割を担っておる」
アディーラは黄色の実を食べ終わり、木製のゴブレットから飲み物を飲み始めた。つんと酒精の香りがするのでどうやら酒のようだ。
「ここは精霊達の故郷なのじゃ。おぬしらの世界も含め、どの世界にも精霊はいる。それは世界を世界として成立させるためには不可欠な要素でな、あまり知られてはおらんじゃろうが」
「はい、初耳です」
「ちなみに魔法も精霊がいないと発動せなんだ。魔力は個人個人が持っているものじゃが、それを魔法として発動させるためには精霊の存在が不可欠なのじゃ。その精霊の生まれ故郷はここ狭間の国、ここから精霊はありとあらゆる世界に渡っていく」
「渡って……」
「ああ、残念じゃがおぬしを元の世界に送ってやることはできん。精霊達はどの世界に行くかをきめることはできんのじゃ。いわば一発かぎりの博打のようなものでな。一度行くと戻ってくることもできん。そういうさだめなのじゃ。すまんのう」
「いいえ、とんでもない」
「そしてあの大蜘蛛も実は精霊の仲間じゃ。といってもどちらかというと魔物に近いので妾たちとはまた別の生き物じゃが。やつらとは大昔は争っていたこともあったが、今はかっちりと棲み分けをしたことで不可侵条約を結んでおる。おぬしが大蜘蛛と会ったあの森はちょうど境界線に当たってな。あの森だけはどちらのものか曖昧な上、幻惑花の群生地なので近づかないように言っておったものを、フィオが迷い込んでしまったのじゃ」
幻惑花。地面に咲いていた小さな花を思い浮かべる。
「あの花は生き物を惑わし森から出られなくする。あの大蜘蛛にはなぜか効果がないようでな、迷い込んだものは大蜘蛛が食べてもよいという決まりになっておるのじゃ。危うくフィオも奴の食卓に上がるところじゃった」
フィオがくうんと鼻を鳴らしてうなだれたのをそっと撫でてやった。
「あそこで大蜘蛛をおぬしが倒してしまっていたらまた戦の火種になってしまうところじゃった」
そうだったのか。リアンナは自分の選択にほっとした。危うく戦になるところだった。
「アディーラ様。それでは件の大蜘蛛殿と争うおつもりはないのですね」
「無論。必要なのは均衡、あちらが攻めてくれば応戦はするが、あやつもそれほど阿呆ではない。我々はいわば光と影。どちらかが存在しなくなればもう片方も存在はできん。そのようにできておるのじゃ。そして我々が滅びること、それは――――」
「そうか。精霊が産まれなくなる、あらゆる世界がなくなるということか」
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「はい?」
「この世界も存外退屈での。外の世界を見るくらいしか楽しみがないのじゃ。どうじゃ、おぬしがこの世界から旅立った後もおぬしの旅を時折覗かせてはもらえぬか。おぬしらの行く末が気になってのう」
「構いません……が」
リアンナは首をかしげた。今、アディーラは「おぬしら」と複数形で表現した。しかしリアンナの旅は孤独な旅。
「アディーラ様。その、おぬしら、とは――――」
「おお、話しておらなんだ。フィオ」
呼ばれてフィオがアディーラを見上げ、きちっとお座りした。どこかかわいらしさの中にもきりっとした雰囲気を漂わせているが、なにかが笑いを誘う。
「このフィオをおぬしの旅に同行させて欲しいのじゃ」
「ええ?」
フィオを見下ろすとフィオもリアンナを見上げる。
「同行、とおっしゃいますが、私の旅は行き先を自由に決めることができません。フィオはここへ戻ってこられなくなります」
「構わん。フィオはおぬしについていく定めにある。それとも嫌か? リアンナが嫌なら拒否することもできるが」
「嫌ではありません。むしろ嬉しいですが、フィオのことを考えると」
<連れてってくれないの?>
フィオが悲しそうな声で聞いた。うっかりフィオと目を合わせてしまったリアンナは、小首をかしげ黒いきらきらの瞳を寂しそうに潤ませたフィオのあざといほどのかわいさに「うっ」と言葉を詰まらせる。
「そういうわけじゃ……」
<フィオ、リアンナと会えた。これ、ものすごくラッピ>
「らっぴ?」
<違った、ラッキー。数え切れないほどの世界を渡りながらここにたどり着く、ありえないくらいの幸運>
「幸運――――」
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