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 週が明けて月曜日。

 土砂降りな心持ちでも毎日は淡々と繰り返されるわけで、私は機械的に電車に乗って、機械的に大学に行く。窓の外の風景までがなんだか機械的に流れていく気がする。

 結局私はあき兄に何も言っていない。自分の気持ちも、何もかも。あれからあき兄にも逢っていないし、わざわざ連絡をとって話をする気にもならなかった。今までと何ひとつ状況は変わっていないのに、私の気持ちだけは周囲からはじかれてしまったようにひとりぼっちなままだ。

 私は自分の負けを、失恋をはっきりと認めたんだろう。
 告白すれば何かが変わっただろうか。いいや、そうは思えない。あき兄にとっては私はあくまで幼なじみの妹みたいな女の子、これは多分ずっと変わらない。

(わかっていたのに、見ない振りをしてたんだよなあ……きっと)

 はあ、と小さくため息をついて窓の外をただ見ていた。

 ふらふらと終点で電車を降りる。とても賑やかで、でもどこか落ち着いた雰囲気のある町。その大通りを歩いて大学へ向かう。
 ああ、そういえばこの間のコスメショップ、この通り沿いだったなあ……とぼんやり考えていたら。

「キミ!」

 突然肩をつかまれた。
 のろのろと視線を上げる。誰だろう。
 目に飛び込んできたのは、細身のメガネ。背が高くて、ちょっとやせ気味の男の人で――誰だっけ?

「私ですか?」
「そう、キミだ。この間『ロージィ・ルーム』に来てすぐに帰った子だな」

『ロージィ・ルーム』――どこだっけ?
 首をかしげると男の人はちょっといらついたように眉を寄せた。なんか怖い。

怖い。

ええと。

「――あっ、この間のコスメショップの店員さん」

 うん、あのとき笑顔が怖かったんだよね。「怖い」で思い出したなんて私も大概失礼だな。

「思い出したか」

 そういって男の人は私に名刺を差し出した。

【ロージィ・ルーム 服部史孝】

 男の人には似合わないバラ色の縁取りがある名刺と、彼――服部さんを何度か見比べる。
 そうだ、あのときかわいらしい色を勧められたのがショックでそのまま飛びだしちゃったんだっけ。よく考えると失礼なことしたなあ。

「ええと、何かご用でしょうか」
「用があるから呼び止めた」

 服部さんはにこりともしないでふんぞり返っている。なんだ、人を呼び止めておいてこの尊大な態度は。

「この間はなぜ帰った」
「え」
「なぜ帰ったかと聞いている」

 態度悪いな。腹が立ってきて、服部さんの目をにらみ返してやった。

 ――あ、わかった。
 目が全然笑ってないんだわ、この人。だから怖い気がしたんだ。

「それ聞いてどうするんですか? 気まぐれで入ってきた客が気まぐれで帰った、それでいいじゃないですか」
「だめだ。そこをはっきりさせておかないと」
「だから、どうして」
「わからないことはさっさとはっきりさせておくに限るからだ。問題を先送りしてもなんの得もない」
「つまり、自分が知りたいだけだと」
「俺の接客に問題があったかどうか知りたいだけだ。問題があるならきちんと対応しなければいけないだろう? キミは俺を悩ませる原因を作ったのだ、解き明かす義務がある」

 うわ~、えらい俺様な……
 腹は立つけど、どんどん面倒になってきた。

「――もっと大人っぽくなりたいんです。だから、可愛らしい色の口紅を勧められてやっぱり子どもっぽく見られてるんだと思ったら」
「腹が立ったと」
「違います。悲しくなったんです」
「ふむ」

 服部さんが考え込む。もう行ってもいいかなあ。

「あの」
「うん、一緒に来たまえ」
「はあ? 来たまえって、どこへ」
「ロージィ・ルームだ」

 有無を言わさず引っ張ってこられたのはこの間のお店だ。

「座って」

 鏡のまえの椅子に座らせられる。

「あの、私」
「いいから。おとなしくしてろ」
「え、だって」

 これまた有無を言わさぬ彼の態度にどうしたものかと困ってしまう。言い返してやりたいけど、ちょっと怖くて言い返せない。あなたの目が笑ってないから怖いんです、なんてもっと言えない。

「いいか」

 服部さんが鏡の中で私を見る。

「俺の選んだ色がキミに似合っていることを証明してみせる。少しじっとして」

 私の返事なんか最初からガン無視で服部さんはリップブラシをとった。

「まずはこの間キミの選んだ色。他の部分はいじらないから、リップだけつけてみよう」

 ラベルを見せてもらうと確かに前回私が選んだ3つの中のひとつだ。あの時は深い色ってことしか考えないで選んだけど「ラズベリーレッド」って書いてある。ローズ系じゃなかったのか。
 まあ、もともとメイクなんてほぼしないから仕方がない。そういうことにしておこう。
 服部さんはリップブラシで丁寧にラインを引き始めた。あいかわらず目は笑っていない。でも、その中に真剣な色が伺える。
 唇の形を描いて、中を塗りつぶして。

「まずは一色目。比較のために写真を撮りたいが、いいか?」

 もう接客のための愛想も忘れてるな、この人。店長さんらしき女性も心配そうに見ている。
 私が頷くと、服部さんは何やらタブレットを操作する。と、鏡の横にはめ込んであったモニターに私の顔が映し出された。

「ここにカメラがあるんだ。比較しやすいように、撮影して映し出せるようになってる」

あ、本当だ。鏡の脇にカメラがある。

「写真は保存できないシステムだから安心していいぞ」

 話を聞きながらモニターに映った自分を見た。
 深くて濃い赤。唇をくっきりと際立たせ、存在を主張する。綺麗だけど、浮いて見える気がするなあ。

「じゃ、次はこれ」

 服部さんが丁寧にシートで今の色を拭き取って、今度はおすすめのコーラルピンクを塗り始めた。
 柔らかいピンク。パールっぽいラメが入ってキラキラと艷やかに唇に伸びていく。

「どうだ?」

 さっきの赤をつけた写真と今のピンクの写真がモニターに並んで映る。二つの画像を見比べて結構驚いた。確かにラズベリーレッドをつけた写真は、なんだか顔色がくすんでいるように見える。逆にコーラルピンクは肌が透明にすら見えるから不思議。

「問題はキミが童顔とかそういうところじゃない。人それぞれの持つ肌の色だ。キミの場合はどちらかというと黄色寄りの肌色だから、青みを含むような色は逆に顔色を悪くみせたりすることがある」

 肌の色。ファッションやメイクについてあまり知らないけど、そういえば友達が「イエローベース」とか「ブルーベース」とか話してたなあ。

「だから、俺の選んだコーラルピンクのほうがキミの魅力を引き出せると考えた。大人っぽくなりたいというのなら、自分に合った色やメイクの仕方を覚えて自分らしい大人っぽさを作っていけばいい」

 服部さんの言葉に改めて鏡の中の自分を見る。できるのかな。そんなことが。

「キミが何を悩んでいるのかまではわからないが、大人っぽくなりたいというならその手助けはできる」
「――はい」
「変わりたいんだろう?」

 その通りだ。あの黒髪美人さんをうらやんで何もしないでいる自分を変えたい。変わりたい。

「あの、選んでもらえますか? 私に似合う色」

 服部さんを真っ直ぐ見て声を絞り出した。すると服部さんが薄く笑った。

「いいだろう」

 そのときの服部さんは怖くなかった。笑顔は少し口角を上げたくらいだったのに、不思議と怖くなかった。
 たぶん、目の奥にうれしそうな色を湛えていたから。
 服部さんの、本気の笑顔だとわかったから。

 そう思った瞬間、私は反射的に声を上げていた。

「師匠と呼ばせてください!」
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