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「俺の家は、母が早くに亡くなったんだ」
場所を変え、ショッピングモールのちょっといいカフェで小さなコーヒーテーブルを挟んで店長がぽつりぽつりと話してくれた。
「親父は当時から事業をやっていたんだが、いわゆるワンマン社長でな。母もそれなりに苦労はしていたと思う。
母が生きていた頃はちょっと親父が頑固なだけの普通の家庭だった――と思う。なにしろまだ俺が小学校に上がる前の話だからな」
ふうふうと吹きながら店長がカフェオレをすする。私は予想外な重たい話に「はあ」と相づちをうつので精いっぱい、目の前の美味しそうなキャラメルラテに手をつけるタイミングが計れない。
「母が亡くなって、父はどんどん厳しくなっていった。小学校に上がってからは自分の跡継ぎをつくるためにと俺にやたらといろいろなことをさせるようになった。語学やピアノ、はては経営についてのあれこれとか、な。俺はとにかくそれにくらいついていくことに必死で――腹が立っていたんだ」
「お父様に?」
「いや、それもあるがほとんどは妹に、だ」
「妹さんに?」
「ああ。妹は俺と違って勉強を強要されることもなく、お稽古事も結構好きなことをやらせてもらっていたように思う。だから、同じ両親から生まれた子どもなのに、どうして俺ばかりが辛い目に? 妹は好き勝手に暮らしてるのに? ってな」
ただの八つ当たりだと今はわかっている、と店長が続ける。
「そう思っているうちに、妹に冷たく当たる習慣が出来てしまった。見下すような、冷たい言葉しかかけられなくなってしまったんだ。自分でもこんなことを言うつもりはないのに、つい」
うわあ。
店長、我が道を行く人だからなあ、こうと決まったことを曲げるの苦手そうだし。
「で、でも、毎日顔を合わせていれば少しは歩み寄ったりとか」
「妹は一人暮らししてる。高校の時に実家から出て行った。居づらかったんだろうな」
「――根深いですね」
それで仲直りのきっかけが欲しかったんだな。でもドレスなあ……妹さんがドレス好きならいいんだろうけど、一人暮らししてるならなおさらドレスなんて邪魔なだけじゃないだろうか。
「でも、それなら『近くまで来たから寄ってみた』的に手土産持って行くくらいの方がいいんじゃないですか? ほら、甘いものお好きならちょっといいお菓子とか」
「む、なるほど」
「消え物のほうが気軽にもらえますしね。誕生日とかなら話は別ですが」
「妹の誕生日は7月だ。しかしひとつ問題が」
「なんですか今度は」
「妹はマンションでひとり暮らしなんだが、最近は婚約者の家に入り浸りらしい」
「ますますだめじゃないですかドレス!」
婚約者持ちに服、それもドレスを突然意味もなくプレゼントする兄貴! いや、否定する気はないけど! ないけど!
今まで冷たくしてきた兄貴が!
お父さんや彼氏を飛び越えてドレスをプレゼント!
――――確実に。
「確実に溺愛系シスコン認定されますよ?」
ぶほっ、と店長がむせた。
あああ、コーヒーこぼれちゃった。
手近なカウンターから紙ナプキンを鷲掴みにしてきて店長に数枚渡し、のこりで机の上を拭く。店長のすぐ横に立って拭いていると、数滴ズボンに零れたのが目についた。流石に私がそこを拭くわけに行かないので、そこは店長に拭いてもらう。色が濃いズボンだからまあ目立たないだろう。帰ってから洗濯してね。
「大丈夫ですか?」
まだ少し咳込んでる店長を振り向くと、すぐ近くで見る店長の顔が咳き込みすぎたのか赤い。
「いっ、いや、大丈夫だ。それより話の続きを」
「あ、そうですね」
席に戻って店長と向き合う。
「ええと、消えものがいいと言っていたな」
「ええ、でもその彼氏さんのお家にいつもいらっしゃるんですよね? それだと突撃するのは難しいですか?」
「う……まあな」
この様子だとあまり妹さんと接触なさそうだったし、ましてやその彼氏の家になんて行けないだろうなあ。
「店長は一人暮らしですか?」
「いや、父と二人暮らしだ」
へえ、そうか、お父さんを一人にしておけないのかな。
「じゃあお父様にお願いして妹さんをお家に招かれたらどうですか?」
「――そうだな」
少しだけ含むところがあるような返事だったけれど、店長はそれで納得したようだ。
でも、店長もまた憎まれ口? なのかな? を聞かないといいけれど。
「店長、今度は変なこといわないように気をつけた方がいいですよ?」
「む、そうだな」
「でもどんなこと口走っちゃうんですか?」
「……」
店長、押し黙っちゃった。そんなに酷いこと言うんだ? なんとなく意外。
「そんなにテンパっちゃうんですか?」
「……」
「やっぱりシスコ……」
「久保川さん! そ、そういえば久保川さんはどうして大人っぽいメイクにあんなにあこがれているんだ?」
突然私の言葉にかぶせられた店長の声。うん、あからさまに話をそらしましたね?
でもそれは相当話しづらいことで。失恋話だもんなあ。
「う……」
「悪い、言いたくないことだったか」
「いえ、いいですよ。もう終わった話だし」
なんとなく店長になら話してもいいかな。
そんな気がして私はあき兄のこと、そして黒髪美人さんのことを打ち明けた。
「つまり、久保川さんがずっと好きだった幼なじみは、君の気持ちに気がつかずにその黒髪美人を好きになったと。君はそれでメイクも知らない自分がいやになった、と」
「まとめないでください普通に落ち込みます」
「ああ、すまない。だがそれなら気合い入れて綺麗にならないとな」
ふわりと大きな手のひらが頭の上に乗せられる。店長が私の頭を撫でているんだと気がついて、急にどくりと痛いくらいに心臓が高鳴る。顔もなんだか熱い。
でもどうしてだか、いやな気持ちはしなかった。
「久保川さんに訊いて良かった」
コーヒーショップを出た時に店長が言った。
「お役に立てたなら嬉しいです。コーヒーごちそうさまでした」
ぺこりと下げた頭を上げて店長を見るが、店長はなんだか少しだけ眉が八の字に寄っている。なにか考え込んでる?
「久保川さん」
「はい?」
「その、ものは……相談、なんだが」
「なんでしょう」
「また、相談にのってくれるか」
ばつが悪そうにぼそりとこぼされた言葉はしかし、私の心の奥に穏やかに届いた。
店長は仕事には厳しいが、決して無茶を言う人じゃない。だからこの短い期間で私の中では尊敬すべき人のカテゴリに分類されている。
そんな店長に信頼されたことがうれしい。それに乗りかかった船だ、私には断るという選択肢は存在しなかった。
「はい、喜んで」
即答すると店長は一瞬目を見開いて、それから少しだけ口角をつり上げた。
あまり表情が変わらない店長の、レアな本気の笑顔だ!
なんだか、どきっとした。
★★★
「ただいまー。あれ? お客様?」
帰宅すると玄関に男の人の靴があった。お父さんのじゃない。もっと若い人が履くカジュアルなデザインだ。誰の靴なのか頭の中で思いつく前に、リビングからひょっこりお母さんが顔を出した。
「おかえり、瑠璃。あき君が来てるわよ」
あき君――あき兄だ。とたんに心臓がうるさく踊り出す。靴を脱ぐのももどかしく家に上がりリビングに駆け込むと、テーブルに着いているあき兄がにっこりとほほえみかけてくれた。
「瑠璃、おかえり」
「あき兄! 珍しいね、うちに来るなんて」
「今日は母さんが出かけちゃってね、冴子さんが夕食に呼んでくれたんだよ」
冴子さんとは母のこと。おばさんって呼ばれるのが嫌だって言って、あき兄が小さい頃からそう呼ぶように強制している。
そもそもうちの母とあき兄のお母さんが仲がいいんだよね。昔、まだ小学生とかの頃はこんなふうにあき兄がごはんを食べに来ることもあったんだけど、もうここしばらくはそんなこともなかったなあ。
この日のメニューは母特製のハヤシライス。市販のルーを使わず、小麦粉をバターで炒めるところから作る本格派で、昔から私もあき兄も大好きだった。
「冴子さんのハヤシライス、久しぶりに食べたけどやっぱり旨いなあ」
スプーンに山盛り乗っけて掻き込む食べ方はやっぱり男の人だなあ。私が半分も食べないうちに「おかわり」って、すごく速い。男の人ってみんなこうなのかなあ?
あ、でも店長ならもっと上品ぶって食べてそう。店長が食事してるところって見たことないけど、どうなんだろう。
「――り? 瑠璃?」
「へ? あ、何? あき兄」
ついぼーっとしちゃったんだろう、声をかけられてはっとする。どうやら母は食後のコーヒーを淹れるためにキッチンへ行ってしまったらしく、リビングには私とあき兄だけが座っていた。
「だからさ、瑠璃のバイトの話だよ。忙しいのか?」
「うん、とはいっても私にできることは雑用ばっかりだけどね」
「雑用でもちゃんと役に立ってるんだろ? 偉いじゃないか」
「ありがと」
「んでさ、瑠璃もずいぶんメイク上手になったよな」
「え! 本当?」
「うん、そう思う――で、例の店長にまだメイク教わってるのか」
「うん、教わってるよ」
私がそういった途端、それまでにこやかに話していたあき兄が急に顔を曇らせる。え? どうしたの?
「――触らせてるのか、おまえの顔を」
瞬間、背筋がぞっとした。あき兄、何か……怒ってる?
「あ、あのっ、いつもってわけじゃないよ。ホントに手直しが必要なくらいな時だけだし。最近はちょっとは回数も減ってきたし」
「本当だね?」
「うん。でもどうしたの急に」
なんだかいつものあき兄と違う雰囲気に気圧される。私の顔を店長が触ることを怒ってるんだとしたら――それって、まるであき兄が店長に嫉妬してるみたいじゃないか。
そんな自意識過剰すぎる発想に我ながらげんなりする。そういうふうに期待しちゃうのって、やっぱり私がまだあき兄のことを好きで、あきらめられないからなんだろうか。うん、きっとそうなんだ。
だって、もうずっと私はあき兄のことが好きだったんだから。
けれど私の疑問に答えたあき兄の言葉に、私は不快感を覚えてしまう。
「だって、バイトの女子大生に触るなんてセクハラじゃないか。そんなやつのところで瑠璃が働いているなんて、ちょっと心配で」
「――! あき兄、待ってよ。それはひどいんじゃない?」
だって、店長は私にメイクを指導してくれる、いわば先生だ。必要があって触っているわけだし、第一不必要に体を触られるわけじゃない。メイクのために顔に触るのだ。それに今日話をして、私が考えている以上に生真面目で誠実な人だと再認識した。いい人なんだよ、店長は。会ったこともないのに、そんなふうに貶められるのはおかしい。
私の機嫌が斜め下になってきたのがわかったのだろう、あき兄の顔に焦りが浮かぶ。
「な、瑠璃?」
「だって、私がお世話になってる人なんだよ? それをそんな言い方して、失礼だよ!」
「俺はおまえが心配だから――そっ、そもそもなんで急にメイク習おうなんて思ったんだよ!」
「それは――」
問い詰められて言葉に詰まる。
そもそもはあき兄があの黒髪美人さんを好きになったからだ。
それで自分が失恋したことを自覚して、ろくにメイクもやったことない自分の女子力のなさに嫌気がさして、もっと大人っぽくなりたいって思って、それで、それで――
あれ?
私、どうして大人っぽいメイクにこだわってるんだろう?
だって、あきらめているなら黒髪美人さんばりの大人っぽいメイクにこだわる必要ないんだから。皆川さんがしてくれたみたいな可愛らしいメイクだって、自分に似合っているならそれでいいはずだ。なのに私は黒髪美人さんに近づこうとばっかりしている。
――つまり、あき兄に振り向いてほしいから? つまり、まだあき兄をあきらめていないってこと?
そうだよね、きっとそうなんだ。だってこんなに長いこと好きでいるんだから、そう簡単にはあきらめられないんだよ、きっと。
「あらぁ、どうしたの二人とも。大きな声出して」
そのときお母さんが戻ってきて、話はそこで終わってしまった。
あき兄が帰ってしまった後も、私は自分自身の気持ちを掴みきれずに長いこと考え込んでいた。
場所を変え、ショッピングモールのちょっといいカフェで小さなコーヒーテーブルを挟んで店長がぽつりぽつりと話してくれた。
「親父は当時から事業をやっていたんだが、いわゆるワンマン社長でな。母もそれなりに苦労はしていたと思う。
母が生きていた頃はちょっと親父が頑固なだけの普通の家庭だった――と思う。なにしろまだ俺が小学校に上がる前の話だからな」
ふうふうと吹きながら店長がカフェオレをすする。私は予想外な重たい話に「はあ」と相づちをうつので精いっぱい、目の前の美味しそうなキャラメルラテに手をつけるタイミングが計れない。
「母が亡くなって、父はどんどん厳しくなっていった。小学校に上がってからは自分の跡継ぎをつくるためにと俺にやたらといろいろなことをさせるようになった。語学やピアノ、はては経営についてのあれこれとか、な。俺はとにかくそれにくらいついていくことに必死で――腹が立っていたんだ」
「お父様に?」
「いや、それもあるがほとんどは妹に、だ」
「妹さんに?」
「ああ。妹は俺と違って勉強を強要されることもなく、お稽古事も結構好きなことをやらせてもらっていたように思う。だから、同じ両親から生まれた子どもなのに、どうして俺ばかりが辛い目に? 妹は好き勝手に暮らしてるのに? ってな」
ただの八つ当たりだと今はわかっている、と店長が続ける。
「そう思っているうちに、妹に冷たく当たる習慣が出来てしまった。見下すような、冷たい言葉しかかけられなくなってしまったんだ。自分でもこんなことを言うつもりはないのに、つい」
うわあ。
店長、我が道を行く人だからなあ、こうと決まったことを曲げるの苦手そうだし。
「で、でも、毎日顔を合わせていれば少しは歩み寄ったりとか」
「妹は一人暮らししてる。高校の時に実家から出て行った。居づらかったんだろうな」
「――根深いですね」
それで仲直りのきっかけが欲しかったんだな。でもドレスなあ……妹さんがドレス好きならいいんだろうけど、一人暮らししてるならなおさらドレスなんて邪魔なだけじゃないだろうか。
「でも、それなら『近くまで来たから寄ってみた』的に手土産持って行くくらいの方がいいんじゃないですか? ほら、甘いものお好きならちょっといいお菓子とか」
「む、なるほど」
「消え物のほうが気軽にもらえますしね。誕生日とかなら話は別ですが」
「妹の誕生日は7月だ。しかしひとつ問題が」
「なんですか今度は」
「妹はマンションでひとり暮らしなんだが、最近は婚約者の家に入り浸りらしい」
「ますますだめじゃないですかドレス!」
婚約者持ちに服、それもドレスを突然意味もなくプレゼントする兄貴! いや、否定する気はないけど! ないけど!
今まで冷たくしてきた兄貴が!
お父さんや彼氏を飛び越えてドレスをプレゼント!
――――確実に。
「確実に溺愛系シスコン認定されますよ?」
ぶほっ、と店長がむせた。
あああ、コーヒーこぼれちゃった。
手近なカウンターから紙ナプキンを鷲掴みにしてきて店長に数枚渡し、のこりで机の上を拭く。店長のすぐ横に立って拭いていると、数滴ズボンに零れたのが目についた。流石に私がそこを拭くわけに行かないので、そこは店長に拭いてもらう。色が濃いズボンだからまあ目立たないだろう。帰ってから洗濯してね。
「大丈夫ですか?」
まだ少し咳込んでる店長を振り向くと、すぐ近くで見る店長の顔が咳き込みすぎたのか赤い。
「いっ、いや、大丈夫だ。それより話の続きを」
「あ、そうですね」
席に戻って店長と向き合う。
「ええと、消えものがいいと言っていたな」
「ええ、でもその彼氏さんのお家にいつもいらっしゃるんですよね? それだと突撃するのは難しいですか?」
「う……まあな」
この様子だとあまり妹さんと接触なさそうだったし、ましてやその彼氏の家になんて行けないだろうなあ。
「店長は一人暮らしですか?」
「いや、父と二人暮らしだ」
へえ、そうか、お父さんを一人にしておけないのかな。
「じゃあお父様にお願いして妹さんをお家に招かれたらどうですか?」
「――そうだな」
少しだけ含むところがあるような返事だったけれど、店長はそれで納得したようだ。
でも、店長もまた憎まれ口? なのかな? を聞かないといいけれど。
「店長、今度は変なこといわないように気をつけた方がいいですよ?」
「む、そうだな」
「でもどんなこと口走っちゃうんですか?」
「……」
店長、押し黙っちゃった。そんなに酷いこと言うんだ? なんとなく意外。
「そんなにテンパっちゃうんですか?」
「……」
「やっぱりシスコ……」
「久保川さん! そ、そういえば久保川さんはどうして大人っぽいメイクにあんなにあこがれているんだ?」
突然私の言葉にかぶせられた店長の声。うん、あからさまに話をそらしましたね?
でもそれは相当話しづらいことで。失恋話だもんなあ。
「う……」
「悪い、言いたくないことだったか」
「いえ、いいですよ。もう終わった話だし」
なんとなく店長になら話してもいいかな。
そんな気がして私はあき兄のこと、そして黒髪美人さんのことを打ち明けた。
「つまり、久保川さんがずっと好きだった幼なじみは、君の気持ちに気がつかずにその黒髪美人を好きになったと。君はそれでメイクも知らない自分がいやになった、と」
「まとめないでください普通に落ち込みます」
「ああ、すまない。だがそれなら気合い入れて綺麗にならないとな」
ふわりと大きな手のひらが頭の上に乗せられる。店長が私の頭を撫でているんだと気がついて、急にどくりと痛いくらいに心臓が高鳴る。顔もなんだか熱い。
でもどうしてだか、いやな気持ちはしなかった。
「久保川さんに訊いて良かった」
コーヒーショップを出た時に店長が言った。
「お役に立てたなら嬉しいです。コーヒーごちそうさまでした」
ぺこりと下げた頭を上げて店長を見るが、店長はなんだか少しだけ眉が八の字に寄っている。なにか考え込んでる?
「久保川さん」
「はい?」
「その、ものは……相談、なんだが」
「なんでしょう」
「また、相談にのってくれるか」
ばつが悪そうにぼそりとこぼされた言葉はしかし、私の心の奥に穏やかに届いた。
店長は仕事には厳しいが、決して無茶を言う人じゃない。だからこの短い期間で私の中では尊敬すべき人のカテゴリに分類されている。
そんな店長に信頼されたことがうれしい。それに乗りかかった船だ、私には断るという選択肢は存在しなかった。
「はい、喜んで」
即答すると店長は一瞬目を見開いて、それから少しだけ口角をつり上げた。
あまり表情が変わらない店長の、レアな本気の笑顔だ!
なんだか、どきっとした。
★★★
「ただいまー。あれ? お客様?」
帰宅すると玄関に男の人の靴があった。お父さんのじゃない。もっと若い人が履くカジュアルなデザインだ。誰の靴なのか頭の中で思いつく前に、リビングからひょっこりお母さんが顔を出した。
「おかえり、瑠璃。あき君が来てるわよ」
あき君――あき兄だ。とたんに心臓がうるさく踊り出す。靴を脱ぐのももどかしく家に上がりリビングに駆け込むと、テーブルに着いているあき兄がにっこりとほほえみかけてくれた。
「瑠璃、おかえり」
「あき兄! 珍しいね、うちに来るなんて」
「今日は母さんが出かけちゃってね、冴子さんが夕食に呼んでくれたんだよ」
冴子さんとは母のこと。おばさんって呼ばれるのが嫌だって言って、あき兄が小さい頃からそう呼ぶように強制している。
そもそもうちの母とあき兄のお母さんが仲がいいんだよね。昔、まだ小学生とかの頃はこんなふうにあき兄がごはんを食べに来ることもあったんだけど、もうここしばらくはそんなこともなかったなあ。
この日のメニューは母特製のハヤシライス。市販のルーを使わず、小麦粉をバターで炒めるところから作る本格派で、昔から私もあき兄も大好きだった。
「冴子さんのハヤシライス、久しぶりに食べたけどやっぱり旨いなあ」
スプーンに山盛り乗っけて掻き込む食べ方はやっぱり男の人だなあ。私が半分も食べないうちに「おかわり」って、すごく速い。男の人ってみんなこうなのかなあ?
あ、でも店長ならもっと上品ぶって食べてそう。店長が食事してるところって見たことないけど、どうなんだろう。
「――り? 瑠璃?」
「へ? あ、何? あき兄」
ついぼーっとしちゃったんだろう、声をかけられてはっとする。どうやら母は食後のコーヒーを淹れるためにキッチンへ行ってしまったらしく、リビングには私とあき兄だけが座っていた。
「だからさ、瑠璃のバイトの話だよ。忙しいのか?」
「うん、とはいっても私にできることは雑用ばっかりだけどね」
「雑用でもちゃんと役に立ってるんだろ? 偉いじゃないか」
「ありがと」
「んでさ、瑠璃もずいぶんメイク上手になったよな」
「え! 本当?」
「うん、そう思う――で、例の店長にまだメイク教わってるのか」
「うん、教わってるよ」
私がそういった途端、それまでにこやかに話していたあき兄が急に顔を曇らせる。え? どうしたの?
「――触らせてるのか、おまえの顔を」
瞬間、背筋がぞっとした。あき兄、何か……怒ってる?
「あ、あのっ、いつもってわけじゃないよ。ホントに手直しが必要なくらいな時だけだし。最近はちょっとは回数も減ってきたし」
「本当だね?」
「うん。でもどうしたの急に」
なんだかいつものあき兄と違う雰囲気に気圧される。私の顔を店長が触ることを怒ってるんだとしたら――それって、まるであき兄が店長に嫉妬してるみたいじゃないか。
そんな自意識過剰すぎる発想に我ながらげんなりする。そういうふうに期待しちゃうのって、やっぱり私がまだあき兄のことを好きで、あきらめられないからなんだろうか。うん、きっとそうなんだ。
だって、もうずっと私はあき兄のことが好きだったんだから。
けれど私の疑問に答えたあき兄の言葉に、私は不快感を覚えてしまう。
「だって、バイトの女子大生に触るなんてセクハラじゃないか。そんなやつのところで瑠璃が働いているなんて、ちょっと心配で」
「――! あき兄、待ってよ。それはひどいんじゃない?」
だって、店長は私にメイクを指導してくれる、いわば先生だ。必要があって触っているわけだし、第一不必要に体を触られるわけじゃない。メイクのために顔に触るのだ。それに今日話をして、私が考えている以上に生真面目で誠実な人だと再認識した。いい人なんだよ、店長は。会ったこともないのに、そんなふうに貶められるのはおかしい。
私の機嫌が斜め下になってきたのがわかったのだろう、あき兄の顔に焦りが浮かぶ。
「な、瑠璃?」
「だって、私がお世話になってる人なんだよ? それをそんな言い方して、失礼だよ!」
「俺はおまえが心配だから――そっ、そもそもなんで急にメイク習おうなんて思ったんだよ!」
「それは――」
問い詰められて言葉に詰まる。
そもそもはあき兄があの黒髪美人さんを好きになったからだ。
それで自分が失恋したことを自覚して、ろくにメイクもやったことない自分の女子力のなさに嫌気がさして、もっと大人っぽくなりたいって思って、それで、それで――
あれ?
私、どうして大人っぽいメイクにこだわってるんだろう?
だって、あきらめているなら黒髪美人さんばりの大人っぽいメイクにこだわる必要ないんだから。皆川さんがしてくれたみたいな可愛らしいメイクだって、自分に似合っているならそれでいいはずだ。なのに私は黒髪美人さんに近づこうとばっかりしている。
――つまり、あき兄に振り向いてほしいから? つまり、まだあき兄をあきらめていないってこと?
そうだよね、きっとそうなんだ。だってこんなに長いこと好きでいるんだから、そう簡単にはあきらめられないんだよ、きっと。
「あらぁ、どうしたの二人とも。大きな声出して」
そのときお母さんが戻ってきて、話はそこで終わってしまった。
あき兄が帰ってしまった後も、私は自分自身の気持ちを掴みきれずに長いこと考え込んでいた。
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