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9.

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 そうか、チャンスか。
 チャンスなんだね。

 店長に言われて初めて気がついた。

「久保川さんはお人好しだな」

 相変わらずのごとく無表情で店長に言われてしまった。
 でもでも、好きな人の幸せを考えたり、悲しんでほしくないって考えたりするの、変じゃないよね?
 私はもうずっとあき兄のことが好きで、そばにいるのが当たり前なくらいに近しい人で、ならそう思うのも当たり前なんじゃないだろうか。

 家に帰る道すがら、電車の窓から外を眺めながらそうグルグルと考えていた。遠くに見える家々の明かりが時折手前の建物に樹木に隠れて消える。また現れて、消える。それと同じように胸の奥に何か小さな引っ掛かりが微かに見えたり消えたりしていたけど、それには蓋をした。

 だって、何だか触れちゃいけない気がしたから。

「瑠璃」

 自宅最寄り駅の改札を抜けたところで名前を呼ばれ顔を上げる。流れる人の波を分けるようにして立っていたのは、あき兄。

「あき兄」

 ひょっとしてまた迎えに来てくれたんだろうか。うれしいけど、今日はちょっと複雑だ。カヨさんのことがあったから。

「遅かったな」
「待っててくれたの? 遅くにごめんね」
「ああいや、やっぱり心配だからな」

 ちょっと視線を外して軽く首をすくめる。照れ隠ししてるときの癖だって知ってる。

「で、今日はどうしたんだ? この間より遅いじゃんか」
「うん、急なお客様が――」

 突然言葉に詰まった私に気がついたんだろう、あき兄が私の目を覗き込んだ。

「どうした」

 どうしよう。話していいんだろうか。話した方がいいんだろうか。
 あき兄が好きな黒髪美人さんはあの服部店長の妹で、婚約者がいるんだよって。

 ――私ならどうだろう。私の好きな人に婚約者がいた、って言われたら――

 言った方がいいんだろうな。あき兄には早く諦めて、次の恋を探してもらった方が傷が少ない気がするもの。
 そうだよ、もしあき兄が怒ったとしてもその方が。
 決して店長にチャンスだって言われたからじゃ、ない。

「あの、あのね、あき兄。今日私、あき兄が好きだって言ってた黒髪美人さんに会った」
「えっ」
「彼女――カヨさんね、お店に来たの。そしたら、カヨさん、店長の妹で」
「妹?! あの無表情男の?!」
「酷い言い方しないで。とにかく店長の妹で、その――もうすぐ結婚、するんだって」
「――」

 言っちゃった。言ってから視線をそっとあき兄に戻すと、あき兄はじっと私を見ていた。視線があったけど、驚いているようには見えない。

「知ってたよ」
「ええ!」
「彼女に直接聞いた。彼女が店に来たときに雑談で結婚式が近いから忙しいって。告白する前に玉砕しちゃったよ」

 はは、と笑うあき兄は、予想外に吹っ切れている感じだ。傷ついているという雰囲気はあまり感じられなかった。

「――ショックじゃなかったの?」
「そりゃあそれなりに、な。でも期待していたわけじゃないから、ああこんなもんか、って思ったよ。まあ、俺自身も思ったほどのショック受けてないのにびっくりなんだけど」

「ふうん」

 ゆっくり夜道を歩きながらあき兄がぽつぽつとカヨさんとの馴れ初めを話してくれた。週一でお店に来るようになって、顔なじみになったこと。いつもマンデリンを頼むこと。顔を合わせると軽い雑談をするようになったこと、そして思ったより気さくな人だったこと。

「綺麗な人だよね」
「うん、すごく綺麗だと思った」

 中途半端に膨らんだ月が私達の前をつかず離れず光ってる。時折流れてくる雲に半分くらい隠されてぼんやりしてる。

「瑠璃も、さ」
「ん?」

 突然あき兄の足が止まった。振り返って見ると、淡い月の光に浮かぶあき兄の表情はなんだかとても真剣で。

「あき兄?」
「瑠璃も、綺麗になった」

 何を言われたのか理解するのにかかった数秒であき兄が私との距離を詰め、そっと私の頬に手を触れて親指の腹で撫でた。

「瑠璃がいたから」

 なんだかあき兄の視線が熱い。

「瑠璃がどんどん綺麗になってきて、俺、アセったんだ。あの店長に顔を触らせてると思ったらひどく嫌な気持ちがした。それで、気がついた。俺、瑠璃のこと」

 ふっと月が雲に隠れ、見えなくなった。

「好きなんだ」

 あき兄の顔が近づいて来る。私は何も言えずただ固まっていた。あんなに泣くほど焦がれていたあき兄からのまさかの言葉に戸惑ってしまったのだ。
 嬉しい……よね、私。ずっと好きだったんだもん、夢見てきたことだったんだから。そう、あき兄を受け入れるのは当たり前。
 ここでキスするのだって――

「あき兄、待っ……」
「待てない」
 
 そのまま唇を塞がれた。あき兄の唇は、なんだか暖かくて柔らかい。でも唇が離れた後、私はどうしていいかわからなくなって。

「瑠璃?」

 ぽろり、と涙がこぼれてしまった。
 うれし涙? それともびっくりしたから?
 どうして涙がこぼれるのか、私にはわからなかった。

 気がついたときにはあき兄を突き飛ばして駆け出していた。後ろからあき兄の私を呼ぶ声が聞こえたけど、どうしても止まる気になれなかった。

 どうして? あき兄のことがずっと好きだったんでしょ?
 ――そうだよ、今だって大好きだよ

 じゃあ、キスしてもらって嬉しいんじゃないの? なんで逃げるの?
 ――だって、イヤだったんだもの

 好きあってる同士ならキスしたって不自然じゃないよね?
 ――でも、違うの。何かが違うの――

 走って、走って、気がついたら電車に乗っていた。見覚えのある駅名が目に入ってふらふらと電車から降り、人の流れに乗ってとぼとぼと街に出た。
 あ、「ロージィ・ルーム」だ。
 いつの間にかここへ来ていた。

 「ロージィ・ルーム」は閉店していて人っ子ひとりいない。店の外からその様子をぼーっと眺める。店はすっかりシャッターが閉めてあって、シャッターの外側に描いてあるロゴマークを照らすようにスポットライトが小さくついていた。イラスト化された薔薇の花がぽつんと暗闇に浮かんでいる。
 この薔薇の花と一緒で、自分もこの街の中でたくさんの人波の中で、たった一人な気がした。
 私、ここに何をしに来たんだろう。

「久保川さん?」

 私の名前を呼ぶ声に、それと認識する前に振り向いていた。おそらく裏口から出てきたのであろうその人は、脇道の角に驚いた顔で立っていて。
 私は駆け寄ることも逃げることも出来ず、ただそこに立ち尽くしてしまっていた。

「帰ったんじゃなかったのか?」

 俯いてしまった私に店長の声が近づいてくる。視界の端っこに店長の黒い革靴のつま先が入り込んできて、店長が目の前に来たことに気がついた。

「――泣いてるのか?」

 低く、戸惑ったような声が囁く。慌てて首を横に勢いよく振って、手の甲で目元をゴシゴシこすった。
 嫌だ、店長にこんなところ見せたくない。見られたくない。なのに店長に手首をグッと掴まれてしまった。

「こすっちゃダメだ」

 手を止められたら困る。必死に止めようとしているものが止まらなくなる。私の手首を握った力は振りほどけないけど痛くもない優しい力加減で――

 違う、違う、違う!
 店長に会えて嬉しいなんて、嘘だ。
 ハンカチで涙を拭かれて、慰めてもらえるのが嬉しいなんて、嘘だ。
 店長に会いたくてここまで来ちゃったなんて、そんな……まるで、私が店長を――

 決してその感情を認めることも、その気持ちに名前をつけることもできず、かといってここから逃げ去ることもできずただただ混乱する私に、店長はただ黙って背中をポンポン、と叩いてくれた。
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