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「落ち着いたか?」

 私を店の脇の路地へ入れて自分が大通りに背を向ける格好で、人目から店長が私を隠してくれていたのに遅ればせながら気がついた。
 もう顔もグチャグチャで、気持ちも決して落ち着いたとは言えない。でも、大きな波は超えたみたいです。

「すみません、でした」
「いや、いいんだが。何があったんだ?」

 その質問でまた黙りこくってしまった。言えるわけないじゃない。数秒、沈黙が流れる。

「――うん。まあ、無理に言うことはない」

 少しだけ声のトーンを上げて店長が言った。

「話したければ聞くし、話したくなければそれでいい。ただ、それを抱えて夜眠れないほどなら話してしまえ。俺は君の上司だが、繋がりはそれだけだ。他に漏れる心配はない。決して他言はしないと約束しよう」

 繋がりはそれだけ。
 その言葉がぐっさりと心を刺し貫く。せっかく止まった涙がまた目頭に沁みだしてくるのがわかる。

 ――違うよ。今この瞬間誰かに突き放されるのが寂しいだけ。それだけ、なんて言われたら拒絶されてるみたいだもんね。
 そう思ったのがまずかった。思考はどんどんマイナス方向に天秤が傾いてどうしようもない。
 店長のそばにいたい。無表情だけど優しい店長のそばにいたい。
 店長の側にいたくない。これ以上自分と店長との間にある溝の深さに気づきたくない。

「訂正する。今すぐ洗いざらい話せ」

 突然店長が言った。え、なんで言ってることが変わってるの?

 そんなふうに命令口調で言われたって話せるわけがない。自分自身にだってちゃんと理解しているとは思えないのに。それに、あき兄とキスしたこと、店長に話せるわけがないし――

 どん!

 上から覆い被さるように店長が私を壁際に追い詰める。両手を壁について、私を囲い込むようにしてる。

「こんなに泣いてるくせに、ほっとけるか」

 目の前に、店長の顔。
 無表情だけど瞳だけは違う。逃がしてもらえそうにない。

「離して、くださいよ」
「だめだ、ちゃんと吐き出せ」

 じいっと睨まれて、ついに私も陥落した。
 つっかえつっかえ話す私に、店長は相変わらずの無表情。お願いします、この壁ドンだけでも解放してもらえないでしょうか。

 結局全部話してしまった。
 だって、なんかどんどん店長が怖くなってくるんだもん!

「――で?」
「で、とは?」
「良かったじゃないか、両想いになれたんだろう」
「――そう、なんですよね?」
「俺に聞くな」
「ですよね」

 はあ。がっくりと肩を落としてしまった。

 自分でも理解できないんだもん。店長にわかるわけないよね。おまけに店長の機嫌が急降下してるのがビシビシ伝わってきて、ああなんで正直に話しちゃったんだろう、私。

「だが、両想いになれたならもうメイクの指導も必要ないということか? バイトもやめるのか?」
「えっ! それは困ります!」

 咄嗟に叫んだ。まだ始めて日は浅いけど、どちらも私には大事なものだ。

「なら、よかった」

 穏やかな声が聞こえて驚いた。今の今までの冷え冷えとした怒りの波動は消え、安心したように聞こえたからだ。思わず振り仰ぐと、すぐ目の前には店長の顔。
 触れそうなほどに、近く。

「――!」

 思わず息を呑んだ。

「わ、悪い」

 すぐに顔は離れていき、下半分を隠すように大きな手で覆っている。暗がりだけど、店長の耳元が少し赤く見えるのは、気のせい?

「あー、その、送っていこう。こんなに遅くちゃご両親も心配だろう」

 店長がそう申し出てくれた。でも正直躊躇してしまう。

「どうした?」
「だって、今帰ったらあき兄が……」

 もし家の前で待っていたらどうしよう。どうしたらいいかわからないし、それに何となく怖い。

「そうか」

 言葉をとぎらせ少し考え込んでいた店長が胸ポケットからスマホを取り出し、どこかに連絡を取り始める。あ、普通に電話かけるんだ。ラインとかじゃなく。

「――ああ、悪い。ちょっと邪魔しにいきたいんだが。いや、ちょっとわけありで。ああ、すまないな」

 電話を切った店長がちょっとだけ疲れたような顔をした。

「そうしたら、今日は帰らないとご両親に電話しておけ」
「――へっ?」
「そうだな、バイト先の同僚に誘われて泊まりに行くとでも」

 え?
 それって、どういう意味ですか?

 今ここにいる人。一番、私。二番、店長。以上。んで、店長は男の人で、私は女の子で。
 うそついて外泊しろって?

 そそそそそそれって……えええええー!

「とにかく今夜だけでも落ち着くまで帰らない方がよさそうだ。だから」
「だ、だからっ?!」

 思わず身構えてしまう。

「泊まり先を手配した。そこに泊めてもらえ」
「と、ととと泊まり先」
「妹のマンションだ」

 妹?
 カヨさん?

 テンパっていたのがしゅわぁ、と音を立ててしぼむ。

「まさか俺の家とかホテルとかに行くわけにいかないだろう? だからカヨに泊めてもらえるように頼んだ」
「え、もう決定ですか」
「君は今夜一人でいたら悶々と考え込むだろう?」
「でも、だからって泊めていただくなんて」
「つべこべいうな」

 あれよあれよという間にカヨさんの家に行く段取りができあがってしまい、私は強引にタクシーに乗せられて夜の町を走ることになってしまったのだった。

 カヨさんのマンションは、都内でも瀟洒で評判のいい地区に建てられたデザイナーズマンションだ。そこの11階にある一室で出迎えてくれたカヨさんは、私を連れた店長を見て目をまんまるにしていた。

「何があったの? お兄さんが私を頼ってくるなんて」
「久保川さんは今日嫌なことがあって家に帰れない。うちに連れていくわけにも行かないし、職場の女性は自宅が遠いか近い人でも家族持ちだ。今から泊めてくれとは頼めない」
「それで私?」
「迷惑か」

 迷惑に決まってるでしょう。ハラハラしてしまう。
 けれどカヨさんはふわりと笑った。

「そんなわけないじゃない。お兄さんが頼ってくれるなんて、東京の街中で野生の象にでも会うくらいの珍しさだからね。嬉しいわ」
「おまえ、文才無いな」
「ひどっ!」

 二人の会話を聞いていると、疎遠になっていた兄妹同士とは思えない。でもじっくり観察したらわかる。店長はやっぱり緊張している。それでもこんな会話が成り立っているのはお互いが歩み寄りたいと思っているからなんだろう。

「さて、にしても私一人暮らしだから予備の布団が無いのよね。悪いけど久保川さんはソファーでもいい? あ、お兄さんは床で寝るか家に帰るかね」
「わかった、帰る。久保川さんを頼む」
「賢明ね」

 たしかに見た限りではこのマンション、巨大なリビングの他は1室しかない。つまりそこはカヨさんの寝室。とすると、私が寝るソファーはリビングにあるこれ。で、店長が寝るとしたらやっぱりこのリビングしかないわけで――あ、そうですね。お気遣いありがとうございます。

 店長が帰っていった後、カヨさんが「何か飲む?」とジンジャーエールを持ってきてくれた。最初はチューハイを勧めてくれたんだけど、アルコールはあんまり得意じゃないから断った。

「時ならぬ女子会ね。ねえ、下の名前、なんだっけ?」
「瑠璃です」
「瑠理ちゃん! 綺麗な名前。じゃあ瑠理ちゃんって呼ぶね」
「ええと、カヨさ……服部さんは……」
「服部? 私は井原だよ。井原夏世」

 夏世さんが首をかしげる。え、服部カヨさんじゃなかったの?

「え、服部店長の妹さんだから服部さんかと」

 いや待て、ひょっとしたらご両親離婚して別々に引き取られて、とか複雑な理由があるのかもしれない。突っ込んだらまずいかなあ。
 そう思ってあわてて口をつぐむ。けれど夏世さんは気にする様子なんてなくて、むしろ「しまった~」という顔をしている。

「あ~……なるほど。まずかったか……? ――うん、そこは気が回らなかったお兄さんが悪いということで」

 それにしても、井原。どこかで聞いたことがある。井原……いはら……あれ?
 確か「ロージィ・ルーム」の母体であるローズヤード化粧品の社長の名前が、井原――

「そ。お兄さんの本名は井原史孝。ローズヤード化粧品の社長の長男よ」
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