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「え、社長の息子さんだったんですか」
びっくり。そういう人って専務とか副社長とか、偉いポストについているものじゃないの?
「へえ。でも何で服部って名乗ってるんでしょうね?」
「――驚かないの?」
「驚いてるじゃないですか、充分」
「そうじゃなくてね」
夏世さんが言うには、社長の息子ってわかると他の店員が萎縮しちゃうとか、肩書きで寄ってくる女性よけとか、いくつか可能性は考えられるけれど、普通は目をぎらぎらさせてすり寄っていくんじゃないか、って。違う名前で働いているのは多分そういうものを抜きにして、働いている人目線を知りたくてやっているんだろう、と夏世さんは続けた。
「にしてもな~、あのお兄さんにこんないい子の彼女が」
「ぶふっ!」
危うくジンジャーエール砲をぶちかますところでした。
「違います! だって私は」
好きな人が。
そう続けようと思って続けられなかった。
「ああそうか、まだ彼女じゃないんだね」
「だから違いますって。だいたい私しがないアルバイトだし、年だって離れてるし」
「お兄さん確か29――瑠理ちゃんは?」
「20歳です」
「ターゲットじゃん」
「いや9歳離れてますって。そういえば夏世さんいくつ?」
「私、24」
気がついたらすっかりくだけた友人同士のように話してしまっている。夏世さんってすごく取っつきやすくて親しみやすい人だ。
「それにしても、お兄さんが私に任せてきたっていうのが信じられない」
夏世さんが不思議そうに私を覗き込む。
急にあき兄に触れられた唇が気になって指で触れた。初めて触れた唇の感触は柔らかくて、暖かかった。というより、生暖かかった。
ドラマや小説で「キスはうっとりする感触で」なんて言っているけど、あれは嘘だ。気持ちいいどころかむしろ嫌だった。気持ち悪かった。
「ね、瑠理ちゃん」
夏世さんがおだやかに言った。
「私はお兄さんの妹だけど、それ以外は全く縁のない人間だよ? ここで愚痴吐き出したって瑠理ちゃんの周りの人には伝わる心配なんかないんだから、思い切って言っちゃいなよ」
もちろんお兄さんにも内緒にするよ、と口の前に人差し指を立ててみせる彼女はかっこいい。でもつい小さく吹きだしてしまった。
「え。私変なこと言った?」
「ううん、さすが兄妹だなあと思って」
店長にもおんなじこと言われたのを思い出し、お互いに疎遠な兄妹なのになんで似てるんだろうと思ったら無性におかしくなったんだ。
くすくす笑っているうちに私の中で蓋をしていた何かがちょっとだけ緩んでしまったんだろう。ついぽろりと話してしまった。
「キス、されたのが嫌だったの」
「えっ」
しぃん。部屋に沈黙が落ちる。私もぽろっと言ってしまったけれど、さすがにそこから先は続けられなくて言葉が出ない。でもあまりに夏世さんも長いこと黙っているから落としていた目線をあげてみる。
夏世さんが怒っていた。
「うちの兄ね? いやがるの、無理矢理」
「えっ! 違う違う別の人。店長とはまだ」
慌てて否定すると夏世さんは憑きものが落ちたようにぽかんとして「そうなの?」と聞き返してくる。
そうじゃない、相手は私が長年片思いしてきた相手で――
「私、失恋したと思ってた。彼は他の人が好きだって言ってたから。でも、どうしてか知らないけど気持ちが変わったって。私のことが好きだって言われて」
私の説明を聞いた夏世さんはすごく複雑そうな顔をしていた。
「告白されて嬉しくなかったの?」
「嬉しかったよ、嬉しかったけど、でもなんか――」
「なんか違ったんだ?」
「うん」
ふむ、と夏世さんは考え込んでしまった。
「ねえ、夏世さん」
「ん?」
「夏世さん、婚約者がいるんでしょ? 最初に好きだって言われて嬉しかった?」
「そりゃあねえ。泣きそうなくらいうれしかったよ?」
泣きそうなくらい。実際私ちょっと泣いたけど、それとは違う涙だろう事は想像がつく。
「私、あき兄のこと好きじゃなかったのかなあ」
そんなはずない。そう思いたいけど、考えれば考えるほどわからなくなってくる。
「思うんだけどさ、瑠理ちゃん」
考え込んでる私のグラスに夏世さんがジンジャーエールを注ぎ足してくれた。
「これまで好きだったかどうか、それは『好きだった』でいいんじゃない?」
「――そうなの?」
「うん。気持ちに正解不正解を当てはめるのは無理だと思うんだよ」
夏世さんは自分のグラスにもジンジャーエールを足してちょびっと飲んだ。
「いいじゃない、ずっと好きだったで。ただ――」
「ただ?」
「ううん、これは多分瑠理ちゃんが自分で気がつかないとだめなことだから、私からは言わないよ」
「ええ~」
私もジンジャーエールを飲んで、手元のグラスに目を落とした。
泡がぱちぱちと弾けて儚く消えていく。
★★★
ピンポーン
ピンポーン
ドアホンが鳴る音で目が覚めた。目が覚めた――寝てた?
どうやらクッションを枕にリビングの床で寝ていたようで、毛布を掛けてもらっていた。うわ、申し訳ない。
「はーい……あ、今開けるよ」
離れたところから夏世さんの声がする。まだ少しぼーっとした頭で起き上がり、動き回ってる夏世さんを見ていた。やがて扉の開閉音がして誰かが入ってきた。
「久保川さん、おはよう。迎えに来たぞ」
「あ~、てんちょ。おはようござい……」
店長だ。へにゃっとした笑顔になっているだろうなあ、寝起きだもん。そう考えて急に恥ずかしくなった。
そうだ、寝起き。寝起きなんだよ。
「久保川さん?」
「ひゃっ、ひゃい!」
しまった、声が裏返った。慌てる私の前に店長が座り込む。
「こら、寝る前にちゃんとスキンケアしなかっただろう」
「あっ、はい、いつの間にか寝ちゃったみたいです」
「ダメじゃないか、ほら顔洗ってこい。きちんとクレンジングと保湿を――夏世、おまえ化粧品は何使って」
「はいはい、もちろんローズヤードの使ってるわよ。お肌に合うなら好きに使ってちょうだい」
そんなわけでお借りします。すみません。
「ほら、顔出せ」
顔を洗ってリビングに戻ってきたらテーブルに基礎化粧品を並べて店長が待っていた。座った私の顔に店長がコットンで丁寧に化粧水をパッティングしていく。それから乳液、下地クリーム。
「あの、お兄さん? いつもそうやって瑠璃ちゃんのメイクしてるの?」
その様子を見ていた夏世さんが恐る恐る聞く。
「当たり前だ。俺はこいつの師匠だからな」
「はあ……それ、本心から言ってるならすごいわ」
甘ったるい顔して。無自覚怖い。今年いっぱい砂糖買わなくていいくらい。
ブツブツ夏世さんが独り言言ってるのはよく聞こえなかった。
びっくり。そういう人って専務とか副社長とか、偉いポストについているものじゃないの?
「へえ。でも何で服部って名乗ってるんでしょうね?」
「――驚かないの?」
「驚いてるじゃないですか、充分」
「そうじゃなくてね」
夏世さんが言うには、社長の息子ってわかると他の店員が萎縮しちゃうとか、肩書きで寄ってくる女性よけとか、いくつか可能性は考えられるけれど、普通は目をぎらぎらさせてすり寄っていくんじゃないか、って。違う名前で働いているのは多分そういうものを抜きにして、働いている人目線を知りたくてやっているんだろう、と夏世さんは続けた。
「にしてもな~、あのお兄さんにこんないい子の彼女が」
「ぶふっ!」
危うくジンジャーエール砲をぶちかますところでした。
「違います! だって私は」
好きな人が。
そう続けようと思って続けられなかった。
「ああそうか、まだ彼女じゃないんだね」
「だから違いますって。だいたい私しがないアルバイトだし、年だって離れてるし」
「お兄さん確か29――瑠理ちゃんは?」
「20歳です」
「ターゲットじゃん」
「いや9歳離れてますって。そういえば夏世さんいくつ?」
「私、24」
気がついたらすっかりくだけた友人同士のように話してしまっている。夏世さんってすごく取っつきやすくて親しみやすい人だ。
「それにしても、お兄さんが私に任せてきたっていうのが信じられない」
夏世さんが不思議そうに私を覗き込む。
急にあき兄に触れられた唇が気になって指で触れた。初めて触れた唇の感触は柔らかくて、暖かかった。というより、生暖かかった。
ドラマや小説で「キスはうっとりする感触で」なんて言っているけど、あれは嘘だ。気持ちいいどころかむしろ嫌だった。気持ち悪かった。
「ね、瑠理ちゃん」
夏世さんがおだやかに言った。
「私はお兄さんの妹だけど、それ以外は全く縁のない人間だよ? ここで愚痴吐き出したって瑠理ちゃんの周りの人には伝わる心配なんかないんだから、思い切って言っちゃいなよ」
もちろんお兄さんにも内緒にするよ、と口の前に人差し指を立ててみせる彼女はかっこいい。でもつい小さく吹きだしてしまった。
「え。私変なこと言った?」
「ううん、さすが兄妹だなあと思って」
店長にもおんなじこと言われたのを思い出し、お互いに疎遠な兄妹なのになんで似てるんだろうと思ったら無性におかしくなったんだ。
くすくす笑っているうちに私の中で蓋をしていた何かがちょっとだけ緩んでしまったんだろう。ついぽろりと話してしまった。
「キス、されたのが嫌だったの」
「えっ」
しぃん。部屋に沈黙が落ちる。私もぽろっと言ってしまったけれど、さすがにそこから先は続けられなくて言葉が出ない。でもあまりに夏世さんも長いこと黙っているから落としていた目線をあげてみる。
夏世さんが怒っていた。
「うちの兄ね? いやがるの、無理矢理」
「えっ! 違う違う別の人。店長とはまだ」
慌てて否定すると夏世さんは憑きものが落ちたようにぽかんとして「そうなの?」と聞き返してくる。
そうじゃない、相手は私が長年片思いしてきた相手で――
「私、失恋したと思ってた。彼は他の人が好きだって言ってたから。でも、どうしてか知らないけど気持ちが変わったって。私のことが好きだって言われて」
私の説明を聞いた夏世さんはすごく複雑そうな顔をしていた。
「告白されて嬉しくなかったの?」
「嬉しかったよ、嬉しかったけど、でもなんか――」
「なんか違ったんだ?」
「うん」
ふむ、と夏世さんは考え込んでしまった。
「ねえ、夏世さん」
「ん?」
「夏世さん、婚約者がいるんでしょ? 最初に好きだって言われて嬉しかった?」
「そりゃあねえ。泣きそうなくらいうれしかったよ?」
泣きそうなくらい。実際私ちょっと泣いたけど、それとは違う涙だろう事は想像がつく。
「私、あき兄のこと好きじゃなかったのかなあ」
そんなはずない。そう思いたいけど、考えれば考えるほどわからなくなってくる。
「思うんだけどさ、瑠理ちゃん」
考え込んでる私のグラスに夏世さんがジンジャーエールを注ぎ足してくれた。
「これまで好きだったかどうか、それは『好きだった』でいいんじゃない?」
「――そうなの?」
「うん。気持ちに正解不正解を当てはめるのは無理だと思うんだよ」
夏世さんは自分のグラスにもジンジャーエールを足してちょびっと飲んだ。
「いいじゃない、ずっと好きだったで。ただ――」
「ただ?」
「ううん、これは多分瑠理ちゃんが自分で気がつかないとだめなことだから、私からは言わないよ」
「ええ~」
私もジンジャーエールを飲んで、手元のグラスに目を落とした。
泡がぱちぱちと弾けて儚く消えていく。
★★★
ピンポーン
ピンポーン
ドアホンが鳴る音で目が覚めた。目が覚めた――寝てた?
どうやらクッションを枕にリビングの床で寝ていたようで、毛布を掛けてもらっていた。うわ、申し訳ない。
「はーい……あ、今開けるよ」
離れたところから夏世さんの声がする。まだ少しぼーっとした頭で起き上がり、動き回ってる夏世さんを見ていた。やがて扉の開閉音がして誰かが入ってきた。
「久保川さん、おはよう。迎えに来たぞ」
「あ~、てんちょ。おはようござい……」
店長だ。へにゃっとした笑顔になっているだろうなあ、寝起きだもん。そう考えて急に恥ずかしくなった。
そうだ、寝起き。寝起きなんだよ。
「久保川さん?」
「ひゃっ、ひゃい!」
しまった、声が裏返った。慌てる私の前に店長が座り込む。
「こら、寝る前にちゃんとスキンケアしなかっただろう」
「あっ、はい、いつの間にか寝ちゃったみたいです」
「ダメじゃないか、ほら顔洗ってこい。きちんとクレンジングと保湿を――夏世、おまえ化粧品は何使って」
「はいはい、もちろんローズヤードの使ってるわよ。お肌に合うなら好きに使ってちょうだい」
そんなわけでお借りします。すみません。
「ほら、顔出せ」
顔を洗ってリビングに戻ってきたらテーブルに基礎化粧品を並べて店長が待っていた。座った私の顔に店長がコットンで丁寧に化粧水をパッティングしていく。それから乳液、下地クリーム。
「あの、お兄さん? いつもそうやって瑠璃ちゃんのメイクしてるの?」
その様子を見ていた夏世さんが恐る恐る聞く。
「当たり前だ。俺はこいつの師匠だからな」
「はあ……それ、本心から言ってるならすごいわ」
甘ったるい顔して。無自覚怖い。今年いっぱい砂糖買わなくていいくらい。
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