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結局店長が車でうちまで送ってくれるというのを断れず、おとなしくくっついて夏世さんのマンションを後にした。「また来てね」と夏世さんはにこやかに玄関先で見送ってくれた。
そのときふと振り返った店長が「あ」と小さく声を上げた。視線の先には、夏世さんの表札。「井原」と書いてある。
店長が表札と私をちらちら見比べて「しまった」という顔をしているのを見て夏世さんが「話したわよ」ととどめを刺した。
「話したのか?!」
「お兄さん、うかつだわ~。ま、でも瑠璃ちゃんは心配ないわよ」
「いや、心配とかそういうことでは――いや、ある意味心配だったんだが……?」
なぜ疑問形。
そして私たちは夏世さんのうちから送り出されたのだった。
「悪かったな」
車を運転しながら店長がぽつりと言った。
いま、なんて言いました? 悪かったって?
「何がですか?」
さっぱりわからず聞き返してしまった。
「偽名を使ってることだ」
「ああ、そのことですか」
要は嘘をついていたことを謝っているんだな、とやっと思い当たった。でも、正直言って腹を立てているかと聞かれたら全然怒っていないんだ、私。
店長には店長の事情があってやっていることだ、悪気は全然ない。そしてその嘘をつかれているのは私一人じゃない。職場の人はみんな「服部史孝」だと思ってる。つまり、私に対して思うところがあって嘘をついていたわけじゃない、ということで。
「だって、名前が服部さんでも井原さんでも、店長は店長じゃないですか」
キキキ――ッ!
その途端に店長が急ブレーキを踏んだ。がくん! と前に揺さぶられたのをシートベルトが押さえてくれた。ああびっくりした。
「す、すまない、大丈夫か」
「あ、はい。びっくりはしましたけど」
「びっくりしたのはこっちの方だ。そんな――」
何かを言いかけて口をつぐんだ店長は相変わらずの仏頂面だけど、なんだかほんのり雰囲気が違う。思わずしげしげと見て気がついた。
目元が少しだけ赤い。
照れてる?
何に?
パッパーーーーッ!
その時後ろから来た車がけたたましくクラクションを鳴らし(当然だ)、店長は慌てて車を発進させた。
目元はまだうっすら赤いままで。
「それで、どうだ?」
「どう、って?」
慌ててることを隠すみたいに店長が話を変えた。またしてもアバウトな物言いで、何をいいたいのかさっぱり見当がつきません。
「少しは落ち着けたか、ってことだ」
ああ、はい。すみません。
「夏世さんにたくさん話を聞いてもらいました。ちょっとすっきりしたんですけど、まだちゃんと考えがまとまっていないっていうか」
「――その、彰人君を好きなんだろう? 何をそんなに悩むんだ」
ためらいがちに言葉が返ってくる。それに対する返事はたぶんもう私の中にあるんだ。
「たぶん――たぶん、そうじゃないんですよ」
「そうじゃない?」
「ううん、もう違うっていうか……」
私は夏世さんと話したことを伝えた。
あき兄にキスされてうれしくなかったこと。
ずっと好きだと思っていたのにうれしくなかったことで、自分のこれまでの気持ちがわからなくなったこと。
でも、夏世さんは「ずっと好きだった、でいい」って言ってくれた。
そしてその先は私が自分で考えなきゃいけない、とも。
「彼を好きだった気持ちは恋だとずっと思ってた。でも今は違う。あき兄はもう私にとって大好きな幼馴染でお兄ちゃんなんだと思う。だから嬉しくなかった。恋じゃなくて身内の『好き』だったから」
恋じゃない。
自分で口にしたらすとん、と腑に落ちた。
そうだよ。そうなんだよ。
あき兄から「黒髪美人さん」が好きだと聞いたときショックだったのも、あき兄が好きだからと言うより妹が大好きなお兄ちゃんを独占したいような気持ちだった気がする。
くやしかったんだ。いつでも側にいてくれる幼なじみのお兄ちゃんがいなくなっちゃうみたいで。
だから失恋したと想いながらも「黒髪美人さん」イコール夏世さんの真似をすれば構ってもらえるんじゃないかと思ってたんだ。
「そっか……はは、そっか」
以前は恋していたのかな。違ったのかな。
人の心の線引きなんてできるわけもないからわからないけど、今はたぶんあき兄に恋してない。
でも、昔からあき兄を好きだと思っていた気持ちは嘘でも偽りでもなくて、私だけの大事な宝物。
「今は違うかも知れないけど、やっぱり私の初恋はあき兄ってことにしておきます」
「――そうか」
ぶっきらぼうにそう返答する店長の声色がどこか優しく聞こえる。
フロントガラス越しに見た朝の空は、いつもよりもすっきりと高く感じた。
★★★
自宅のすぐそばまで店長は車で送ってくれた。ここから先は細い住宅街の道で一方通行も多いから、そのすぐ手前で止めてもらった。とはいえ幹線道路ではないので人通りが多い場所でもない。一応こんな朝早くに男性の運転する車から降りる私に変な噂がたたないようにと配慮してくれたんだと思う。
「ありがとうございました」
「いや。今日は大学の後三時からの勤務だったな」
「はい」
「よし、それじゃ後で」
店長の黒い車が走り去っていくのをちょっとだけ見送って、私は踵を返した。
時間はまだ朝の六時。家で身支度をしなおして軽く朝ご飯食べる時間もあるな。
そう思って自宅の門扉に手をかけた、そのときだった。
後ろから強い力で肩を掴まれたのだ。
「るりっ!」
すごく驚いたけど、さすがに声でわかった。
あき兄だ。
ちょうどいい、昨日の返事をきちんとしなくちゃ。そう考えて振り向いて、私は再びびっくりした。
いつもお洒落に髪も服もきめているあき兄が、髪はボサボサで無精ひげ、そしてひどい目の下のくまといういでたちだったものだから。思わず呆然と見上げてしまった。
「瑠璃、どこいってたんだよ! ゆうべ帰ってこなかっただろう!」
「ご、ごめんなさい」
「心配したんだぞ! どこにいたんだ!」
「あ、あの、店長の――」
「店長?! あいつと一緒だったのか! 一晩中!」
「いたい! やめて、離してあき兄!」
あき兄が掴んでいる肩が痛い。
「違うの、店長の妹さんの家に泊めてもらったの! 店長とは一緒じゃなかったよ!」
「信用できるか! なあ瑠璃、おまえは俺が好きなんだよな? そして昨日俺は瑠璃のことが好きだって告白した。だから瑠璃は俺の彼女なんだぞ。なのになんで逃げたんだ! どうしてあんな男ばっかり頼るんだよ!」
怖い。
あき兄、すごく怒ってる。
私の気持ちをちゃんと伝えなきゃって、返事をしなきゃって考えていたのに怖くて言葉が出ない。
「聞いて、あき兄。私、あき兄のこと大好きだよ」
「なら!」
「でも、その好きは恋じゃないの。お兄ちゃんみたいな好きなの!」
あき兄が凍りついたように動かなくなった。
「嘘だ、だって瑠璃はいつも……」
「うん、恋だってずっと思ってたよ。でも、今はもう違うって気がついちゃったの」
「――あいつのせいか」
そう言ったたく兄の声は低い。悲しみとも怒りともとれる何かが押し込められたような声だ。
「瑠璃はあいつに騙されてるんだ。そうやって瑠璃の俺に対する気持ちをすり替えて、自分の方を向かせようと――瑠璃みたいな初心な女の子なんて、もて遊ばれてポイ、に決まってるだろ!」
「ひどいこと言わないで! あき兄、店長のことなんて何にも知らないくせに」
ひどい。あき兄は頭にきてるみたいだから勢いで言っているだけかもしれないけど、それでも聞き捨てならない。
店長のこと、そんなふうに言うなんて、あき兄でも許せない。
睨みつけたあき兄は怖い顔をしていたけれど、ふっと悲しそうにその表情が歪んだ。
「やっぱり、あの店長がいいのか?」
「え?」
「俺、今は『あいつ』としか言ってないぞ」
「え、あ……」
「なのに瑠璃は服部店長をすぐに思い浮かべた。それが答えだよな」
ぷしゅう、と空気が抜けた風船みたいにしぼんでしまったあき兄に私は言葉が出ない。
「あ、あき兄」
あき兄はそれきり何も言わず私の肩から手を離して踵を返し、自分の家へと入っていった。私はただそれを見ているしかできなかった。
そのときふと振り返った店長が「あ」と小さく声を上げた。視線の先には、夏世さんの表札。「井原」と書いてある。
店長が表札と私をちらちら見比べて「しまった」という顔をしているのを見て夏世さんが「話したわよ」ととどめを刺した。
「話したのか?!」
「お兄さん、うかつだわ~。ま、でも瑠璃ちゃんは心配ないわよ」
「いや、心配とかそういうことでは――いや、ある意味心配だったんだが……?」
なぜ疑問形。
そして私たちは夏世さんのうちから送り出されたのだった。
「悪かったな」
車を運転しながら店長がぽつりと言った。
いま、なんて言いました? 悪かったって?
「何がですか?」
さっぱりわからず聞き返してしまった。
「偽名を使ってることだ」
「ああ、そのことですか」
要は嘘をついていたことを謝っているんだな、とやっと思い当たった。でも、正直言って腹を立てているかと聞かれたら全然怒っていないんだ、私。
店長には店長の事情があってやっていることだ、悪気は全然ない。そしてその嘘をつかれているのは私一人じゃない。職場の人はみんな「服部史孝」だと思ってる。つまり、私に対して思うところがあって嘘をついていたわけじゃない、ということで。
「だって、名前が服部さんでも井原さんでも、店長は店長じゃないですか」
キキキ――ッ!
その途端に店長が急ブレーキを踏んだ。がくん! と前に揺さぶられたのをシートベルトが押さえてくれた。ああびっくりした。
「す、すまない、大丈夫か」
「あ、はい。びっくりはしましたけど」
「びっくりしたのはこっちの方だ。そんな――」
何かを言いかけて口をつぐんだ店長は相変わらずの仏頂面だけど、なんだかほんのり雰囲気が違う。思わずしげしげと見て気がついた。
目元が少しだけ赤い。
照れてる?
何に?
パッパーーーーッ!
その時後ろから来た車がけたたましくクラクションを鳴らし(当然だ)、店長は慌てて車を発進させた。
目元はまだうっすら赤いままで。
「それで、どうだ?」
「どう、って?」
慌ててることを隠すみたいに店長が話を変えた。またしてもアバウトな物言いで、何をいいたいのかさっぱり見当がつきません。
「少しは落ち着けたか、ってことだ」
ああ、はい。すみません。
「夏世さんにたくさん話を聞いてもらいました。ちょっとすっきりしたんですけど、まだちゃんと考えがまとまっていないっていうか」
「――その、彰人君を好きなんだろう? 何をそんなに悩むんだ」
ためらいがちに言葉が返ってくる。それに対する返事はたぶんもう私の中にあるんだ。
「たぶん――たぶん、そうじゃないんですよ」
「そうじゃない?」
「ううん、もう違うっていうか……」
私は夏世さんと話したことを伝えた。
あき兄にキスされてうれしくなかったこと。
ずっと好きだと思っていたのにうれしくなかったことで、自分のこれまでの気持ちがわからなくなったこと。
でも、夏世さんは「ずっと好きだった、でいい」って言ってくれた。
そしてその先は私が自分で考えなきゃいけない、とも。
「彼を好きだった気持ちは恋だとずっと思ってた。でも今は違う。あき兄はもう私にとって大好きな幼馴染でお兄ちゃんなんだと思う。だから嬉しくなかった。恋じゃなくて身内の『好き』だったから」
恋じゃない。
自分で口にしたらすとん、と腑に落ちた。
そうだよ。そうなんだよ。
あき兄から「黒髪美人さん」が好きだと聞いたときショックだったのも、あき兄が好きだからと言うより妹が大好きなお兄ちゃんを独占したいような気持ちだった気がする。
くやしかったんだ。いつでも側にいてくれる幼なじみのお兄ちゃんがいなくなっちゃうみたいで。
だから失恋したと想いながらも「黒髪美人さん」イコール夏世さんの真似をすれば構ってもらえるんじゃないかと思ってたんだ。
「そっか……はは、そっか」
以前は恋していたのかな。違ったのかな。
人の心の線引きなんてできるわけもないからわからないけど、今はたぶんあき兄に恋してない。
でも、昔からあき兄を好きだと思っていた気持ちは嘘でも偽りでもなくて、私だけの大事な宝物。
「今は違うかも知れないけど、やっぱり私の初恋はあき兄ってことにしておきます」
「――そうか」
ぶっきらぼうにそう返答する店長の声色がどこか優しく聞こえる。
フロントガラス越しに見た朝の空は、いつもよりもすっきりと高く感じた。
★★★
自宅のすぐそばまで店長は車で送ってくれた。ここから先は細い住宅街の道で一方通行も多いから、そのすぐ手前で止めてもらった。とはいえ幹線道路ではないので人通りが多い場所でもない。一応こんな朝早くに男性の運転する車から降りる私に変な噂がたたないようにと配慮してくれたんだと思う。
「ありがとうございました」
「いや。今日は大学の後三時からの勤務だったな」
「はい」
「よし、それじゃ後で」
店長の黒い車が走り去っていくのをちょっとだけ見送って、私は踵を返した。
時間はまだ朝の六時。家で身支度をしなおして軽く朝ご飯食べる時間もあるな。
そう思って自宅の門扉に手をかけた、そのときだった。
後ろから強い力で肩を掴まれたのだ。
「るりっ!」
すごく驚いたけど、さすがに声でわかった。
あき兄だ。
ちょうどいい、昨日の返事をきちんとしなくちゃ。そう考えて振り向いて、私は再びびっくりした。
いつもお洒落に髪も服もきめているあき兄が、髪はボサボサで無精ひげ、そしてひどい目の下のくまといういでたちだったものだから。思わず呆然と見上げてしまった。
「瑠璃、どこいってたんだよ! ゆうべ帰ってこなかっただろう!」
「ご、ごめんなさい」
「心配したんだぞ! どこにいたんだ!」
「あ、あの、店長の――」
「店長?! あいつと一緒だったのか! 一晩中!」
「いたい! やめて、離してあき兄!」
あき兄が掴んでいる肩が痛い。
「違うの、店長の妹さんの家に泊めてもらったの! 店長とは一緒じゃなかったよ!」
「信用できるか! なあ瑠璃、おまえは俺が好きなんだよな? そして昨日俺は瑠璃のことが好きだって告白した。だから瑠璃は俺の彼女なんだぞ。なのになんで逃げたんだ! どうしてあんな男ばっかり頼るんだよ!」
怖い。
あき兄、すごく怒ってる。
私の気持ちをちゃんと伝えなきゃって、返事をしなきゃって考えていたのに怖くて言葉が出ない。
「聞いて、あき兄。私、あき兄のこと大好きだよ」
「なら!」
「でも、その好きは恋じゃないの。お兄ちゃんみたいな好きなの!」
あき兄が凍りついたように動かなくなった。
「嘘だ、だって瑠璃はいつも……」
「うん、恋だってずっと思ってたよ。でも、今はもう違うって気がついちゃったの」
「――あいつのせいか」
そう言ったたく兄の声は低い。悲しみとも怒りともとれる何かが押し込められたような声だ。
「瑠璃はあいつに騙されてるんだ。そうやって瑠璃の俺に対する気持ちをすり替えて、自分の方を向かせようと――瑠璃みたいな初心な女の子なんて、もて遊ばれてポイ、に決まってるだろ!」
「ひどいこと言わないで! あき兄、店長のことなんて何にも知らないくせに」
ひどい。あき兄は頭にきてるみたいだから勢いで言っているだけかもしれないけど、それでも聞き捨てならない。
店長のこと、そんなふうに言うなんて、あき兄でも許せない。
睨みつけたあき兄は怖い顔をしていたけれど、ふっと悲しそうにその表情が歪んだ。
「やっぱり、あの店長がいいのか?」
「え?」
「俺、今は『あいつ』としか言ってないぞ」
「え、あ……」
「なのに瑠璃は服部店長をすぐに思い浮かべた。それが答えだよな」
ぷしゅう、と空気が抜けた風船みたいにしぼんでしまったあき兄に私は言葉が出ない。
「あ、あき兄」
あき兄はそれきり何も言わず私の肩から手を離して踵を返し、自分の家へと入っていった。私はただそれを見ているしかできなかった。
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