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『其の弐拾』

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「……俺の与太話は、これでおしまいさ。長い間つき合ってくれて、ありがとよ、隊長さん。だが、どうにも信じられねぇって表情だな……まぁ、いいさ。今更、なんと思われようとかまわねぇ。俺も全部話してすっきりしたし、少しでも楽しんでくれたなら、それで満足だ」
 長い長い物語を話し終えた雲嶺火うねびは、大きく吐息し、目を閉じて壁際にもたれかかった。
 囲炉裏いろりをはさみ正面に座す蕉允しょういんは、そんな雲嶺火の様子を、しばし怪訝けげんそうにながめていたが、やがて口のに酷薄な笑みを浮かべ、いかにも意地の悪い声音声音で、こう云い放った。
「確かに、夢物語としては、中々いい出来だったが、真実味に欠けるな。あの遺骸の娘が、本当に神祇大臣じんぎだいじん聖戒王せいかいおう》の御息女だとは、到底思えんしな。しかし、お前の下らん与太話のお陰で、長い夜を退屈せずに過ごせたぞ。その点においては、礼を云っておこうか」
 鬼隊長のセリフを聞いて、雲嶺火の話の余韻に浸っていた秦副長しんふくちょう趙隊正ちょうたいせいは、ハタと我に返り、表情を引きしめた。野蛮な盗賊の話術にはまり、一時でも夢中になってしまった自分が情けない。所詮は、悪党の出まかせ……嘘八百にすぎないのだ。蕉允は、そんな部下二人の内心を見透かしてか、不愉快そうに鼻を鳴らすと、さらに険悪な口調で云いそえた。
「……ただ、斯様な作り話で煙に巻き、ついに事実を語らなかったのは、きわめて残念だよ」
 雲嶺火に語らせるだけ語らせておいて、この悪しざまな云い方は、なんとも頂けない。
 けれど、どうやら只今のセリフは、彼の話の中盤以降より、あらかじめ用意されていたものらしい。蕉允の酷薄で薄い唇に、ゆったりとたたえられた冷笑が、それを物語っている。
「では……明朝、卯の刻、迎えに来る」
 蕉允は冷淡な声音でそう宣告すると、獄吏ごくりにあとをまかせ、足早に牢屋敷から立ち去った。
「夢物語、作り話、か……哈哈ハハ
 再び独房へ戻された雲嶺火は、項垂うなだれ自嘲気味に笑った。だが、それも束の間……雲嶺火は急に真顔になり、地下牢の天窓を仰ぎ、満々と揺らぐ十六夜月に向けて、こうつぶやいた。
「あれから、明日で丁度、四十九日か……娜月なつき、皆……ようやく俺も、そっちへ逝けるぜ」
 しかし実際のところ、雲嶺火の物語は、これで終わりではなかった。
 事態は風雲急を告げ、そう簡単に幕引きを早めてくれるほど、生易しくはなかったのだ。


 そして――ついに運命の朝がやって来た。
 盗賊【雷鳴レイション】頭目の、公開斬首刑が行われる日である。
 穏やかに晴れた晩秋の神無月。
 紅葉を敷き詰めた大地。
 時折吹く、冷たい風が肌に突き刺さる。
 本来なら盗賊の処刑など、治安部隊の関知するところだが、此度に限り鬼退治専門護国団【百鬼討伐隊ひゃっきとうばつたい】が、すべてを掌理しょうりすることに決まった。
 それは《舎利焼しゃりくべの雲嶺火》が、国賊級のお尋ね者であり、また強大な鬼業禍力きごうかりきの持ち主であるからに、他ならなかった。
 牢屋敷を出る際、雲嶺火は両腕を後ろで縛められ、鬼道術きどうじゅつを封じる特殊な鉄鎖を嵌められ、質素な死装束を着せられ、獄吏から非人ひにん(ここでは死刑執行役、罪人の埋葬も行う)に預けられた。刑は卯の刻きっかりに、執行される。帳頭巾とばりずきんで顔を隠した非人どもに、処刑場へと引き出された雲嶺火は、討伐隊に捕縛された時から、すでに覚悟を決めていた。
 処刑場を、見渡せる位置に建てられた豪奢な三昧堂さんまいどうの、正面桟敷席で観覧する蕉允隊長は、深く曲彔きょくろくに腰かけ、両脇に秦彪蕪しんひょうぶ副長と、趙翠鶴ちょうすいかく隊正を従え、実に満足そうである。
 口の端にこすい笑みを浮かべ、その瞬間を今か今かと待ち侘びている。副長と隊正は若干、緊張した面持ちで、周辺を警備する部下たちに手抜かりはないか、そればかり気にしていた。おおよそ三十間超の処刑広場は、高く頑丈な竹垣で正方形に囲われ、百余名の百鬼討伐隊と、五百余名の治安部隊が、緊密な陣立てで、処刑の進行に終始、目を光らせていた。
 羽束首郷はつかべごうの処刑広場は丁度、神籬森ひもろぎもり流刑地との境界付近にある。片側には鬱蒼たる樹海が広がり、土壌は忌まわしい赤腐土あかふどで汚染され、ゆえに普段はまったく人気ひとけのない場所だ。
 つまりここは、忌地いみちの一部なのだ。
 だがこの朝だけは、ちがった。竹垣の外には沢山の見物人が訪れ、中には義賊【雷鳴】の頭目の死を、内心で残念がっている者も少なくなかった。しかし、こもが敷かれた赤腐土の上へ端座たんざし、瞑目する雲嶺火は最早、すべてを達観しているかのように穏やかだった。
 非人どもの乱暴なあつかいも甘んじて受け入れ、決して抵抗する素振りも見せず、取り乱すこともなかった。それが蕉允には、どうにも面白くなく、彼を英雄視する竹垣の向こうの観衆には、胆の据わった傑物と映った。女子供の目には泪すら浮かんでいる。そんな中、雲嶺火の前に立った執行官が、赤毛盗賊の犯した悪行の数々を、高らかに読み上げた。
「罪人《舎利焼べの雲嶺火》! ここに座す、東方津陽つばる心郡なかごぐん丁子郷よぼこごう』出身の緋幣族ひぬさぞくは、多くの手下を従え、【雷鳴】なる盗賊一味を結成! 角郡すぼしぐん尾郡あしたれぐん近辺を中心に荒らし回り、金銭強奪目的で蛮行をなし、罪なき民草たみくさを苦しめた罪は重い! 殺人、強姦、放火、略奪、詐取、悪徳役人との癒着、一部の下層民を騙し扇動するなど、あらゆる悪事に手を染め、治安部隊のみならず東方護国団の手を煩わせた罪は、さらに重い! よって戊辰暦ぼしんれき十年、神無月廿日はつか卯の刻! 只今より斬首刑をもって、これまでの罪業を償わせるものとする!」
 あることないこと、なんでも並べ立て、雲嶺火を睨むと、治安部隊出の執行官は、ニヤリと悪辣あくらつに口端をゆがめた。すると、今まで黙っていた雲嶺火が、さらに悪辣な笑みを返し、治安部隊が隠しておきたかった〝例の件〟を、朗々たる大音声だいおんじょうで発信してしまった。
「そいつぁ、おかしいな。俺たちを殲滅したかった本当の罪科……郡代所の御金蔵破りの件は、その罪状文には書かれてねぇのかい? あれだけ大騒ぎして、それこそ無関係な民草を相当、巻きこんでおいて、俺の手下を次々惨殺していって……風の噂じゃあ、手下から取り戻した金は、悪徳な連中が、自分たちの懐に入れちまったって話だし……そらぁ、ねぇだろうよ。それともお役人ってなぁ、てめぇに都合の悪いことは、隠蔽するのが常套手段なのかい」
 その途端、執行官が鞭をふるい、雲嶺火の頬に、みみず腫れが走った。
 周囲の人垣からは、どよめきが沸き起こる。蕉允は、大きなため息をついた。
「もういい。余計な手続きなど省き、さっさと刑を執行しろ」
 蕉允隊長の命を受け、執行官はその後にひかえる、さまざまな儀礼を簡略。
 非人どもも早速、雲嶺火の頭を乱暴に俵へ押しつけ、大刀を振り上げた。
〈いよいよ最期の時か……これで、すべてが終わる〉
 雲嶺火は、殺気立った非人頭ひにんがしらがかまえる凶刃の向こうに、走馬灯の如く、懐かしい日々を、懐かしい面々を見た。逆に、俵の向こうに垣間見えるのは、斬刑後の首が落ちる、血まみれの酸鼻な穴倉あなぐら……地獄である。吐き気をもよおすほどの死臭が鼻を突く。だが、それも覚悟の上だ。非人頭の気合一声、筋肉の蠕動ぜんどう、高鳴る鼓動、護国団の冷徹な眼差し、肌を指す陽光……瞑目してなお、雲嶺火は、自分の頭上にかざされた首斬り刀が、鋭利な殺意に煌めくのを感じ取ることができた。竹垣の外の野次馬が、固唾かたずを呑み、表情を強張らせる。
 と――その時であった。
「ぎゃあっ!」
 突如、雲ひとつない蒼穹に、白銀の光が閃いた。
 それは、雲嶺火を斬首せんとしていた非人頭の胸を、痛烈に貫いた。
 非人頭は、帳頭巾を吐血で赤く染め、ドウッと土壇場どたんばに倒れた。その手からこぼれた首斬り刀は、雲嶺火が押しつけられた俵の真横に突き刺さり、彼の赤毛を一房だけ切断した。
「なっ……なんだ! 何事だ!」
「クソ! やはり、仲間が奪取に来たか! 一同、配置に着け!」
 副官たちが恐れていたのは、【雷鳴】の残党による〝首領奪取計画〟であった。
 但し雲嶺火の話によれば、すでに仲間たちは皆、【黄泉離宮こうせんりきゅう】とやらで落命したはず。
 けれど蕉允隊長を始め、討伐隊の官兵たちは、誰も彼も下賤の盗賊の与太話など、微塵も信じていなかった。ところが、そんな討伐隊員の懐疑心を吹き飛ばす、荒々しい戦風が、いきなり処刑場に現れたのだ。後退する群衆の中から、逆に一歩前へ進み出た謎の人物。
 それは、榧木箱かやきばこを背負い、顔半分が無残に焼け爛れた男だ。
 彼が何者かは、云うまでもないだろう。
「その男……《舎利焼べの雲嶺火》は、私の獲物だ。貴様らなどに、渡さん」
 竹垣を、目にも止まらぬ早業で、斬り裂いた男は、堂々と処刑場の中へ踏み入って来た。
 低く陰惨な声音で、かく吐き捨てる。
 蕉允隊長は、曲彔を倒して立ち上がった。
 かたわらの愛刀を手に取っては、すかさず鞘から抜き払う。
 そして、不埒な侵入者を徹底的に面罵する。
「貴様! 我ら護国団筆頭【百鬼討伐隊】が取り仕切る処刑を、よもや邪魔する心算つもりか! この不届き者め! 凶器を捨てて投降せんと、ただちに千六本に斬り刻むぞ!」
 ところが、不遜で不敵な悪相男……【血神酒道士ちみきどうし】こと《遼玄坊りょうげんぼう》は、鬼隊長の罵詈雑言など、まるで意に介さず、思いきり無視した揚句、悠々と雲嶺火にだけ、語り続けた。
「雲嶺火よ……忘れたか? 我ら【神籬森冥罰衆ひもろぎもりみょうばつしゅう】は、四十九日の間は不死身。つまり逆を云えば、今日ですべてが終わるということだ。ともに泥梨ないりへ逝こうではないか、雲嶺火」
 俵から身を起こした雲嶺火は、すぐまた別の非人に足蹴にされ、地べたへ押しつけられた。
 けれど、こうなっては、もう大人しくなどしていられない。全身全霊であがき、非人どもを振り払うと、処刑場の中央に敢然と立ち上がった。赤毛を逆立て、闘志に満ちた眼差しで、憎き殺手さってを睨めつける。これにて周囲の人垣から、拍手と歓声が巻き起こった。
 だが、後ろ手に縛められた鉄鎖だけは、どうにも外しようがない。
 このままでは、絶対的に不利な状況である。
「隊長さん! 頼むから、早くこいつを外してくれ!」
 雲嶺火は、三昧堂を振り返り、蕉允に向けて叫んだ。鬼道術きどうじゅつの体得を表す『棘刺印きょくしいん』を、おおい隠すように取りつけられた赤い鉄鎖が、彼の鬼業禍力きごうかりきを……強靭な戦力を殺いでいる。
 だが、当然のことながら、蕉允の拒絶は早かった。
莫迦ばかを云うな! 折角、捕らえた国賊を、むざむざ仲間の手に渡すような真似が、できるか! そこな男も【雷鳴】一味だな! ならば、同罪と見なし、斬首刑に処すまで!」
 鬼隊長と部下たちは、すでに気合充分。
 刺客の力量を甘く見て、たった一人の敵方相手なら、大いに勝機ありと思いこんでいる。
 雲嶺火は、ますます焦って、傷つき重い体を引きずりながら、必死で鬼隊長に訴え続けた。
「ちがう! 昨夜の話を思い出せ! こいつこそ、【神籬森冥罰衆】最後の刺客なんだ!」
 直後、遼玄は千剣操術せんけんそうじゅつを発動。
 まばゆい白銀光を差配し、あっと云う間に、襲いかかる百鬼討伐隊員を返り討ちにした。
 隊員たちは皆、見る影もなく斬り刻まれ、血生臭い肉塊と化した。
 これには、さしもの百鬼討伐隊も、度肝を抜かれ、呆然自失……驚愕のあまり、しばし言葉を失った。周囲の野次馬ともなれば、なおのこと。受けた衝撃は、殊更に大きかったようだ。腰を抜かす者や、慌てて逃げ出す者、半狂乱になる者で、辺りは騒然となった。
 見かねた雲嶺火が、声を限りに大喝する。
「やめろ、遼玄……いや、神祇府じんぎふの犬め! あれだけ犠牲を出しても、まだ足りないのか!」
「うむ。足りんな」
 遼玄は口の端ゆがめ、千剣を虚空で旋回させつつ、次なる犠牲者に狙いを定めている。
「貴様一人で、百鬼討伐隊を相手にする気か!」
哈哈ハハ、同朋こそ再生はできなかったが、斯様な雑魚ども……私一人で充分、まかなえる」
 遼玄は、いよいよ侮蔑的に嗤い、悪辣なセリフで百鬼討伐隊を挑発した。
 血の気の多い隊員たちは、すぐに激昂し、敵方が放った危険な挑発に、乗ってしまった。
「なんだと、貴様ぁ! 我らを愚弄するかぁ!」
「小賢しい妖術で、我らを出し抜けると思うなよ!」
「仲間の死には、相応の代価を、その体で払ってもらうぞ!」
 怒り狂った百鬼討伐隊は、恐れも忘れ、護国団筆頭の威信に賭けて総力を結集。まず砲撃隊が前に出て、弓矢を、弩砲どほうを……さらには、鬼の捕縛用巨大もり地獄枘じごくほぞ』を乱射した。
 ところが、平然と佇立する遼玄は、地獄枘以外の攻撃からは、まるで逃げる素振りを見せなかった。必要最低限の動きで、巨大な銛だけかわし、後は矢衾やぶすまに、されるにまかせた。
 それと云うのも、不死身の殺手に、斯様な攻撃が、効くはずがないからだ。
 しこうして遼玄は、涼しい顔で、腰帯に提げた酒瓢箪さけびょうたんを、豪快にあおった。
 すると体中に刺さった矢が、撃ちこまれた弾丸が、瞬時に逆噴射され、討伐隊員のみならず、周囲で見守る群衆をも直撃。容赦なく彼らの命を奪った。その上、瓢箪の酒を呑んだ途端、遼玄の矢傷は見る見るふさがり、血も止まり、元の通りに再生されてしまったのだ。
 どうやら瓢箪の中身は、【黄泉離宮】の閼伽あからしい。
 遼玄は、いかにも勝ち誇った表情で、雲嶺火をめ据える。
洸燕坊こうえんぼうの仇を討ち、今度こそ娜月姫なつきひめのご遺体を神祇府に献上する。誰にも邪魔はさせん」
 そう云うや否や、遼玄は再び千剣差配し、周囲の人間を見境なく斬殺し始めた。討伐隊員も、群衆も、検分役も、次々と命を殺がれ、その都度つど、おびただしい血風けっぷうが吹き荒れる。
「なんたることだ……こんな、地獄絵図」
 放心状態で思わずつぶやく蕉允。寒胆かんたんし棒立ちになる。ここに来て到頭、蕉允隊長も、秦副長も、趙隊正も、昨夜、雲嶺火が話した〝夢物語〟を思い返し、愕然と目をみはっていた。
 どんなに信じたくなくとも、こうなっては最早、信じぬわけにいかない。
「まさか……あの与太話が、すべて真実だったというのか!?」
 青ざめた顔で、声を震わす蕉允隊長……不死身の殺手の、恐るべき人体再生術を目撃しては、さすがの鬼隊長とて脅威を感じずにいられなかった。雲嶺火は、さらに切迫した声で、蕉允に呪縛の解封を要求した。そうせねば、今度こそ娜月を、神祇府に奪われてしまう。
「蕉允、俺を信じろ! こいつさえ葬ったら俺は大人しく、この首くれてやる! だから、早く呪縛を解いてくれ! さもないと、お前ら全員、皆殺しになるぞ!」と、丁度、千剣に狙われた執行官へ体当たりし、身を挺して助けた雲嶺火が、あらん限りの声で絶叫する。
「クソッ……こんな、化け物! 貴様の力など、借りずとも、我々だけで凌駕してやる!」
 けれど強がる言葉とは裏腹、蕉允隊長は迷っていた。足元に剣が突き刺さっても、鋭い切っ先が頬をかすめても、まだ決心がつかずにいた。逡巡しゅんじゅんしながら、必死で千剣操術と渡り合い……だが、ついに彼のかたくなな心を動かす、決定的な事態が起きてしまったのだ。
 白銀に煌めく嵐を、懸命に己の段平刀だんびらがたなで振り払い、叩き落としていた秦副長が、疲労困憊のあまり、わずかな隙を見せた途端、ザックリと、片腕を斬り落とされてしまったのだ。
「ぐわぁあぁぁぁぁあっ!」
 凄まじい悲鳴とともに、大量の血が、蕉允の隊服に降りかかる。
「彪蕪!」
 部下の……とくに最も信頼し、親しい間柄であった秦副長の血で、より一層赤く染まった隊服に、蕉允は大きな衝撃を受けた。いや、それは瞬時に激しい怒り、復讐心へと転化した。
 鬼隊長が、まさに英断を下した瞬間だった。
「畜生っ……雲嶺火! 後ろを向け!」
 すかさず駆けつけた蕉允が、蛮声で雲嶺火にかく命じる。そうして、雲嶺火の後ろ手の縛めを……彼の禍力を封じている呪縛を、愛刀で一気に断ち斬ったのだ。頑丈な鉄鎖と聖者の遺髪をからめて編んだ、きつい縛めが解けるや、雲嶺火はただちに臨戦態勢を取った。
 鬼道術師の証『棘刺印』をひと撫でし、朱色に変じると、すぐさま鬼畜の召喚令を唱える。
來鬼呀ライグイヤ搭档ダァダン! 馬頭鬼マァトウグイ! 牛頭鬼ニウトウグイ!』
 すると雲嶺火の足元の影は、瞬く間に赤く染まり、膨張し、巨大化し、不気味にゆがんではうごめいた。まるで血の池地獄のように、ブクブクと、血生臭い瘴気しょうきの泡まで発生する。
 地殻すら変動させ、泥梨死門ないりしもんが開き……物凄い地鳴りが、周囲の討伐隊員をも圧倒する。
 そして、次の瞬間、誰もが我が目を疑うような、驚愕の事態が起きたのだ。
『『ヴオォオォォォオォォォォォオッ!!』』
 耳をつんざく雄叫び上げて、雲嶺火の朱影しゅかげから、凄絶な醜態の鬼畜が二頭、飛び出して来たのだ。説明するまでもなく、雲嶺火の子飼いの使鬼しき馬頭鬼めずき》と《牛頭鬼ごずき》である。
 しこうして、処刑場の群衆は、ますます上を下への大混乱となった。
 ただでさえ、手のつけられぬ大騒動に、拍車がかかってしまったわけだ。
 そんな中、雲嶺火は、さらに召喚令を唱え、続けざまに己の妖刀を朱影から出現させた。
鬼頭斎部流きとういんべりゅう断骨刀だんこつとう】!』
 住劫楽土じゅうこうらくどでも随一の長大さを誇る、鬼業を孕んだ魔剣『断骨刀』は、雲嶺火の手に収まるや否や、ギラリと殺意に煌めき、鋭利な冷光を放った。これにて、戦闘準備は万端である。
『馬頭鬼、牛頭鬼! 請消滅殺手チンジャオミエシャアショウ!』
 断骨刀の切っ先を遼玄へ向け、雲嶺火は獰猛どうもうな使鬼二頭に指図する。
 馬頭鬼と牛頭鬼は、すかさず主命に従い、遼玄へ襲いかかった。
 はちきれんばかりの筋肉を蠕動させ、長い怪腕を遼玄へと伸ばす、二頭の壮絶な殺気。
 だが不死身な上、無敵の千剣操術を修めた遼玄……いや、《ニセ遼玄》の殺手には、怖い物などなにひとつなかった。遼玄は一剣に乗って、宙へ舞い上がり、猛進して来る鬼畜二頭の攻撃を、悠々とかわした。それから、間髪入れず千剣を差配し、牛頭鬼と馬頭鬼の巨体を、白銀の光で、ズタズタの肉塊へと変えてしまったのだ。彼の凄まじい功力禍力くりきかりきは、周囲の逃げ遅れた野次馬だけでなく、治安部隊や非人、百鬼討伐隊をも圧倒した。不快な硫黄臭だけ残し、ドロドロと溶解しては、またも雲嶺火の朱影へ、つまり泥梨へ、強制送還される鬼畜二頭の醜態を、遼玄は鼻で嗤い、あなどりながら、軽やかに一剣から飛び降りた。
「相変わらず、役に立たん援軍だな。呼び出すだけ、禍力の使い損だろう」
 ところが、雲嶺火は自信に満ちた表情を、まったく変えずに云った。
「果たして、そうかな?」
 胡乱うろんな眼差しで雲嶺火を見る遼玄……その時、足元に何か異変を感じ、遼玄は瞠目どうもくした。
「な、なに!?」
 直後、遼玄の足首を、残された鬼畜の手だけが四つで、がっちりと押さえこんだのだ。
 慌てて振りほどこうとした揚句、体勢を崩して地面に倒れた遼玄。雲嶺火が号令する。
「隊長さん! 今だぜ!」
「云われるまでもない!」
 初めて隙のできた敵方へ、一散に走り出す雲嶺火と蕉允。
 けれど相手は、無敵と称して差し支えないほど、住劫楽土の数ある剣伎の中でも、抜きん出て凄まじい千剣操術の達人……決して油断はできない。現に雲嶺火と蕉允が気勢をそろえ、ともに不死身の刺客へ襲いかかろうとした途端、遼玄は恐るべき千剣差配を魅せた。
おん!」
 呪禁じゅごんに呼応し、さらに大量の光線が遼玄の背中の木箱から噴出。ザクザクと正鵠せいこくな円陣を描き、地面に突き刺さる千剣は、雲嶺火と蕉允を瞬く間に、そして完全に囲いこんでしまった。二人は急停止し、辛うじて千剣檻へ触れずに済んだが、陣内の捕虜と化したわけだ。
「畜生! またぞろ、この手に嵌まっちまった! 情けねぇったら、ありゃしないぜ!」
「一呼吸遅れたな! いや、立刀千派りっとうせんぱの体得者に、あんな子供騙しの手は通用せんか!」
「ふん、云ってくれるよな、隊長さん! あんただって、俺の策に乗っかったクセに!」
「煩い! いちいち他人の揚げ足を取るな! お前のせいで、余計な窮状を招いたぞ!」
 せまい円陣の中で、互いを罵り合う二人は、まるで古くからの友人のようにも見えた。
 しかし斜め上、四方八方から、浮遊したまま余った刀剣が、次々と二人を急襲。
 雲嶺火は断骨刀を、蕉允は鸛散大老派こうじゃんたいろうは円月水明剣えんげつすいめいけん』を駆使し、懸命に千剣を叩き落とし、難を逃れた。とは云え……これくらい遼玄にしてみれば、ほんの余興に過ぎないのだ。
 むしろ正念場は、これからである。
「次こそ、本番だぞ。二人とも、大いに愉しませてくれよ」
 すでに勝利を確信した遼玄は、余裕たっぷりに高笑いする。
 そも、立刀千派の操剣術師が、一度に差配できる刀剣の数には、限りがある。
 それは、術者の功力によって異なり、十本だったり、百本だったり……しかし遼玄の場合、優に五千本を越えようかという、膨大な量の刀剣を、たった一人で、やすやすと使役しているのだ。実に信じがたい、そして凄まじい功力の持ち主である。いや、禍力と云うべきか。
いずれにせよ、こんな形では絶対に、敵に回したくない相手であった。尤も、こんな状況は、体を乗っ盗られた《遼玄本人》が一番、悔しく……また、歯がゆく思っていることだろう。だからこそ、一刻も早く、この呪縛から〝彼〟を、解放してやらねばならない。
 ニセ遼玄は、そうした雲嶺火の、決意に満ちた眼差しなど、歯牙しがにもかけず、侮蔑的な笑みで悪相をゆがめている。直後、上空で旋回していた千剣が、雨のように降り始めた。
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