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『傷心』
其の六
しおりを挟む朴澣は一人、闇の中をさまよっていた。
冥暗の闇……まさに、そう表現するのがふさわしい、濃密で鬱屈とした闇だった。
そんな暗黒の世界に、ただひとつ、白く仄めく細道が、まっすぐに伸びている。泥梨へ向かう白道である。朴澣は、白道からそれぬよう、ただ一筋に目的地へ向かう。やがて朴澣は、白道の途中に、まるで蜃気楼の如く浮かび上がる不可思議な湖へ往き着いた。いや、それは大海ほどもあり、とても対岸など見えぬ、あまりにも茫々と広い水場であった。
墨汁のように黒い水の上を、赤い蛍が幽玄に群れ飛び、その上、鏡のように静謐な水面には、風もないのに波紋がいくつも広がり、そのいずれもが、人間の顔を象っていた。
湖畔に佇む朴澣は、波紋の中から、目指す人物を探り当てると、懐から出した笹の葉で精霊舟を作り、そっとその波紋まで流した。笹舟は、目当ての波紋の真上へ来ると、突然クルクルと回り始め、ついには沈没した。波紋も消え、水面はしばしの静寂をたたえた。
それから、四半時ほど経っただろうか。朴澣はしびれを切らし、到頭、声をかけた。
「水沫さん……『幻魔鏡』越しじゃあ、結局、なにも語ってくれなかったからねぇ。こうして、ワザワザここまで会いに来たんだ。まだ話してくれる気にゃあ、ならねぇのかい?」
さらに十分ほどの時間をおいて、ようやく目的の相手から、朴澣に返答が来た。
……私は、すでに泉下の者……今更、なにを云えましょう……
笹舟の沈んだ水面から、音もなく半身を出し、朴澣を恨めしそうに睨む人物とは、誰あろう楚白の実母『水沫の方』であった 【唯族(夜盲症の種族)】の美しい女御は、わずか二十八歳という若さで、黄泉の民となった悲劇の人物でもある。端整で柔和な白面、形のよい鼻梁、やや薄い朱唇、印象的な瞳などには、息子・楚白の面影が数多く見て取れる。
だが、大きな鳶色の瞳や、毛先にいくほど赤くなる黒髪などには、【唯族】の特徴も多く見られる。儚げな眼差し、頼りなげな細身は、さすがに息子とかなり差異があるものの、とにかく、よく似ている。朴澣は、そう思った。同時に、朴澣は水沫から、どことなく不穏な気配も察知し、当惑もしていた。全体的に優しげな風ではあるが、いや……ちがう。
朴澣は、人心を見抜く右の眼で、早くも水沫の本質に迫ろうとしていた。
「あんたの証言ひとつで、今度の仕事は、即解決なんだがねぇ」
朴澣は、昏い水面から現れた水沫を、怪訝そうに見やり、少し意地悪な物云いをした。
水沫は、やんわりと首を振り、だが断固とした信念を持って、こう答えた。
……何度、来られても同じです。私は、もうなにも、云える立場ではありません……
それだけ云い残すと、水沫は再び泉下へもぐり、ホンの少しの波紋を広げたきり、もう二度と、朴澣の前へ姿を現すことはなかった。朴澣は長嘆息し、ヤレヤレと肩をすくめた。
さて、そんな時である。落胆する朴澣の前に、意外な人物が登場したのは――。
……座長さん、珍しいのね。あなたがフラれるなんて……
「お! 琉衣! 琉衣じゃねぇか! 久しぶりだな!」
皆さんは覚えておいでだろうか。
『旅路の果て』で登場した【白風靡族】夫婦の妻女《琉衣》を……【緇蓮族】殺人鬼に夫もろとも死に追いやられ、恨みを晴らすべく朴澣の夢枕に立ち続けた、あの女幽霊である。
水面から軽々と、すっかり足まで飛び出した琉衣は、湖面をフワフワと浮遊している。
彼女の罪が軽い証拠だ。どんなにあがいても、黄泉の水鏡から、外へ出られない重罪人もいれば、頭だけ出せる者、半身だけ出せる者など……尤も、本人の意思によるところも大きいので、それだけで罪の重さを推し量るのは早計だが、大体はそんな仕組みなのだ。
また、霊感の強い者や、一部の鬼業者などの夢世界と、ここは連携しており、琉衣のように全身を水面から出せる者なら、直接、相手に語りかけたり、会いに往くことさえできるわけだ。ここは、いわば地獄の門、広大な冥界の、ホンの入口にすぎないのだから。
だがここで、朴澣はふと考えた。
〈いくら自害が重罪とはいえ、琉衣でさえ黄泉の真上になら、出ることが叶う……なのに、さっきの水沫は、半身だけで、それ以上は出て来ようとしなかった。何故だ? もし青耶の云うことが正しくて、本当に彼女が殺されたのだとすれば、なおさらだ。そもそも、壊劫穢土になんか、堕とされるはずがねぇ。これは、どうも……妙な雲行になって来たぜ〉
朴澣が、そんな物思いにふけっている内にも、琉衣は不可解そうに、質問して来る。
……あなたが、大嫌いな冥界にまで足を運ぶなんて、よほどのことがあったのね?……
泉下の者は、人心を読む力に長けている。朴澣は、ハタと我に返り、莞爾と答えた。
「啊……むずかしい問題でな。ある女を口説こうとしたんだが、しくじった」
琉衣は、入れ替わりに泉下へ去った美貌の女御を思い返し、さらに怪訝な表情で訊ねた。
……今の女、水沫さんじゃないの。自害してここへ送られたんでしょう?……
「だが、殺されたって証言もあるんだ」
……殺された……なら、どうして冥界に堕とされたの?……
琉衣も、やはり朴澣と同じ考えを持ったようだ。被害者が泥梨へ送られるということは、それ相応の落ち度が、被害者側にあったということで……云いかえれば、悪人なのである。
朴澣は苦笑し、煙草入れから取り出した如真煙管を、悠々吹かしながら、腕組みした。
「それが知りてぇから、ここまでワザワザ足を運んだのさ……ん? 待てよ?」
その時、朴澣の脳裏に、あることが閃いた。琉衣は、小首をかしげ、問いかける。
……なぁに、座長さん。神妙な顔して……
朴澣は快活に笑い、琉衣へこんな提案を持ちかけたのだ。
「哈哈哈、こいつぁ、我ながら名案だな! よぉ、琉衣。俺たちの一座に、加わる気はねぇか? 無論、只とは云わねぇ。一日でも早く転生できるよう、便宜を図ってやるぜ?」
……ほ、本当に? そしたら、龍樹と、もう一度、夫婦になれるの? 嘘じゃない?……
仰天し、期待に満ちた眼差しを向ける琉衣に対し、朴澣は力強く宣言した。
「一回こっきりの、まさしく〝幽霊座員〟ってことでな。頼むぜ、琉衣」
最初の内こそ冗談めかしていたが、最後には真摯な態度を示し、琉衣に依願する朴澣だ。
琉衣は琉衣で、『一日でも早く転生できる』という最高級の〝餌〟と、【鬼凪座】という役者一味が繰り広げる、奇想天外な芝居への好奇心も相まって、琉衣はこれを快諾した。
……幽霊座員だなんて、なんだか楽しそう。よろしくね、座長さん……
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