鬼凪座暗躍記

緑青あい

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『傷心』

其の七

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 珍しく静かな夜だった。
 連夜の責め苦で、蛍拿けいなの体調もすぐれなかったため、楚白そはくが、その夜の淫行をあきらめたからだ。楚白は居室の丸窓を開け、隙間から鳥篭離宮を見やり、大きなため息をついた。
 今宵は六斎日ろくさいにち。本来なら自戒して過ごすべきこんな夜でも、楚白の蛍拿に対する執着心は、一向に鎮まらなかった。無理やり体を開き、快楽に溺れさせ、自分以外見えなくする。
 その醜い思惑が、一夜でも欠けただけで、楚白は不安になるのだ。
 イライラと落ち着かぬ様子で、居室内を歩きながら、それでも目線は鳥篭離宮に向けられている。楚白は、鉄格子の間に見え隠れする蛍拿の姿を睨み、恨みがましく云い放った。
「何故だ、蛍拿……何故、俺を愛してくれない!」
 これを皮切りに楚白は、憤激を露にし、不可解な独り言をつぶやき始めた。
「いいや、あんな小娘……所詮は非人卑族ひにんひぞくじゃないか! 愛だの、恋だのと、くだらん!」
 楚白は、丸窓の前の文机ふづくえに座し、鳥篭離宮を見つめたまま、さらに云いつのる。
「だが、あの反抗的な態度……あれだけ可愛がってやってるのに、蛍拿は心底、俺を憎んでいる! このところ、少しだけ快楽に溺れ、大人しくなり始めたが、俺は騙されんぞ! きっと蛍拿は、なにか企んでいるにちがいない……それも、恐ろしいことを……畜生っ!」
 楚白の顔には、さまざまな懊悩おうのう煩悶はんもんが、垣間見えた。浮かんでは消え、浮かんでは消える愛憎、好悪、恋情と劣情……どちらが勝るか、延々とせめぎ合いは続いた。
「妻にしたところで、いつ寝首をかかれるか、判ったモンじゃないぞ……」
 楚白は急に弱腰になり、今にも泣きそうな表情になった。だが次の瞬間には――、
「ならば、もっともっと、きつく調教して、俺なしじゃいられない体に、作り替えてやる」
 楚白は含み笑い、強靭きょうじんな眼差しで、文机を叩いた。居室脇の隙間から、そんな楚白の様子を観察していた典磨老てんまろう……いや、夜叉面冠者やしゃめんかじゃは、呆然と彼の独語どくごを聞いていた。
〈この男……まさか、本気で蛍拿を愛しているのか? だとしたら、何故、あんな恥知らずな真似を……無理強いしたところで、逆効果なのは、判りきっているではないか!〉
 すると楚白は突然、文机に突っ伏し、声を震わせては、確かにこう云ったのだ。
「あの日のことさえ、なければ……蛍拿は、俺をこばまなかったはずだ! クソ!」
〈あの日のこと? 一体、なんのことだ? これは……調べてみる価値がありそうだな〉
 典磨老は首をかしげ、白い顎鬚をさすり、そんな風に思案した。
「蛍拿……蛍拿……けい、な……」
 やがて楚白は、卑族娘の名を呼びながら、文机で静かな寝息を立て始めた。
〈……眠ったか。まぁ、昼間は劫初内ごうしょだいで激務、夜は激しい淫行で消耗……疲れるのも当然だな。私も今夜は、ようやく静かに眠れそうだ。蛍拿も、穏やかに過ごせるだろう……だがその前に、先ほどの件を直接、本人から聞き出してみようか。『調香術ちょうこうじゅつ』を用いてね〉
 典磨老は、楚白が熟睡しているのをいいことに、彼を得意の惑乱操術わくらんそうじゅつへ貶めようとした。
 懐から小袋を取り出し、さまざまな色味の香粉こうふんを調合し、楚白に最適な匂いを作り出す。
 典磨老に扮した夜叉面は、楚白の居室へそっと入りこみ、丁度、彼が眠る文机の横に置かれていた香炉へ、調香したばかりの紫がかった粉を忍ばせる。やがて、香炉からは妖しい紫煙しえんが立ち昇り、楚白の寝息とともに、静かに、静かに、鼻腔へ吸いこまれていった。
 すると、次の瞬間、操術に長けた夜叉面でさえ、驚くべき現象が発生した。
「……るし、て……れ」
 小声で何事かつぶやいたのち、楚白は突然、立ち上がったのだ。
 部屋の中を、夢遊病者のように、フラフラとさまよい歩く。そうしながら楚白は、頭をかかえ、苦しげにうめき、蛍拿との愛憎に満ちた、忌まわしい過去の経緯を懺悔し始めた。

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 あれは、晩春の宵だった。
 桜花が散り急ぐ季節、親父殿に初めて狩場へ連れて来てもらった俺は、はしゃぎすぎて落馬し、利腕を骨折してしまった。その上、親父殿ともはぐれてしまい、困窮していた。
 そんな時、どこからともなく流れて来た竹笛の響きに誘われ、森の奥へ奥へと、俺は迷いこんでしまった。竹笛の物悲しい音色だけを頼りに、激痛をこらえ、歩き続けた俺の目前に、どこか懐かしくさえ感じられる、のどかな風景が現れた。だが、それも束の間――。
おい、大変だ! 皆、早く来てくれぇ!》
劫族こうぞくのガキが、虎挟とらばさみにかかったぞぉ!》
《俺たちの領域をまた、侵しに来たんだな!? そうはいかんぞ、国盗人くにぬすっとめ! ここは俺たちの土地だ! 貴様らが非人【卑族】と呼び、さげすむ、俺たち【納曾利人なそりじん】の支配地なんだ! これ以上、勝手な真似は許さん! 貴様は、嬲り殺しだ!》
 俺は、虎挟の罠に足を喰われ、動けなくなってしまった。さらにそこを、卑族の男たちに取り囲まれ、凄まじいまでの殺意に晒され、俺の命は、まさしく風前の灯だった。
 骨折のせいで、脇差を抜こうにも、激痛でどうにもならなかった。
 しかし、そう……あの時だった。蛍拿が現れたのは……当時はまだ十歳の、童顔だった。
《待って、あにさん!   この人、怪我してる!》
《蛍拿! 早くそこを、どきなさい!》
《御嬢! こいつは、我々の天敵【劫族】なのですぞ!? 怪我人だろうと、容赦はしない! これまで、無惨にも虐殺された、同胞の仇討ちだ!》
《まだ小僧とはいえ、相手は手負いだ! 見てみろ、あの小面憎い眼差し! 迂闊に近づくと御身が危うくなり申す! どうか、御嬢、聞き分けてください! 早くこちらへ!》
 革戦袍かわせんぽう鉄襦袢てつじゅばん槍矛やりほこや山刀で身をよろった野武士どもが、俺に近づこうとした蛍拿をたしなめた。でも、蛍拿はまったく動じることなく、逆に男どもを説き伏せようとしていた。
《怪我人や病人、弱ってる人には、たとえ相手が誰だろうと、慈悲をかけてやるのが【納曾利人】のおきてでしょう? この子、狩りの途中で、きっと迷いこんだだけなのよ。それに仲間を殺した【劫族】の大人たちと、この子は無関係だわ。ねぇ、助けてあげましょうよ》
 俺は正直、驚愕した。卑族なんてものは、人間以下の獣だと、親父殿や占学師せんがくし、劫初内の大人からは、耳が痛くなるくらい聞かされて来たからだ。なのに蛍拿は、周囲の男どもが止めるのも聞かず、【劫貴族こうきぞく】である俺を、恐れることもなく、俺の傷口に触れたんだ。
 虎挟に枝を差し入れ、華奢きゃしゃな細腕で強靭なバネをこじ開けようと頑張ってたな。場合によっては、卑族相手に最期の力で抵抗し、有終の美を飾ってやろうと考えていた俺の心に、不可思議な熱い感懐が湧き上がって来た。しかも卑族男は皆、彼女の云うことに従順だった。俺に刃先を突きつけ、いざという時の警戒こそおこたらなかったが、結局は蛍拿の好きにさせていた。そういえば、卑族の中には、蛍拿のことを『御嬢』と呼ぶ者もいたな。
『蛍拿』……彼女はきっと、旧国【納曾利】王朝時代の、高貴な身分……姫君なのだろう。
《蛍拿よ……困った奴だな。お前は【劫族】の恐ろしさを、まだ知らん。今、この男を助ければ、のちのちわざわいの種になるやもしれぬのだぞ?》
 ため息まじりに、そうつぶやいた男は、あとで知ったことだが、蛍拿の兄だった。そいつを始め、他の男たちも、しぶしぶ俺の怪我を手当てしていた。蛍拿は仲間に微笑んだ。
 戦々恐々と成り往きを見守る俺にも、無邪気な笑顔を向けて来たっけ。
《大丈夫。だってこの子、私とそんなに変わらない歳だもの。非道いことなんてしないよね。ちょっと沁みるけど、この薬湯やくとうで洗えばすぐによくなるわ。だから、怖がらないで》
 蛍拿は、ためらわず、俺の傷ついた右足首をさすった。続いて、俺の傷口に薬湯を注ぐ。
 少し沁みた。それでも俺の……卑族に対する……いや、蛍拿に対する思いは、だんだんと変わっていった。もう、彼女を〝非人〟だなんて侮蔑することは、とてもできなかった。
《蛍拿……お前の名は、蛍拿というのか》
 彼女は屈託なく微笑んだ。俺の胸を打つ、ぬくもりに満ちた笑顔だった。周囲の卑族九人からも、すっかり怒気は失せていた。すべては彼女が持す、不思議な徳の力なのだろう。
《ねぇ、あなた……誰と一緒に来たの?》
「お、俺は……俺は」
 散り急ぐ山桜の花弁、新緑に燃える森……いや、深紅にたぎって嘗め尽くす業火、おびただしい流血、怨嗟に満ちた目、断末魔の叫哭きょうこくとともに、美しい思い出は焼き尽くされた。
《お前なんか……助けるんじゃなかった》

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 楚白の独白を聞き、典磨老……いや、夜叉面は得心していた。
「なるほど、過去にそうした経緯が……つまり楚白の狙いは【戴星姫うびたいひめ】でなく、最初から、《蛍拿》自身だったのか。それにしても、あれでは完全に愛し方をまちがえている。憎悪を生むだけだ。この男は多分、他者から真っ当な愛情を、受けたことがないのだろう……」
 楚白は、つらい記憶に疲れ果てたのか、そのまま臥所ふしどへ倒れこんでしまった。夜叉面の心にも、楚白に対し少しだけ、哀憐の念がきざした。そこで、楚白の体に布団を掛けてやる。
 ところが、次の瞬間――、
「!」
 夜叉面は、慌てて次の間へ姿を隠した。『惑乱香粉』の効き目が、思いのほか弱かったらしく、いきなり楚白が目を覚ましてしまったのだ。まさに間一髪である。楚白は、冷たい寝汗をぬぐいながら、荒く息を吐き、暗くよどんだ目で、こんなことをつぶやいた。
「夢……あんな昔のことを……クソ!」
 楚白の発した怒声は、かすかに震えてさえいた。
「俺が命じたわけじゃない……親父が勝手に卑族の集落を……俺の、俺のせいじゃない!」
 楚白は掛布をはねのけ、頭をかかえた。かなり懊悩している模様だ。
「蛍拿は、俺を憎んでいる……だから、なんだ! 所詮は、非人卑族の小娘じゃないか! どうあつかおうと、主人である俺の勝手次第! 気に病むことなど、ひとつもないのだ! あれしきの怨言で、動揺するなぞ、俺としたことが……莫迦ばか莫迦しい!」
 楚白は、イライラしながら長袍ちょうほうを着つけ、居室を囲う蚊帳をめくった。
 乱暴に障子を開くと、彼の目前には美しい中庭が広がった。
 深池みいけの周囲に回廊を配した四合院しごういんは、夜明け前の薄闇におおわれ、寂寞せきばくとしている。
 しばしの沈黙……やがて、楚白は険悪に顔をゆがめ、うなるように云った。
「あんな小娘……なにを恐れることがある!」
 楚白は普段、起床とともに侍女を呼び、すべて人まかせにする作業を、黙々と行った。
 乱れた元結髷もとゆいまげもそのままに、簡単な身支度を整えると、慌ただしく居室を出た。
 彼が向かおうとしている先は、無論、鳥篭離宮である。夜叉面は慌てた。せめて今夜だけは、蛍拿に束の間の平穏を、与えてやりたかったからだ。そこで夜叉面は、急いで次の間から次の間へと移り、回廊を先回りし、楚白とすれちがうフリをして、彼に声をかけた。
「おや、若君……こんな時分に、どちらへ」
 しかし楚白は、夜叉面……いや、老家宰ろうかさい・典磨のことなど、まるで眼中になかった。
 完全に無視し、止めようとする老体を、突き飛ばすほどの勢いで歩を進める。
 楚白の視線は、鳥篭離宮……でなく、蛍拿しか見ていなかった。
 そこで夜叉面は、やむなく李蒐武官りしゅうぶかんに応援を要請したが、無駄だった。とにかく楚白の様子は尋常でなかった。最早、声をかけるのもはばかられるほど、不穏な気配をまとっていた。典磨老に扮した夜叉面は、かえって自分の惑乱操術が、楚白を突き動かす起爆剤になってしまったことを、今更ながら悔やんだが、後の祭りだった。心の中で、何度も蛍拿に詫びた。それでも、舞台は続く。演戯は続く。夜叉面はしゃがれ声で、こうつぶやいた。
「若君は、あの戴星姫に、魅入られたのではなかろうか。わしは、心配になって来たぞ」
 白髭典磨の懸念は、李蒐にとっても頭の痛い問題だった。
戴星印うびたいいん』を持すからとて、相手は所詮、非人【卑族】の小娘である。家名の徳を生すため、名ばかり妻にするのは結構だが、今の楚白は卑族娘に夢中だった。多分、彼自身は否定するだろうが、長年傍仕えする李蒐と、夜叉面だからこそ、判るのだ。断言できるのだ。
「若君は、あの娘と同衾どうきんするつもりじゃぞ。これは、名門董家とうけにとって忌々しき事態じゃ」
「うむ……同感ですな、御老体」
 白髭老爺と眼帯武官は、釣殿つりどの太鼓橋を渡る楚白を見送り、深刻な表情で長嘆息を吐いた。
 とくに、典磨老のため息は、李蒐以上に深く、長かった。
 二人はその後、一旦別れ、自分の居室に戻ったものの、夜叉面はまだ、悩んでいた。
 蛍拿を助けに往くべきか、否か……今までは、まだ楚白の悪戯半分で、終わっていた性技も、今宵は多分ちがう。結果的に、楚白の背中を後押ししてしまったのは、自分の失策である。かすかに楚白の怒声と、蛍拿の叫び声が聞こえる。必死で助けをもとめている。
「私は、どうすれば……ああ、座長!」
 板戸の隙間から、鳥篭離宮を見やり、夜叉面が独鈷杵とっこしょを手に、逡巡しゅんじゅんしていた、次の瞬間。
「……ぎゃあぁぁあぁぁぁぁぁあっ!」
 聞こえて来たのは、蛍拿の悲鳴……でなく、屋敷中にとどろくような楚白の絶叫だった。
「まさか、思いあまった蛍拿が……楚白を!?」
 典磨老は、慌てて回廊へ飛び出した。
 鳥篭離宮へ、ジッと目を凝らす。すると夜叉面は、そこに信じられない光景を目撃した。
 鳥篭離宮の中に、三人いる! 蛍拿以外に、女がもう一人だ!
「あれは……まさか、水沫みなわかた……ではない! あれは……あれは、る、琉衣るい殿!?」
 さすがに鋭敏な夜叉面は、女の正体に気づいた。けれど、【白風靡族はくしびぞく】の彼女が、自慢の白髪を赤黒く染め、【唯族ゆいぞく】風に装いつつ、そこにいる理由が判らず、混乱していた。
 そこへ、騒ぎを聞きつけ驚いた李蒐武官も、再びすっ飛んで来た。
 息を切らしながら、典磨老に問いただす。
「御老体! 今の声は……一体、何事です!?」
「い、いや……判らん! 鳥篭離宮からのようだが……啊、若君!?」
 鳥篭離宮から、転がるように飛び出して来たのは、楚白だ。頭をかきむしり、髪を振り乱しては、ドタドタと太鼓橋を駆け、意味不明な言葉をわめき散らしている。すぐに他の家臣も集まって来て、皆で若君を押さえようとするが、楚白の乱気は鎮まる気配がない。
「あぁあっ……母上ぇ! どうしてだぁあ! 今になって俺を、恨んで出たのかぁあ!」
「若君! どうか、落ち着いてください!」
「もう大丈夫ですよ! 我々がついていますよ!」
く、誰か侍医じいを呼べ! これは只事でない! 急げよ!」
 夜叉面も、典磨老家宰として、必死で楚白をなだめるそぶりを見せつつ、その合間にふと視線を鳥篭離宮へやった。しかし、すでに琉衣の姿はなく、そこにはただ半裸の蛍拿が、六角釣殿の太い支柱にもたれかかり、痛ましいほど震えながら、声を殺して泣いていた。
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