鬼凪座暗躍記

緑青あい

文字の大きさ
7 / 125
『鬼憑き』

其の七

しおりを挟む
 
 夜の白み始めた天凱府てんがいふ東方持国区弥陀門町とうほうじこくくみだもんちょうは『茂埋宿もたりじゅく』外れ。
 民家のほとんどない森陰に、ひっそりと小さな社殿が建っている。
 朽ちて寂れて草棘そうきょくはびこる境内は、数日前、元宮廷料理人の惨殺死体が発見されてより、参詣する者がめっきり少なくなっていた。鬱蒼と生い茂る木々の風、枝葉を揺らす鳥、闇中やみなかですだく虫の声音が、やけにうるさく感じられるほど、辺りは閑散と静まり返っている。
 そんな暗い森陰に一人佇む男。辺鄙な荒れ寺には場ちがいな、長袍ちょうほう礼服姿が清雅な男だ。
 縹色はなだいろの絹衣がよく似合う、高家出身の青年官吏風で、腰帯には玉佩五条ぎょくはいごじょうを提げている。
 この男、眉目秀麗な白面はくめんだが、先刻、聖戒王家せいかいおうけを訪れた『ニセ中将』の使鬼しきに、そっくりだった。いや、彼こそ本物の《羽曳里中将はびきりちゅうじょう》なのだ。
 彼は周囲を気にしつつも、ここである人物を待つ間、深沈と物思いにふけっていた。
 文月の沙羅に負けまいと、季節外れの狂い咲き。舞い散る桜花が呼び覚ます夢……それは、劫初内ごうしょだい後宮百花苑こうきゅうひゃっかえんで催された、春の園遊会での、甘く忌まわしい記憶であった――。

『まさか、そのようなことが……いや、きっとやまいが云わせた他愛もない妄言。美甘殿みかもどのお得意の、悪巫山戯わるふざけに相違ない。そうだ、莫迦莫迦ばかばかしい。案ずるに及ばぬ。早く忘れよう』
 劫初内『巽区せんく』の目抜き通りを、網代あじろの御所車が往く。
 内舎人うどねり十五の小行列が、おごそかに進む穏やかな純乾じゅんけん、桜花舞い散る宵の口。
 恋火月れんかづきの仄白い灯が、皓々と差しこむ網代車の中におわすのは、武礼冠ぶらいかん黒紋絽くろもんろの式服をまとった青白い顔の美青年……鼻筋の通った端整な白面を、憂いにかげらせ、うつむくのは、禁裏近衛府きんりこのえふ聖武師団しょうぶしだん』の羽曳里中将である。
 園遊会からの帰途、彼はずっとふさぎこんで、先刻、宴の最中で交わした、婚約者・美甘姫とのやり取りを、悶々と思い返していた。
《……羽曳里殿、すまぬが此度の婚儀、わらわは受け容れるわけにまいらぬ。何故ならば、わらわにはすでに、これと決まった夫がおわすのじゃ。これがあまりに嫉妬深いので、わらわもホトホト困っておる。わらわに近づく男は、誰でもかまわず喰い殺すとな、牙をむき、角を出しては怒るのじゃ……》
 愛くるしくも、童女の如き残酷さを発揮して、深池みいけ宝魚ほうぎょに、手折った枝を突き刺す美甘姫の笑顔……車付きの従者がかかえる玻璃はり手水鉢ちょうずばちで、小さな水音を立てた翡翠ひすいの宝魚。
 はがれかけた鱗で、煌々と月光をはじく。
『くだらん。悩むほどのことか? 相手は姿こそ天女の如き美姫びきではあるが、七つの童女となんら変わらぬ憐れな病持ち。しかも聖真如族せいしんにょぞく《聖戒王家》の、れっきとした血筋……』
《……わらわが七つの時分より、決まっていた婚礼。今更こばむことはできぬ。ととさまは、ついに認めてくれなんだが、うに結納まで交わした仲じゃ。二世にせの契りをかさねるは、不義に当たるゆえ、羽曳里殿には是非とも身を引いて頂きたい。さもなくば、あなたさまのお命に関わりますぞ。わらわの夫は、いささか気性が荒い……》
 まなじりを朱に染め、夢見心地でつぶやく美少女。
 大輪の牡丹が咲きこぼれる垣根で、人目をはばかり、美甘姫の細腰をつかんだ羽曳里。
 帯を解く手をスルリとかわし、美少女は悪戯っぽく微笑んだ。
 たなびく領巾ひれからは、気高く薫る沈水香ちんすいこう。薄紅色の花弁が、艶姿を散らす。
 美甘姫は魅惑的にうるんだ瞳で、何故か常々両掌りょうてのひらをおおい隠す、白い手套しゅとうを脱ぎ捨てた。
 露になったのは、恐るべき負の烙印。 邪気を孕んだ、禍々しい逆神璽ぎゃくしんじ卍巴鬼業印まんじどもえきごういん】だ。
《……羽曳里殿、とくとご覧なされ。この通り、固く契り交わした証もある以上、是非もない。壊劫穢土えこうえどより嫁取りに遣わされた家臣五人が、いつでも目を光らせておるゆえのう。一角が【卒塔婆鬼そとばおに】、二角が【嬲夜叉うわなりやしゃ】、三角が【月垢離般若つくごりはんにゃ】、四角が【刃顰羅刹はじかみらせつ】、そして筆頭の角無しが【神々廻不動ししばふどう】……わらわを【卍巴四鬼神まんじどもえしきじん】への奉げ者にするため、不貞を働かぬよう、見張っておるのじゃ。ホレ、今も炯々けいけいと、そなたを睨んでおりまするぞ……わらわの影の内にてのう。泥梨ないり五殺鬼ごさつきは、執念深いぞえ……》
『しかし、言は左右にできたとて、あの左掌ひだりてのひらの卍巴鬼業印……悪巫山戯にもほどがある! いや、あれは描いた物ではなかった。入れ墨でも、焼きごてでもない。掌の内側に埋めこまれたかのような……一時の悪戯で仕掛けたにしては、あまりに巧緻な細工であった。だが〝鬼憑おにつき〟だなぞと……いや、やはりあり得ぬ。そも、あの娘が気狂いの性質たちであることは、承知していた。狂れ病くらい、聖戒王家との婚姻関係を結べるなら、大したことでない。所詮、美甘は出世のための道具、ねやで愉しむための玩具にすぎんのだ。そう割りきっていたが、もしも本当に、鬼憑きであるならば……話はちがう』
 羽曳里中将の人知れぬ煩悶は、果てもなく、堂々めぐりであった。高家姫君の気まぐれ、単なる酔狂であって欲しいという密やかな願い……裏腹に、だんだん増幅する疑念と脅威。
 どちらが勝るか、苦悩は続いた。
 そんな時である。
 巽区北方『八象聖地はっしょうせいち』付近の森陰に差しかかった行列の前を、妖しい影が横切ったのは。
 なんとその影……大胆にも御所車の往く手をさえぎり、往来の真ん中に、どっかと腰をすえては、呑気に香炉を焚き始めたのだ。
「無礼者め! 禁裏近衛府が中将君の御所車と、知っての狼藉か!」
「えぇい、邪魔だ! 疾く、どかぬか!」
「それでは手ぬるいぞ! 斯様な不届き者、有無を云わさず成敗してくれる!」
「覚悟はよいか! 物乞い道士め!」
 先頭の家臣団が気忙しく抜刀し、取り囲んだ相手は襤褸蓬髪らんるほうはつ、薄汚い《光明道士こうみょうどうし》の成れの果てであった。少しも動じず、黒檀こくたんの線香をくゆらせ、真言諷経しんごんふぎんしながら鉦鼓しょうこを打つ。
 家臣団の激昂を鼻で嗤う道士の不遜な態度は、豪胆と云うよりむしろ狂気の沙汰である。
「つまらぬ下郎など捨ておけ。迂回すればすむことだ」と、御簾越みすごしに家臣団をいさめる羽曳里だったが最早、勢いこんだ若武者の収まりはつかない。
 挑みかかる家臣団の土埃が巻き上がり、血風けっぷう吹き荒ぶ惨劇はまぬがれぬ状況となった。
 元々血生臭いことを嫌う羽曳里は、ため息まじりに、決着がつくまでの、ほんのしばしの間を待った。ところが、悠然と線香をかざした物乞い道士。
 不気味に伸びる黒烟こくえんが、次々と小さな黒い竜をかたどっては、自ら揺らぎ出したのだ。
 すると小さな黒竜は、道士に差配されるまま、押し寄せる家臣団の吸気へ、すぅっと忍び入った。黒竜香こくりゅうこうが侵入した途端、肉薄する家臣団の動きは、ピタリと止まってしまった。
「どうした? もう、すんだのか?」
 御所車の外は、水を打ったような静けさだ。
 家臣の怒号も、道士の悲鳴も聞こえて来ない。
 網代から外をのぞこうにも、辺りは異質な闇に閉ざされ、一寸先すら見えぬ有様だ。
 今までにない緊迫感、不穏当な空気が、すでに羽曳里の載る御所車を完全包囲している。
 そして、玻璃の手水鉢が砕ける音が響き渡り、羽曳里は咄嗟に、網代の御簾を蹴破った。
「……きっ、貴様らぁ! これは一体、なんの真似だぁ! よもや、トチ狂ったのかぁ!」
 絶叫した羽曳里の眼前には、なんと常軌を逸したやぶ睨みで、滂沱ぼうだの血汗を流し、凶刃を御所車へ向ける、家臣一同の狂態があった。
 地べたであえぐ宝魚同様、息も絶え絶え酸欠状態で、小刻みに震える十五人の異様な姿。
 その背後では、黒線香から新たな黒竜を生み出し、《光明道士》が満足げに嗤っている。
「……おのれ! 怪士あやかしめ! 我が家臣団に、なにをしたのだ! ただではおかぬぞぉ!」
 白刃を抜き、飛び出そうとした羽曳里だが、己の家臣から容赦ない攻勢を受けて、後陣の奇怪な物乞い道士に、近づくことさえ叶わぬ。
 皆、道士の傀儡術かいらいじゅつに堕ち、正気を失ったのだろう。
 とにかく、誰も彼も尋常ではなかった。
 さすがに、住劫楽土式武術じゅうこうらくどしきぶじゅつ五輪ごりんひじり】級の達人兵法者である羽曳里も、己の家臣を手にかけることははばかられ、進退窮まった様子で十五人と睨み合う。孤立無援で切迫する。
 そこへ突如、横合いから加わった新たな男声が、刺々しい舌鋒ぜっぽうで、いさかいを制止した。
「早まりめされるな、羽曳里殿! 名にし負う禁裏近衛府『聖武師団』の中将たる賢君が、斯様に取り乱すとは、見苦しいですぞ!」
 小癪な口を利いたのは、《勃嚕唵道士ぼろんどうし》姿の色黒髭面男であった。
 直後、胸の鉦鼓を一打した光明道士。甲高い叩音こうおんを合図に、家臣団は糸が切れた操り人形の如く、バタバタと一斉に意識を失い、くずおれてしまった。
 同時に、周囲の森陰から続々と姿を現したのは、他十人の道士。通常、邪鬼や悪霊祓いを生業とする【十二道士】の面々が、妖術を用い勢ぞろいして不埒な悪行に出るとは、呆れて開いた口がふさがらぬ。円陣を組む十二道士は、喜色満面である。
「貴様ら……何者なのだ! ただの道士ではあるまい! 正体と、蛮行の目的を明かせ!」
 すると、前へ進み出た《霊命道士れいめいどうし》が、菅笠すげがさの垂れ布を外し、羽曳里をさらに震撼させた。
「久方ぶりだな、鳳太子ほうたいしわしだ、峻鸞しゅんらんだ。養父母の元、立派に成長し、出世したからとて、よもや実父を、忘れてはおらぬだろうな?」
 柔和で上品な壮年の男は、驚くほど羽曳里に面差しが似ていた。
 青白く頬がこけてはいるが、目鼻立ちの整った端麗な顔は、上臈じょうろうの紳士然としている。
 それも道理、霊命道士に身をやつした羽曳里の実父は、劫貴族こうきぞくの元高官。
 十年前、聖戒王に鬼憑き嫌疑をかけられ失脚した、当時の左右衛大臣そうえだいじん憲武王けんぶおう》なのだ。
「……そ、そんな莫迦な……父上! あなたは十年前、流刑に等しい左遷先で、自害し果てたはず! それとも私は……夢を見ているのか?」
 混乱して、刀を取り落とす羽曳里中将。
 息子の成長ぶりに、目を細める峻鸞太傳しゅんらんたいふは、穏やかな口調で今一度、彼の幼名を呼んだ。
「鳳太子よ。死んだというのは、世間の目をあざむくための嘘だ。儂はこの通り、元気に生きておるぞ。そして今では、儂を見捨てた【真諦教しんたいきょう】に見切りをつけ、こちらにひかえる【降魔教道士がまきょうどうし】のお歴々と、行動をともにしておる」
 後方の【降魔教】道士十一名は、羽曳里中将に敬意を表し、拱手こうしゅで礼を尽くしてみせる。
「嘘だ……こんなこと、信じられない! 何故ですか、父上! 【降魔教】は禁忌の邪教として、神祇府じんぎふから激しい弾圧を受けている最中です! 彼らの教義は、はっきり云って危険思想だ! それを承知で父上は……いいえ、なにより、あなたがニセ者でも、幻でもないなら、しかと真意のほどを仰ってください! 今になって何故、斯様に横暴なふるまいを? 今更、私に……なんの用があるのです!」
 困惑する息子に対し、峻鸞太傳と【降魔外道ごうまげどう】が告げたのは、驚くべき謀略だった。
 散り急ぐ桜花の下でこの夜、十年ぶりに再開を果たした父と息子。さらに、謎めいた降魔道士との邂逅。これがのちのち、悲劇の火種になるとは誰知ろう。
 そしてこと、ここに到る。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

旧校舎の地下室

守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。

愛しているなら拘束してほしい

守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。

処理中です...