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『五悪趣面』
其の五
しおりを挟む彼女も到頭、気が狂れてしまったらしい。
暴走を始めた真志保は、白檀香の代わりに死臭をまき散らし、脇目もふらず疾駆した。
何度つまずいても転んでも、木々にぶつかり出血しても、彼女は決して立ち止まらなかった。髪は乱れ、衣服は破れ、傷だらけの真志保は、なおも足疾鬼の如く驀進し続けた。
そして気づけば真志保は、いつの間にかまた、最初の閻魔堂へと戻って来てしまっていた。
夜霧の中、どこをどう走ったのか……呆然と佇む真志保の横に、同じく雄叫びを上げた允蕉慙が、奇声を発して楊匡隼が、凶器をふるって怨言わめき散らし火伏せの玄馬が、怒号にまみれた血を吐きつつ三界薬師の爾圭が、一斉に元の閻魔堂へと舞い戻って来たのだ。
再び、一堂に会した五人……彼らは、互いの醜悪な鬼面を目にするや、いよいよ狂気を露にして、凄まじい殺意を燃え上がらせた。そこに集まった者たちは、最早人でなく、悪心みなぎる憤怒相の、《五殺鬼》そのものであった。
「おのれぇ、貴様ら幽鬼のたぐいであったか!」
「邪鬼どもめぇ! 地獄へ叩きこんでやるぅ!」
「今度こそ全員、息の根を止めて殺るぜぇぇ!」
「よくもたばかりおったなぁ! 覚悟しろぉ!」
「薄汚い鬼畜外道! 死ぬのはお前たちよぉ!」
偸盗鬼面が短刀で、殺生鬼面の脇腹をつらぬき、妄語鬼面の段平刀が、邪淫鬼面を胴斬りにする。飲酒鬼面の解体刀が、妄語鬼面の咽を裂き、殺生鬼面の投げ手斧が、飲酒鬼面の頭を潰す。そして邪淫鬼面の偃月刀が、偸盗鬼面の首を断つ。
まさに一瞬の殺戮劇であった。
五悪趣の鬼面をかぶった人非人は、闇の声に操られるまま、互いの命を奪い合ったのだ。
六斎日、鬼灯夜の閻魔堂。
静まり返った境内には、折りかさなり憤死する五屍骸と、酸鼻な血の海ばかりが、赤々と広がっていた。思わず、目をおおいたくなるほど、非業の死をとげた五人……そんな惨劇の直後、閻魔堂の板唐戸が開き、中から怪しい人影が姿を現した。
「始末がついたようだぜ、朴澣」
「存外に上手くいったな。拍子抜けだ」
「なにを云うか。すべては、有能な座長の筋書き通りじゃろう? そう、謙遜するな」
『吾も今回は、随分と働かされたな……』
「まぁ、一番の功労者は、この私ですがね」
呑気に談笑しつつ、高欄下の惨状を一望する本物の五殺鬼は、【鬼凪座】の面々である。
今回もやはり、裏で糸を引いていたのはこの五人だった。
それぞれ得意の扮装で筋書き通りの演戯をこなし、己の役どころを語り始める。
「允蕉慙……この男は、私がかぶせた崔劉蝉の面に倉皇した挙句、正気を失いました」
黒地道服に銅鏡を提げ、深紅の蓬髪を夜風になびかせる《夜叉面冠者》が、ヤケに無感動な声音で云う。自身も、禍々しい鬼面で素顔を伏せ、頭から自前の彎曲した二本角を突出させる、面打ち師の青年は、五人の顔から手造りの五殺鬼面を、黙々と回収していく。
「楊匡隼……あいつ、妻女に化けた俺を、本物の亡霊と思いこみ、自滅しちまったよ」
巡礼姿の女形《凛華》に扮し、死者を嘲嗤う性悪美男子は《夜戯れの那咤霧》だ。諸肌脱ぎの白皙に『観音経』を彫る【穢忌族】の喝食行者は、声色づかいも巧みな詐欺師だ。
「火伏せの玄馬……こいつぁ、俺の埋めた鬼宿木に侵され、傀儡になって地獄逝きさ」
黒地腹掛け股引に、藍染め単衣を着、派手な大ぶり継半纏をはおった悪相琥珀眼の【鬼凪座】座長《癋見の朴澣》は、煙管から紫煙をくゆらせ、長嘆息する。鬼宿木【手根刀】を自在に操る監督兼演出家は、仕上げがいささか不本意な様子で、眉をひそめている。
「三界薬師の爾圭……爺さん、儂の酒毒に頭をヤられ、幻惑の虜となり、果てたわい」
瓢箪酒を豪快にあおる《一角坊》は、十文字槍をたずさえ、垢染みた直綴墨衣をまとう破戒僧で、赤い酒川の仕掛け人である。【巫丁族】特有の、鋭利な一本角をさする有髪無精髭の酔いどれ坊主は、座長とは真逆で芝居の出来栄えに大満足。喜色を浮かべている。
『狐火の真志保……女を脅すのは気が退けたが、平常心で吾に臨める者は、少ない』
身の丈八尺強、柘榴状の複眼を持し、全身黒光る獣毛におおわれた《顰篭めの宿喪》が、獰猛な獣声でうそぶく。閻魔の扮装を解いても、圧倒的存在感を誇る恐ろしい半鬼人だ。
「しかし皮肉なモンじゃ喃。まさか本物の五殺鬼が、五悪趣に取り憑かれた人非人を、断罪する破目に相なろうとは……哈哈哈!」
血生臭い沈鬱な空気に、一角坊の場ちがいな笑い声が響き渡る。
朴澣が、そんな無神経な彼を肘で突き、背後の閻魔堂を振り向いた。
すると奥からもう一人、小柄な少年が登場した。いわば今回の主役、依頼人である。
しかも彼は、最初に石段下で真志保に応対し、閻魔堂まで案内した上品な若沙弥だった。
胸には例の中将面をしっかりと抱き、当年十五のにわか僧侶は、深々と五人に低頭した。
「どうだい、蝉丸殿。仕上げは、こんな具合だが……ちょっとは満足してくれたかい?」
色ちがいの凶眼をキラリと光らせ、朴澣が意地の悪い質問を投げかける。
だが若沙弥は、清廉な面立ちに憂いのかげりを差して、狂気にゆがんだ死相を浮かべる五遺体に、固く合掌した。
暗い表情で項垂れる《蝉丸》を、胡乱な眼差しで見やる那咤霧、一角坊、宿喪の三人。
朴澣と同じく、若沙弥の胸の内を悟った夜叉面冠者だけが、五殺鬼面を得意の火焔術で、蕭やかに葬った。五悪党へ手向けの送り火だ。
蝉丸は瞑目し、感情を抑えた口調で淡々と、残酷な最期をとげた父母の過去帳を綴る。
「ことの発端は、我が父・劉蝉が女掏摸に、重要な事件資料を盗まれたところから始まります。この失態を同僚の悪意で讒訴され、母・凛華に邪恋する欲心判官によって貞操と名誉を穢され、牢屋敷で自暴自棄になった父は、破落戸に刺された挙句、酒乱医師の過失から死地へと追いこまれてしまいました……当事五歳の遺児を引き取り、これまで育ててくれた父方縁者から、その臨終間際、父母の死の真相を聞かされた私は、復讐の鬼と化したのです」
うるんだ赤目を開き、あらためて閻魔堂下の五遺体を確認した若沙弥は、苦渋に満ちた表情で、胸の白面を抱きしめる。彼はこう続けた。
「しかし……いくら父母の仇討ちといえども、私は贖いきれぬ大罪を、犯してしまいました。勿論、【鬼凪座】の皆さまには、とても感謝しております。いいえ、私勝手な復讐劇に、皆さまを加担させたこと……申しわけなく思っております。でも、復讐なんてまちがっていた……ここで皆さまを待つ間……父の泪を見て、そう悟ったのです」
若沙弥の胸の中、大切に抱かれた崔劉蝉の白面は、その空ろな瞳から、透き通った一筋の雫をこぼしていた。ただの夜露と、云ってしまえばそれまでだが……息子には痛いほど、父の思いが伝わって来た。生前の父が、高名な面打ち師に造らせた分身は、息子の荒んだ五悪趣の大罪を嘆き、泪を流していたのだ。
朴澣は、黙祷を奉げる蝉丸の横顔から、苦しい真情を察し、肩を叩いて穏やかに告げた。
「とにかく、俺たちぁ手間賃だけの仕事は終えたからな。そろそろ姿をくらますぜ。あとは、あんた次第さ。どうするね、蝉丸殿。にわか坊主にしちゃあ、その姿……なかなか似合ってるじゃねぇかい」
ハッと顔を上げた若沙弥は、【鬼凪座】の頭目が与えてくれた戒名の意味を、あらためて慮った。美貌の右半身と裏腹、醜く糜爛した左半身に琥珀の凶眼と、身形こそ鬼業に穢され、怪士染みているが、彼の奥深い至心に感動すら覚え、若沙弥は再び謝意をこめて一礼した。
「ありがとうございます、朴澣さま。私はこれから真の僧門に入り、父母の菩提を弔うとともに、贖罪の日々を送って往きたいと存じます。あなたさまから授かった戒名《蝉丸》も、ありがたく頂戴致します」
弱冠ながら怜悧で大人びた少年は、決意も新たに、【鬼凪座】の五人へうやうやしく頭を垂れた。床板に彼の泪が一粒、二粒と落ちる。
すると蝉丸の胸の中で、不可思議な現象が起こった。
父・劉蝉の白面が、自然とひび割れ、ぽろぽろと崩れ始めたのだ。
分散した白面のカケラは、青白い燐光を放って宙を舞い、無数の蛍火へと変化する。
まるで息子を、復讐の呪縛から解き放つように、蛍火へと転生した父・劉蝉……蝉丸に見送られ、煌々と群舞する蛍火は、やがて夜霧の中へ溶けこんで往った。
宿怨を昇華させたのか……あるいはこれも、【鬼凪座】の絡繰が一手なのか。
確かめる間もなく、ハタと気づいた蝉丸が、周囲を見渡した時、すでに【鬼凪座】の鬼業役者五人組は、忽然と姿を消していた。まさに、雲散霧消……いや、夢幻泡影である。
あとには、罪深き死者を弔うが如く、啾々たる鬼哭だけが、連綿と木霊していた。
さて、ここで後日談を語っておこう。
翌朝、寺男に発見された五人の死骸は、天凱府に大騒動を巻き起こした。
まったく見ず知らずで、関連性のカケラもなく、階級も、血統も、職業も、異なる五人の男女が、謎の相対死をとげたのだから、口さがない都人の話題は、しばらくこれで持ちきりだった。だが、人の噂も七十五日。刑部省役人による再三再四の捜査にもかかわらず、怪事件の真相は闇から闇へ。無論、若沙弥や【鬼凪座】の形跡も、綺麗さっぱり消えていたため、結局、事件は迷宮入りとなったのだ。
しかし人々の記憶から、怪事件の顛末が消えかかった十年後の厳冬……深雪におおわれた魄船山閻魔堂、裏手の龕洞で、美貌の若い僧侶が五穀断ちのすえ、即身仏となった。
侍僧の口伝によれば、《蝉法師》と名乗る僧正の鈴は最期、確かに五回鳴ったという。
『五悪趣面』完
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