鬼凪座暗躍記

緑青あい

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『食女鬼・前編』

其の壱

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 住劫楽土じゅうこうらくどの首都天凱府てんがいふでは、いつの頃からか、北方多聞区八椚宿たもんくやくぬぎじゅく夜仏深山よぼとけしんざんにまつわる、こんな童謡わざうたが唄われるようになった。

《……夜仏山の朱牙天狗しゅがてんぐ
   菊花殿きっかでん美姫びき懸想けそうして、
   鬼女とは知らず夢現、
   功力くりきを失い夜魔やまと化す……》

 名刹古刹が数多くひしめき、巡礼地としても名高い『夜仏山』は、今や入山禁止の忌地いみちと成り果てた。今回は、そうなってしまった経緯をお話しよう。

『……おん阿謨伽あぼきゃ尾嚧左曩べいろしゃのう摩訶母捺羅まかぼだら摩抳まに鉢納麼はんどま入縛攞じんばら鉢羅韈哆野はらばりたやうん!』
 火の粉舞い散る護摩壇の前で、加持祈祷を行う怪しい修験者。丹朱の天狗面をかぶった男は、白幣束しろへいそくを左右へ切って、一心不乱に【光明真言こうみょうしんごん】を唱えている。
 護摩壇の向こう側、御簾みすに隠れた帳台ちょうだいの中では、妊婦とおぼしき腹のふくれた女が、苦痛にあえぎ、のた打ち回っている。
『……唵、阿謨伽、尾嚧左曩、摩訶母捺羅、摩抳、鉢納麼、入縛攞、鉢羅韈哆野、吽!』
 しきみの神木から抽出された香粉を、護摩木とともに火中へべ、不気味な光烟をくゆらせる。孕み女は、その匂いを嗅ぐや、いっそう激しく身をよじり、押さえつける侍女四人を振り払う。
 女が身ごもっているのは、赤子ではなかった。全身を痙攣させ、血の汗を流し、七転八倒する女の股間から、黒光る奇怪な物体がすべり堕した。
 それは鬼憑き女が身の内に宿すという、【鬼蛭子おにびるこ(できそこないの鬼子)】である。
「侍女殿! く、退がりなさい!」
 邪鬼の嫌う樒香と、光明真言、さらに先刻呑ませた閼伽あかが効き目を発揮して、鬼憑き女の胎内から、ついに鬼子を追い出したのだ。
 天狗面の修験者は、すかさず帳台に乗りこんで侍女たちを追い払うと、不気味にうごめく巨大蛭へ魔除けの赤い『焼緋塩しょうひえん』をまぶした。
「ぎゃああぁぁぁああぁぁぁぁぁぁあっ!」
 鬼憑き女は、凄まじい叫哭きょうこくを放ち失神。
 黒蛭は、濛々と瘴気を吐いて溶解した。
 修験者は、臥所ふしどへ黒々残されたシミを閼伽で念入りに洗うと、ようやく安堵し振り返った。
 護摩壇越しの板張広間に、詰めかけ見守る家臣団の前で、天狗面の修験者は宣言した。
「さて、皆さま……これにて、姫君の鬼難きなんは遺恨なく、取り除かれ申した。あとは、樒葉の薬湯風呂で、くまなく全身を洗い清め、四日の間は絶対安静。お食事も、酒や肉など使わぬよう心がけ、日に三度は必ず、閼伽を呑ませて差し上げてください。それと、この謁見の間は、方角がよろしくありません。すぐに取り壊して、姫君は陽当たりのよい南側の部屋へ、うつすことをおすすめ致します」
 天狗修験者の言葉に、いかつい家臣団は平伏し、深々ふかぶかこうべを垂れた。
 侍女や閹官えんかん内舎人うどねり一同、天狗修験者へ、拱手こうしゅで礼を尽くした。
「ありがとうございます、朱牙天狗さま! 霊験あらたかなる御祈祷、我ら家臣一同、感服仕りました! お陰で、皇帝陛下御寵愛の、大切な楓姫かえでひめさま御身から、つつがなく鬼業きごう祓いを終えることができ申した! 一同、心より深謝致します!」
 広間に居並ぶ家臣団が、一斉に額づいた。
「どうか、御聖人! 今宵はゆるりと、この【後宮菊花殿】にて、おくつろぎ頂きたい! 我ら心をこめて、精一杯のおもてなしをさせて頂きます! 貴殿は命の恩人ですゆえ!」
 白髪の閹官筆頭《宋寮部そうりょうぶ》に押し留められ、天狗面の修験者はお言葉に甘え、一泊逗留させてもらうことにした。
 早速、居室へと案内される。
《朱牙天狗》なる異名を持す彼は、はるか北方多聞区八椚宿の『夜仏深山』より訪れた高名な修験者である。邪鬼祓い鬼難除けの霊験あらたかな加持力を持し、鬼憑き妾妃の苦境を救うため、【劫初内ごうしょだい(国政中枢機関)】の後宮四舎がひとつへと、昨晩入城したのだ。
 皇帝に仕えるため、数千人もの美姫が集められた桃源郷、女護にょごしま……後宮四舎『菊花殿』で、異相の天狗面修験者は、この一刻ほどのち、運命の出会いを果たすのである。
 時は戊辰暦十四年。季節は丁度、水無月初旬の芒種ぼうしゅであった。
 

 四更しこう夜分、やっと家臣団の宴席から解放された修験者は、湯殿に向かう途中であった。
 素顔を見られたくないという、彼の意向を尊重して、特別に女人専用の個室を貸してもらえることになったのだ。
 珍妙な天狗面で、彼がかたくなに素顔を隠す理由は、持って産まれた醜悪なご面相にあった。俗世を嫌い、修行の道に入ったのも、ひとつには醜い顔を見せたくないという思いが、少なからず働いた結果だ。
 ゆえに彼は、じき四十路へ手が届く年齢になっても、いまだ〝女〟を知らずにいた。
 彼自身、そういった色気とは、すでに無縁の境地で生きている……そのつもりだった。
 後宮菊花殿を来訪する、今日この瞬間までは。
「水面をたゆたう清雅な蓮花、立ち居も凛と艶めく蘭花、芳しく咲き楚々たる梅花、気品に満ちて高雅な菊花、か……後宮四舎、まさか斯様な女の園に、俺のようなむさ苦しい男が入りこめるとは、夢にも思わなんだ。さすがは、天凱府中から選りすぐられた美女の館だ。しかし皇帝陛下は、こんなに沢山の美女を集めても、政務に忙しく、滅多にここを訪れぬというからな。まったく、勿体ない話よ……おっと! つまらん独語はよそう。どうもいかん……俺の、悪い癖だな……長い年月、深山篭りで染みついた孤独が、祟っているらしい。哈哈哈ハハハ
 朱牙天狗は、取り止めのないつぶやきを切り上げ、足早に渡殿わたどのを横切ろうとした。
 その時だ。
 渡殿の向こうから、静々と歩み来る女御衆。
 朱牙天狗は、廊下の端で立ち止まった。
 上臈とおぼしき女御に、つき従う十人の侍女。
 噂の聖人に軽く会釈し、女御衆が往き過ぎるのを、彼は黙って見送るつもりだった。
 ところが、先頭の上臈女御を、一目見た瞬間、朱牙天狗の心臓は止まった。
 それは、すべての男をかしずかせずにはおかぬ、妖艶な美しさであった。
 艶やかな牡丹の刺繡をほどこした襦裙じゅくん
 金糸銀糸で七宝をちりばめた領巾ひれ
 螺鈿細工の腰帯、左右へ垂らした玉禁歩ぎょくきんほ、真珠の瓔珞華簪ようらくはなかんざし
 貝髷ばいまげの黒髪に、瑞々しい白肌、鼻筋細く朱唇はあざやか、蠱惑的な碧瑠璃の瞳は、どんな相手をも魅入って、平伏させる魔性を宿していた。
 朱牙天狗は呆然自失、まさに一瞬で、心を奪われてしまったのだ。
 彼は夢現、誘われるように、美貌の女御を尾行し始めた。
 仙術を体得した彼は、人目を避けての隠密行動に長けている。
 誰にも見咎められず、女御の居室を突き止めると、大胆にもそこへ侵入して往く。
 珠簾たますだれが奏でる玲瓏れいろうな調べ、涼風に舞う水衣みずごろも、薄絹張りの瀟洒な衝立、胸ときめかす伽羅香きゃらこう紫烟しえん、侍女のあおぐ鳥羽翳さしはが心をかき乱した。
 清楚な白地の夜着で身をつつみ、帳台に入った女御は、侍女たちを下がらせ、天蓋を降ろす。人気のなくなった居室。練絹の寝台へ横臥した女御は、やがてかすかな寝息を立て始めた。
 とばりをめくり、のぞきこんだ寝台の上……無防備な肢体をさらし、安らかに眠る美女へ恐る恐る近づいた朱牙天狗。彼は、女御の妖美な魅力に囚われ、思わず生唾を呑んだ。欲望を抑え、仙術修行に邁進して来た男が、完全に自制心を失ってしまったのだ。己の行動が信じられぬ反面、女御の美貌を見た以上は、当然の成り往きだ……と、朱牙天狗は考えた。
「なんて美しい女だ……この女を、我が物にできるなら……もう死んでも、かまわない」
 朱牙天狗は朦朧とする頭で、斯様な妄言をつぶやいた。熱病に浮かされ、見境がつかなくなっていた。
 おもむろに帳幕をむしり取ると、美しい白面はくめんへ、武骨な手をそえていた。
 しびれるほど甘美な衝動が、朱牙天狗の躯幹を突き抜けた。
 だが、骨張った感触に驚き、女御は目を覚ましてしまった。同時に朱牙天狗は忘我した。
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