54 / 125
『食女鬼・前編』
其の壱
しおりを挟む住劫楽土の首都天凱府では、いつの頃からか、北方多聞区八椚宿の夜仏深山にまつわる、こんな童謡が唄われるようになった。
《……夜仏山の朱牙天狗、
菊花殿の美姫に懸想して、
鬼女とは知らず夢現、
功力を失い夜魔と化す……》
名刹古刹が数多くひしめき、巡礼地としても名高い『夜仏山』は、今や入山禁止の忌地と成り果てた。今回は、そうなってしまった経緯をお話しよう。
『……唵、阿謨伽、尾嚧左曩、摩訶母捺羅、摩抳、鉢納麼、入縛攞、鉢羅韈哆野、吽!』
火の粉舞い散る護摩壇の前で、加持祈祷を行う怪しい修験者。丹朱の天狗面をかぶった男は、白幣束を左右へ切って、一心不乱に【光明真言】を唱えている。
護摩壇の向こう側、御簾に隠れた帳台の中では、妊婦とおぼしき腹のふくれた女が、苦痛にあえぎ、のた打ち回っている。
『……唵、阿謨伽、尾嚧左曩、摩訶母捺羅、摩抳、鉢納麼、入縛攞、鉢羅韈哆野、吽!』
樒の神木から抽出された香粉を、護摩木とともに火中へ焼べ、不気味な光烟をくゆらせる。孕み女は、その匂いを嗅ぐや、いっそう激しく身をよじり、押さえつける侍女四人を振り払う。
女が身ごもっているのは、赤子ではなかった。全身を痙攣させ、血の汗を流し、七転八倒する女の股間から、黒光る奇怪な物体がすべり堕した。
それは鬼憑き女が身の内に宿すという、【鬼蛭子(できそこないの鬼子)】である。
「侍女殿! 疾く、退がりなさい!」
邪鬼の嫌う樒香と、光明真言、さらに先刻呑ませた閼伽が効き目を発揮して、鬼憑き女の胎内から、ついに鬼子を追い出したのだ。
天狗面の修験者は、すかさず帳台に乗りこんで侍女たちを追い払うと、不気味にうごめく巨大蛭へ魔除けの赤い『焼緋塩』をまぶした。
「ぎゃああぁぁぁああぁぁぁぁぁぁあっ!」
鬼憑き女は、凄まじい叫哭を放ち失神。
黒蛭は、濛々と瘴気を吐いて溶解した。
修験者は、臥所へ黒々残されたシミを閼伽で念入りに洗うと、ようやく安堵し振り返った。
護摩壇越しの板張広間に、詰めかけ見守る家臣団の前で、天狗面の修験者は宣言した。
「さて、皆さま……これにて、姫君の鬼難は遺恨なく、取り除かれ申した。あとは、樒葉の薬湯風呂で、くまなく全身を洗い清め、四日の間は絶対安静。お食事も、酒や肉など使わぬよう心がけ、日に三度は必ず、閼伽を呑ませて差し上げてください。それと、この謁見の間は、方角がよろしくありません。すぐに取り壊して、姫君は陽当たりのよい南側の部屋へ、うつすことをおすすめ致します」
天狗修験者の言葉に、いかつい家臣団は平伏し、深々と頭を垂れた。
侍女や閹官、内舎人一同、天狗修験者へ、拱手で礼を尽くした。
「ありがとうございます、朱牙天狗さま! 霊験あらたかなる御祈祷、我ら家臣一同、感服仕りました! お陰で、皇帝陛下御寵愛の、大切な楓姫さま御身から、つつがなく鬼業祓いを終えることができ申した! 一同、心より深謝致します!」
広間に居並ぶ家臣団が、一斉に額づいた。
「どうか、御聖人! 今宵はゆるりと、この【後宮菊花殿】にて、おくつろぎ頂きたい! 我ら心をこめて、精一杯のおもてなしをさせて頂きます! 貴殿は命の恩人ですゆえ!」
白髪の閹官筆頭《宋寮部》に押し留められ、天狗面の修験者はお言葉に甘え、一泊逗留させてもらうことにした。
早速、居室へと案内される。
《朱牙天狗》なる異名を持す彼は、はるか北方多聞区八椚宿の『夜仏深山』より訪れた高名な修験者である。邪鬼祓い鬼難除けの霊験あらたかな加持力を持し、鬼憑き妾妃の苦境を救うため、【劫初内(国政中枢機関)】の後宮四舎がひとつへと、昨晩入城したのだ。
皇帝に仕えるため、数千人もの美姫が集められた桃源郷、女護が島……後宮四舎『菊花殿』で、異相の天狗面修験者は、この一刻ほどのち、運命の出会いを果たすのである。
時は戊辰暦十四年。季節は丁度、水無月初旬の芒種であった。
四更夜分、やっと家臣団の宴席から解放された修験者は、湯殿に向かう途中であった。
素顔を見られたくないという、彼の意向を尊重して、特別に女人専用の個室を貸してもらえることになったのだ。
珍妙な天狗面で、彼がかたくなに素顔を隠す理由は、持って産まれた醜悪なご面相にあった。俗世を嫌い、修行の道に入ったのも、ひとつには醜い顔を見せたくないという思いが、少なからず働いた結果だ。
ゆえに彼は、じき四十路へ手が届く年齢になっても、いまだ〝女〟を知らずにいた。
彼自身、そういった色気とは、すでに無縁の境地で生きている……そのつもりだった。
後宮菊花殿を来訪する、今日この瞬間までは。
「水面をたゆたう清雅な蓮花、立ち居も凛と艶めく蘭花、芳しく咲き楚々たる梅花、気品に満ちて高雅な菊花、か……後宮四舎、まさか斯様な女の園に、俺のようなむさ苦しい男が入りこめるとは、夢にも思わなんだ。さすがは、天凱府中から選りすぐられた美女の館だ。しかし皇帝陛下は、こんなに沢山の美女を集めても、政務に忙しく、滅多にここを訪れぬというからな。まったく、勿体ない話よ……おっと! つまらん独語はよそう。どうもいかん……俺の、悪い癖だな……長い年月、深山篭りで染みついた孤独が、祟っているらしい。哈哈哈」
朱牙天狗は、取り止めのないつぶやきを切り上げ、足早に渡殿を横切ろうとした。
その時だ。
渡殿の向こうから、静々と歩み来る女御衆。
朱牙天狗は、廊下の端で立ち止まった。
上臈とおぼしき女御に、つき従う十人の侍女。
噂の聖人に軽く会釈し、女御衆が往き過ぎるのを、彼は黙って見送るつもりだった。
ところが、先頭の上臈女御を、一目見た瞬間、朱牙天狗の心臓は止まった。
それは、すべての男をかしずかせずにはおかぬ、妖艶な美しさであった。
艶やかな牡丹の刺繡をほどこした襦裙。
金糸銀糸で七宝をちりばめた領巾。
螺鈿細工の腰帯、左右へ垂らした玉禁歩、真珠の瓔珞華簪。
貝髷の黒髪に、瑞々しい白肌、鼻筋細く朱唇はあざやか、蠱惑的な碧瑠璃の瞳は、どんな相手をも魅入って、平伏させる魔性を宿していた。
朱牙天狗は呆然自失、まさに一瞬で、心を奪われてしまったのだ。
彼は夢現、誘われるように、美貌の女御を尾行し始めた。
仙術を体得した彼は、人目を避けての隠密行動に長けている。
誰にも見咎められず、女御の居室を突き止めると、大胆にもそこへ侵入して往く。
珠簾が奏でる玲瓏な調べ、涼風に舞う水衣、薄絹張りの瀟洒な衝立、胸ときめかす伽羅香の紫烟、侍女のあおぐ鳥羽翳が心をかき乱した。
清楚な白地の夜着で身をつつみ、帳台に入った女御は、侍女たちを下がらせ、天蓋を降ろす。人気のなくなった居室。練絹の寝台へ横臥した女御は、やがてかすかな寝息を立て始めた。
帳をめくり、のぞきこんだ寝台の上……無防備な肢体をさらし、安らかに眠る美女へ恐る恐る近づいた朱牙天狗。彼は、女御の妖美な魅力に囚われ、思わず生唾を呑んだ。欲望を抑え、仙術修行に邁進して来た男が、完全に自制心を失ってしまったのだ。己の行動が信じられぬ反面、女御の美貌を見た以上は、当然の成り往きだ……と、朱牙天狗は考えた。
「なんて美しい女だ……この女を、我が物にできるなら……もう死んでも、かまわない」
朱牙天狗は朦朧とする頭で、斯様な妄言をつぶやいた。熱病に浮かされ、見境がつかなくなっていた。
おもむろに帳幕をむしり取ると、美しい白面へ、武骨な手をそえていた。
しびれるほど甘美な衝動が、朱牙天狗の躯幹を突き抜けた。
だが、骨張った感触に驚き、女御は目を覚ましてしまった。同時に朱牙天狗は忘我した。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
7
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる