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4章 夕暮れの下駄箱にて
見慣れたはずの別天地
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校舎に掲げられた時計は八時半を指していた。念のためポケットに入れた携帯電話に手を伸ばすと電波は「圏外」時刻は「8:25」になっている。もちろん通話もインターネットもできない。けれど日付は「5/21」と表示されていた。これは何か意味があるんだろうか。
「早く教室に入れ!」
ジャージを着た強面の先生(体育の先生だろうか?)に追い立てられて、僕たちはとりあえず下駄箱の前まで戻った。あんな先生は見たことがない。それに教室へ行けと言われても困る。そこは本当に……“いつも僕たちが過ごしている”教室なんだろうか。そんな疑問が湧いて思わず身震いした。
「すみません、具合が悪くて……」
僕はとっさに嘘をついた。先生は半信半疑で僕をにらみ上げている。
「野々宮先輩、保健室まで連れて行ってもらえますか?」
「え、あ、うん!」
突然僕に水を向けられて先輩は驚いたけど、とっさに返事をして僕の肩を支えるように歩き始めた。ひとまずどこか落ち着ける場所へ行こう……。校舎の中は一見、いつも僕たちが通っている学校と何も変わりがない。けれど保健室に飾ってあるカレンダーを見て僕は息を呑んだ。野々宮先輩も気づいたようで、凍り付いたように足を止める。
一九九六年五月。カレンダーは二十日まで×マークがついていて今日が二十一日だと分かる。
『中井君、中井君。探すのを手伝ってあげる』
この言葉がきっかけで僕たちは過去の学校へ来てしまったのだろうか。いくらなんでも二十年以上も前のカレンダーを飾っているなんて思えない。それに――僕の携帯電話に表示された日付が五月二十一日なのも偶然じゃなさそうだった。
だとしたら、僕たちは中井君の探し物を手伝ってあげないといけないんじゃないだろうか。野々宮先輩がそう約束してしまったから。でも、中井君が探している物ってなんだろう?
「野々宮先輩、中井君は何を探してたんですか?」
「うーん……そこんところよく分かんないんだよね。中井君がどんな人だったかも知らないし」
もし僕の考えが正しければ、中井君は一九九六年にこの学校に居た生徒で、多分……この日に何かがあったんだろう。
「とりあえずさ、授業中は何も出来ないから放課後になるまでどこか隠れてようよ」
念のため、休み時間に自分の教室へ行ってみたけれどやっぱりクラスメイトは知らない顔ばかりだった。黒板の日直にも僕のクラスにはいないはずの名前が書かれている。僕と野々宮先輩は購買でパンと飲み物を買って、校舎裏で時間を潰した。さすがに先生もこんな場所まで見回りに来ないようだ。不良はよくここで授業をサボったりしてるイメージだけど(あくまでイメージだ)。校庭の隅にドラム缶で出来た炉のようなものがある。これは焼却炉というらしい。昔はこれで拾い集めた落ち葉を焼いたりしたそうだ。
ふと校舎裏から校庭の隅にたたずむ旧校舎を眺めてみる。こんなによく晴れた日の下でも旧校舎はやっぱり不気味だった。人のいなくなった家は荒れるというけど、誰も通わなくなった旧校舎もところどころ朽ち果てて、けれど誰かが来るのを待っているように見える。静かに誰か――生贄になる人間の訪れを待っているような。
考えすぎか。ヒマなせいか変な妄想をしてしまう。放課後を告げるチャイムが鳴って僕は立ち上がった。立ち上がったのはいいけどこの先どうしようか。とりあえず中井君か、中井君のことを知っている人に会いたい。
「多分、ここって昔の学校ですよね。どうやって情報を集めましょうか」
僕が切り出すと野々宮先輩は「そんなの簡単じゃん」とばかりに笑ってみせた。
「それならさ、私に任せてよ。だいじょーぶ。上手くいくって!」
野々宮先輩は僕を連れ立って一年B組へ向かった。下駄箱のことを考えたら中井君はこのクラスにいるはずだ。
「ごめん! 中井君ってこのクラスにいる?」
教室から出てきた女の子を捕まえて先輩は開口一番まくしたてた。
「え? さあ、もう帰っちゃったんじゃないですか。それか……」
「それか?」
「えっと、なんでもないです。中井君に何か用ですか?」
女の子が見慣れない顔を警戒しているのが分かる。けれど先輩は明るく言った。
「新聞部でさ、学校の有名人を紹介する特集を組むんだよね。中井君って何やらワケありって聞いたから、どうしても話をしてみたくて」
「え? 新聞部ですか?」
「あ! 私は新聞部の友達に頼まれて聞きに来ただけ。ちょっと友達が手を離せなくって」
嘘八百を並び立てる先輩。けれどあまりにも堂々としているせいか、女の子の不信感は薄らいでいっているようだった。先輩がにこにこと懐っこく笑っているのも大きい。
「中井君って部活に入ってるの?」
と先輩。なるほど。本人が居そうな場所を探すのか。
「はい、サッカー部に入ってますけど……」
何故か女の子は口ごもってしまった。先輩も不思議に思ったようだけれど、すかさずお礼を言ってさっさと退却。サッカー部。僕のいた時代の学校には“サッカー部がない”。だいぶ前に廃部になったと聞いている。サッカーは人気のスポーツなのに何故だろう?
サッカー部の連中はまだ更衣室で着替えているらしく、僕たちは校庭にある体育用具倉庫の前で部員が出てくるのを待つことにした。すぐサッカー部の連中は出てきたけど……異様な雰囲気だった。
上級生の後を下級生がついてきているが、タオルや、大きなペットボトルを持って歩いている。校庭の真ん中で立ち止まると「もたつくな」と言って上級生が下級生の尻を蹴り上げた。それを見て他の下級生は縮こまりながら姿勢を正して、上級生たちはにやにや笑っている。体育会系ってこういうのが当たり前なんだろうか? 中学生の時に(廃部寸前の)陸上部に入っていたけど、大会やら地区予選やらを諦めていたせいかのんびりした部活だった。どちらかというと僕のいた陸上部が変わっていたんだろうけど、それにしてもサッカー部の様子はおかしい。下級生たちは囚人か何かのように扱われている。
「邪魔だ。どけ」
上級生は体育用具倉庫の前にいる僕たちを見つけると、まるで虫でも追い払うように「しっしっ」と手を払ってみせた。僕は先輩と一緒にすごすごと退散する……と見せかけて体育用具倉庫の裏に回りこんだ。ここでサッカー部を観察しよう。まずは中井君を探さないと。
「中井、お前手伝ってこい!」
と、天の助けみたいに上級生が中井君を呼んだ。小さく返事をした中井君という生徒は……なんというか特徴のない人だった。髪を短く刈って中肉中背、顔はいわゆる塩顔。目をそらした瞬間に忘れてしまうような見た目。けれど弱々しいというか、何かにおびえているような表情は印象に残った。彼はとぼとぼと、体育用具倉庫に向かった上級生の後をついていく。中井君は一体何を探しているんだろう。そして、何故僕たちのいた時代に怪異として伝わっているのか。
突然、どんと何かを突き飛ばすような音がした。倉庫の中からだ。思わず先輩と一緒に飛び上がりそうになる。がらがらと何かが転がり、ボールの弾むけたたしい音。そこに柄の悪い哄笑が響いた。
「ヘディングだよヘディング! おら!」
……嫌な予感がした。倉庫へ入っていくときの中井君の顔を思い出す。まるで死刑台へ向かって歩いているかのように青ざめていた。実際、それに等しいものだったのだろう。その後も何かぶつかったりする音や呻くような声が聞こえて、そのたびに意地の悪い笑い声が反響した。
「試合、始めるぞー!」
グラウンドから上級生が怒鳴り声をあげた瞬間、倉庫の中は静かになった。ぱたぱたと慌ただしくも軽やかな足取りで部員たちが倉庫を出て行く。部員がいっせいにグラウンドの中央に集まった。もちろんその中に中井君もいる。先輩たちに殴られたであろう頬や額をしきりにさする中井君の姿が。その後は二つのチームに分かれて試合を始めた。僕たちは倉庫の裏で並んで体育座りをする。
「……こういうのってさ、昔は『しごき』とか『かわいがり』とか言ったんだって」
ぽつねんと先輩が漏らす。この時代はまだ先生の体罰も「教育」としてまかり通っていたのだろう。上級生の下級生に対する理不尽な仕打ちも、部活の「風習」として代々受け継がれていたのかもしれない。
試合が終わると「片付け!」という号令が聞こえた。さっきと同じように上級生はグラウンドに残って、後輩たちに雑用をやらせるらしい。二年生と一年生の何人かが倉庫に向かった。
「中井、お前は残れ」
片付けが終わって倉庫を出て行こうとした中井君を呼び止める声。振り返った中井君の顔は蛇ににらまれた蛙……いや四面楚歌といった感じだった。どこにも逃げ場がないことに対する絶望が、中井君の顔にありありと浮かんでいる。グラウンドにいる上級生も「これから起きることを知っているが見て見ぬふり」と言わんばかりに顔をそむけている。
その後のことを詳しく言う必要はないだろう。試合の前より中井君に対する暴力は一層ひどくなって、倉庫から漏れてくる不穏な物音も大きくなった。いつも笑顔を絶やさない野々宮先輩もとっさに耳を塞いで下を向いてしまう。どれくらいそうしていただろう。何十分もそうしていた気がするけど、実はものの数分だったのかもしれない。でも中井君にとっては永遠に近い時間かもしれなかった。
他の部員たちの反応を見る限り、きっと今日が初めてじゃない。中井君へのいじめはサッカー部にとって日常で何度も繰り返されているのだ。だからまた明日、明後日……ずっと続く。そんな暗い想像をしてしまう。できればただの想像であってほしいけど。
サッカー部の連中はへらへら笑いながら倉庫を出てきたけど中井君はしばらく姿を見せなかった。「顔はやめろって言ったのに」という、通りすがりに聞こえた声を思い出す。ようやく倉庫から出てきた中井君はよろよろと頼りない足取りだった。さっと野々宮先輩が肩を貸そうと近づいていく。
「ねぇ君、大丈夫?」
けれど中井君の返事はそっけなかった。
「平気なんで」
先輩と目を合わせようともしない。まるで僕たちなんか見えていないと言わんばかりに通り過ぎて行こうとする。
「待って! 私たち新聞部なの。友達に生徒会の役員もいるし、何か困ったことや嫌なことがあればきっと相談に乗れ……」
「うるさい」
野々宮先輩が差し伸べた手を思わず引っ込めるほど鋭い声だった。ここまで言われると追いすがることもできず、僕たちは中井君の背中を見送った。それでもほうっておくことはできないので、僕と先輩は後をつけた。下駄箱にいる中井君をサッカー部の連中が囲んでいる。中井君の「返してください」という声が聞こえたが、連中は人目もはばからずに中井君の頬を殴りつけた。もんどりうった中井君の体がすのこの上に叩きつけられる。
「きったねぇな。俺が処分しといてやるよ」
そう言って男子生徒が高く掲げたのは使い込まれたシューズだった。中井君のものだろう。倒れこんだまま呻く中井君を見て生徒は満足そうに笑っている。
「じゃあな」
お供を引き連れてそいつは立ち去っていった。連中の姿が見えなくなってから中井君は立ち上がった。慌てて僕たちは扉の影に隠れる。中井君は――泣いていた。声も上げずに涙をぬぐっている。ロッカーに力なく寄り掛かってしゃくりあげる。
……残念だけど僕たちが中井君に対して直接できることは何もないように思えた。のこのこ出て行って、僕たちのような見ず知らずの他人が慰めの言葉を掛けたところでどうしようもない。僕は先輩の顔を見る。彼女は「行こっか」とだけ言って昇降口を離れていった。さて……これからどうしようか?
「早く教室に入れ!」
ジャージを着た強面の先生(体育の先生だろうか?)に追い立てられて、僕たちはとりあえず下駄箱の前まで戻った。あんな先生は見たことがない。それに教室へ行けと言われても困る。そこは本当に……“いつも僕たちが過ごしている”教室なんだろうか。そんな疑問が湧いて思わず身震いした。
「すみません、具合が悪くて……」
僕はとっさに嘘をついた。先生は半信半疑で僕をにらみ上げている。
「野々宮先輩、保健室まで連れて行ってもらえますか?」
「え、あ、うん!」
突然僕に水を向けられて先輩は驚いたけど、とっさに返事をして僕の肩を支えるように歩き始めた。ひとまずどこか落ち着ける場所へ行こう……。校舎の中は一見、いつも僕たちが通っている学校と何も変わりがない。けれど保健室に飾ってあるカレンダーを見て僕は息を呑んだ。野々宮先輩も気づいたようで、凍り付いたように足を止める。
一九九六年五月。カレンダーは二十日まで×マークがついていて今日が二十一日だと分かる。
『中井君、中井君。探すのを手伝ってあげる』
この言葉がきっかけで僕たちは過去の学校へ来てしまったのだろうか。いくらなんでも二十年以上も前のカレンダーを飾っているなんて思えない。それに――僕の携帯電話に表示された日付が五月二十一日なのも偶然じゃなさそうだった。
だとしたら、僕たちは中井君の探し物を手伝ってあげないといけないんじゃないだろうか。野々宮先輩がそう約束してしまったから。でも、中井君が探している物ってなんだろう?
「野々宮先輩、中井君は何を探してたんですか?」
「うーん……そこんところよく分かんないんだよね。中井君がどんな人だったかも知らないし」
もし僕の考えが正しければ、中井君は一九九六年にこの学校に居た生徒で、多分……この日に何かがあったんだろう。
「とりあえずさ、授業中は何も出来ないから放課後になるまでどこか隠れてようよ」
念のため、休み時間に自分の教室へ行ってみたけれどやっぱりクラスメイトは知らない顔ばかりだった。黒板の日直にも僕のクラスにはいないはずの名前が書かれている。僕と野々宮先輩は購買でパンと飲み物を買って、校舎裏で時間を潰した。さすがに先生もこんな場所まで見回りに来ないようだ。不良はよくここで授業をサボったりしてるイメージだけど(あくまでイメージだ)。校庭の隅にドラム缶で出来た炉のようなものがある。これは焼却炉というらしい。昔はこれで拾い集めた落ち葉を焼いたりしたそうだ。
ふと校舎裏から校庭の隅にたたずむ旧校舎を眺めてみる。こんなによく晴れた日の下でも旧校舎はやっぱり不気味だった。人のいなくなった家は荒れるというけど、誰も通わなくなった旧校舎もところどころ朽ち果てて、けれど誰かが来るのを待っているように見える。静かに誰か――生贄になる人間の訪れを待っているような。
考えすぎか。ヒマなせいか変な妄想をしてしまう。放課後を告げるチャイムが鳴って僕は立ち上がった。立ち上がったのはいいけどこの先どうしようか。とりあえず中井君か、中井君のことを知っている人に会いたい。
「多分、ここって昔の学校ですよね。どうやって情報を集めましょうか」
僕が切り出すと野々宮先輩は「そんなの簡単じゃん」とばかりに笑ってみせた。
「それならさ、私に任せてよ。だいじょーぶ。上手くいくって!」
野々宮先輩は僕を連れ立って一年B組へ向かった。下駄箱のことを考えたら中井君はこのクラスにいるはずだ。
「ごめん! 中井君ってこのクラスにいる?」
教室から出てきた女の子を捕まえて先輩は開口一番まくしたてた。
「え? さあ、もう帰っちゃったんじゃないですか。それか……」
「それか?」
「えっと、なんでもないです。中井君に何か用ですか?」
女の子が見慣れない顔を警戒しているのが分かる。けれど先輩は明るく言った。
「新聞部でさ、学校の有名人を紹介する特集を組むんだよね。中井君って何やらワケありって聞いたから、どうしても話をしてみたくて」
「え? 新聞部ですか?」
「あ! 私は新聞部の友達に頼まれて聞きに来ただけ。ちょっと友達が手を離せなくって」
嘘八百を並び立てる先輩。けれどあまりにも堂々としているせいか、女の子の不信感は薄らいでいっているようだった。先輩がにこにこと懐っこく笑っているのも大きい。
「中井君って部活に入ってるの?」
と先輩。なるほど。本人が居そうな場所を探すのか。
「はい、サッカー部に入ってますけど……」
何故か女の子は口ごもってしまった。先輩も不思議に思ったようだけれど、すかさずお礼を言ってさっさと退却。サッカー部。僕のいた時代の学校には“サッカー部がない”。だいぶ前に廃部になったと聞いている。サッカーは人気のスポーツなのに何故だろう?
サッカー部の連中はまだ更衣室で着替えているらしく、僕たちは校庭にある体育用具倉庫の前で部員が出てくるのを待つことにした。すぐサッカー部の連中は出てきたけど……異様な雰囲気だった。
上級生の後を下級生がついてきているが、タオルや、大きなペットボトルを持って歩いている。校庭の真ん中で立ち止まると「もたつくな」と言って上級生が下級生の尻を蹴り上げた。それを見て他の下級生は縮こまりながら姿勢を正して、上級生たちはにやにや笑っている。体育会系ってこういうのが当たり前なんだろうか? 中学生の時に(廃部寸前の)陸上部に入っていたけど、大会やら地区予選やらを諦めていたせいかのんびりした部活だった。どちらかというと僕のいた陸上部が変わっていたんだろうけど、それにしてもサッカー部の様子はおかしい。下級生たちは囚人か何かのように扱われている。
「邪魔だ。どけ」
上級生は体育用具倉庫の前にいる僕たちを見つけると、まるで虫でも追い払うように「しっしっ」と手を払ってみせた。僕は先輩と一緒にすごすごと退散する……と見せかけて体育用具倉庫の裏に回りこんだ。ここでサッカー部を観察しよう。まずは中井君を探さないと。
「中井、お前手伝ってこい!」
と、天の助けみたいに上級生が中井君を呼んだ。小さく返事をした中井君という生徒は……なんというか特徴のない人だった。髪を短く刈って中肉中背、顔はいわゆる塩顔。目をそらした瞬間に忘れてしまうような見た目。けれど弱々しいというか、何かにおびえているような表情は印象に残った。彼はとぼとぼと、体育用具倉庫に向かった上級生の後をついていく。中井君は一体何を探しているんだろう。そして、何故僕たちのいた時代に怪異として伝わっているのか。
突然、どんと何かを突き飛ばすような音がした。倉庫の中からだ。思わず先輩と一緒に飛び上がりそうになる。がらがらと何かが転がり、ボールの弾むけたたしい音。そこに柄の悪い哄笑が響いた。
「ヘディングだよヘディング! おら!」
……嫌な予感がした。倉庫へ入っていくときの中井君の顔を思い出す。まるで死刑台へ向かって歩いているかのように青ざめていた。実際、それに等しいものだったのだろう。その後も何かぶつかったりする音や呻くような声が聞こえて、そのたびに意地の悪い笑い声が反響した。
「試合、始めるぞー!」
グラウンドから上級生が怒鳴り声をあげた瞬間、倉庫の中は静かになった。ぱたぱたと慌ただしくも軽やかな足取りで部員たちが倉庫を出て行く。部員がいっせいにグラウンドの中央に集まった。もちろんその中に中井君もいる。先輩たちに殴られたであろう頬や額をしきりにさする中井君の姿が。その後は二つのチームに分かれて試合を始めた。僕たちは倉庫の裏で並んで体育座りをする。
「……こういうのってさ、昔は『しごき』とか『かわいがり』とか言ったんだって」
ぽつねんと先輩が漏らす。この時代はまだ先生の体罰も「教育」としてまかり通っていたのだろう。上級生の下級生に対する理不尽な仕打ちも、部活の「風習」として代々受け継がれていたのかもしれない。
試合が終わると「片付け!」という号令が聞こえた。さっきと同じように上級生はグラウンドに残って、後輩たちに雑用をやらせるらしい。二年生と一年生の何人かが倉庫に向かった。
「中井、お前は残れ」
片付けが終わって倉庫を出て行こうとした中井君を呼び止める声。振り返った中井君の顔は蛇ににらまれた蛙……いや四面楚歌といった感じだった。どこにも逃げ場がないことに対する絶望が、中井君の顔にありありと浮かんでいる。グラウンドにいる上級生も「これから起きることを知っているが見て見ぬふり」と言わんばかりに顔をそむけている。
その後のことを詳しく言う必要はないだろう。試合の前より中井君に対する暴力は一層ひどくなって、倉庫から漏れてくる不穏な物音も大きくなった。いつも笑顔を絶やさない野々宮先輩もとっさに耳を塞いで下を向いてしまう。どれくらいそうしていただろう。何十分もそうしていた気がするけど、実はものの数分だったのかもしれない。でも中井君にとっては永遠に近い時間かもしれなかった。
他の部員たちの反応を見る限り、きっと今日が初めてじゃない。中井君へのいじめはサッカー部にとって日常で何度も繰り返されているのだ。だからまた明日、明後日……ずっと続く。そんな暗い想像をしてしまう。できればただの想像であってほしいけど。
サッカー部の連中はへらへら笑いながら倉庫を出てきたけど中井君はしばらく姿を見せなかった。「顔はやめろって言ったのに」という、通りすがりに聞こえた声を思い出す。ようやく倉庫から出てきた中井君はよろよろと頼りない足取りだった。さっと野々宮先輩が肩を貸そうと近づいていく。
「ねぇ君、大丈夫?」
けれど中井君の返事はそっけなかった。
「平気なんで」
先輩と目を合わせようともしない。まるで僕たちなんか見えていないと言わんばかりに通り過ぎて行こうとする。
「待って! 私たち新聞部なの。友達に生徒会の役員もいるし、何か困ったことや嫌なことがあればきっと相談に乗れ……」
「うるさい」
野々宮先輩が差し伸べた手を思わず引っ込めるほど鋭い声だった。ここまで言われると追いすがることもできず、僕たちは中井君の背中を見送った。それでもほうっておくことはできないので、僕と先輩は後をつけた。下駄箱にいる中井君をサッカー部の連中が囲んでいる。中井君の「返してください」という声が聞こえたが、連中は人目もはばからずに中井君の頬を殴りつけた。もんどりうった中井君の体がすのこの上に叩きつけられる。
「きったねぇな。俺が処分しといてやるよ」
そう言って男子生徒が高く掲げたのは使い込まれたシューズだった。中井君のものだろう。倒れこんだまま呻く中井君を見て生徒は満足そうに笑っている。
「じゃあな」
お供を引き連れてそいつは立ち去っていった。連中の姿が見えなくなってから中井君は立ち上がった。慌てて僕たちは扉の影に隠れる。中井君は――泣いていた。声も上げずに涙をぬぐっている。ロッカーに力なく寄り掛かってしゃくりあげる。
……残念だけど僕たちが中井君に対して直接できることは何もないように思えた。のこのこ出て行って、僕たちのような見ず知らずの他人が慰めの言葉を掛けたところでどうしようもない。僕は先輩の顔を見る。彼女は「行こっか」とだけ言って昇降口を離れていった。さて……これからどうしようか?
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