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第23話 今、何かがこの辺りを歩き回っている
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ず
ず
ずず
ずずずず……
岩は、目に見えないほどほんの僅かずつ動きながらも、自身ではなにか、自分が今にもぱちんと音を立てて弾け飛んでしまいそうな“感じ”が、していた。
――こういうのを、なんというのだろう――
なにか、こういう“感じ”がする時に、人間たちが口にする言葉があったはずだ。
――何だったか――
ず
ずず
ず
……
ずずず
それを思い出すまでに、どれ位の時が経過しただろう。
そもそも時は、経過したのであったか。
◇◆◇
「そもそも死ぬのが嫌ならなんでそこに立ってんの」甲高い声は続けて問う。「嫌ならさっさとここから出て行って、住処に帰ればいいだけの事でしょうに」
「――」時中は瞳を左右に動かす。「嫌であっても帰るわけには行かない。雇用契約を取り交わした以上は」相手の姿を見つけられぬまま、答える。
「じゃあ黙って仕事しろってのよ」甲高い声は言う。
「愚痴くらいは言ってしまうと思います」本原が続ける。「仕事というものは楽しくないものなので」
「なんで楽しくもないのに仕事すんのよ」甲高い声が訊く。
「それは、ぶっちゃけ給料の為っすよ」結城が答える。「全員、生活がかかってんすから」
「ふうん」甲高い声は理解を示す。「金の為に、嫌な仕事を我慢してんの」
「多かれ少なかれ、大体の者がそうだろう」時中が考えを述べる。
「まあ大変なことさね。人間ってやつは」
「あなたは、人間ではないのですね」本原が質問する。「天津さんの仰っていた、鯰さまですか」
「そう、鯰」声は初めて自らの正体を明かした。「でもあたしが喋ってるのは、岩っちの代わりにだから」
「岩っち?」結城が問う。「地球のこと?」
「そうとも言う」鯰が答える。
「あ」本原が声を発しかけるが、時中が視線を向けた為口をつぐんだ。発言の順番を守れという、無言の制止を察知したのだ。
「その地球は、我々に対してどう思っているんだ」時中は核心を衝いた。
「さあ」鯰の回答はただ一言だった。
「さ」時中が声を発しかけたが、今度は本原が視線でそれを制止した。
「あなたは」そして本原は問うた。「クーたんですか」
「はい?」鯰は素っ頓狂な声で答えた。「クーたん? 何それ?」
「海を護る汎精霊です」本原は返答した。
「本原さん」時中が例外的に、小声で言葉を挟んだ。「鯰は淡水生物だ。海にはいない」
「ああ、そうそう」結城が平常レベルの声で同調した。「海には鯰、いないよ」
「うるさい」本原は結城を厳しく睨み上げた。「どこにいたってクーたんはクーたんだ」
しばし、沈黙が洞穴内に流れた。
「あたしは、池の中にいるけど」鯰は、どこか戸惑いを帯びた雰囲気が感じられなくもない声で返答した。「クーたんじゃあ、ない」
「わかりました」本原が、低く答えた。
またしばし、沈黙が洞穴内に流れた。
「ん」やがて天津が、顔を左右に向け声を挙げた。
「どうかしました?」結城が天津に訊く。
「何か、いますね」天津は、目に見えないその“何か”を鋭く目で追っていた。
「何か?」時中が問い、
「幽霊?」結城が叫び、
「精霊ですか」本原が囁きかける。
「皆さん、その場を動かないで」天津は左手を立て制止の合図をした。「結界を張りますから」
「おお」結城が感動の声を挙げる。「結界。やったね本原さん、結界だって」
「はい」本原もやや興奮気味に頷く。「でも呪文も魔法陣もありません」
「ああ、そういうのは特に必要ないです」天津はほんの僅かに笑った。「僕らには」
「おお」結城はまた感動した。「さすが神様」
「そうなのですね」本原にとってはいささか残念なことのようであった。
そしてその直後、三人はそれぞれ“何か”に包まれた。それは温かく、優しく、柔らかく、良い香りがし、良い音がし、良い色をしていた。とはいえ決して周りの景色が見えなくなってしまったわけではなく、それはちゃんと見えているのだが、しかしその景色の中にありながらも明らかにその場の空気からは遮断されている――というよりも、護られている、そんな感じがするものだ。
「おおー」結城が感動の声を挙げる。「天国感はんぱねえ」
「下卑た言い方をするな」時中が非難したがその声もまた、棘がすべて取り払われ、柔和なものになっていた。
「素敵」本原がうっとりと囁く。「これが神様のお力なのですね」
「おかしいなあ」鯰が出し抜けに、そう言った。
「何がおかしいんだ」時中が問う。
「岩っちが、なんにも言わない」鯰は、口を尖らせたような喋り方で答える。「いつもなら、人間からなんか訊かれたら答えるのに」
「まあ」本原が口を押さえる。「どうして、地球さまはお答えくださらないのでしょう」
「さあ」鯰は再び、すっとぼけたような喋り方で答える。
「答えってさっきの、時中君が訊いた『我々の事をどう思ってるんだね君』ってやつ?」結城は時中の口真似らしく威張りくさった言い方を混ぜて問うた。
時中は結城を横睨みに睨んだが、敢えて取り構わなかった。「では別の問いをする。今この辺りにいる“何か”とは、地球の意志とか魂とか、そういう類のものなのか」
しばらく、鯰は何も返答しなかった。やがて、その答えはあった。「うん。こんな気分の時って、人間の言葉でなんて言うんだっけ、って言ってるよ」
少しの間、誰も口を開かなかった。
「こんな気分とは、どんな気分なのですか」やがて本原が訊き返した。
「うーんと」鯰は確認のため数秒黙った後「なんかね、ぱちんって弾けそうな感じの時」
「ぱちん?」結城が叫び、
「弾けそうな?」時中が呟き、
「苦しいのでしょうか」本原が囁く。
「苦しいって、食い過ぎで腹が苦しい時のこと? 地球さん、飯食い過ぎたの?」結城が目を丸くする。「何食ったんだ」
「違う」鯰は否定した。「『苦しい』じゃない、って言ってる」
「じゃあ何なんだ。怒りが爆発しそうなのか」時中が問う。
「それも違うって」鯰が答える。「『怒り』じゃない、って言ってる」
「へえ、よかった」結城が胸を撫で下ろす。
「では悲しいのでしょうか」本原が問う。「悲しみで胸が張り裂けそうなのでは」
「地球の“胸”ってどこになるの? 本原さん」結城がまたしても口を挟む。「赤道付近とか?」
本原は結城に一瞥もくれることなく、また一言も返答しなかった。
「『悲しみ』でもないって言ってる」鯰が否定する。
「あわかった」結城が殊更に叫ぶ。「楽しいんだ。楽しくてふわふわー、わくわくー、てなって、そんでぱちーんってなりそうなんじゃないの?」
時中が短く嘆息した。
「擬態語」本原が小さく指摘した。
「はは」それまで黙って聞いていた天津も、つい苦笑を洩らした。
「ああ、それだって」鯰が答えた。「『楽しい』だって」
「おお」結城は眼を大きく見開き、他の者たちを見回した。
だが皆は、絶句していた。
ず
ずず
ずずずず……
岩は、目に見えないほどほんの僅かずつ動きながらも、自身ではなにか、自分が今にもぱちんと音を立てて弾け飛んでしまいそうな“感じ”が、していた。
――こういうのを、なんというのだろう――
なにか、こういう“感じ”がする時に、人間たちが口にする言葉があったはずだ。
――何だったか――
ず
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ずずず
それを思い出すまでに、どれ位の時が経過しただろう。
そもそも時は、経過したのであったか。
◇◆◇
「そもそも死ぬのが嫌ならなんでそこに立ってんの」甲高い声は続けて問う。「嫌ならさっさとここから出て行って、住処に帰ればいいだけの事でしょうに」
「――」時中は瞳を左右に動かす。「嫌であっても帰るわけには行かない。雇用契約を取り交わした以上は」相手の姿を見つけられぬまま、答える。
「じゃあ黙って仕事しろってのよ」甲高い声は言う。
「愚痴くらいは言ってしまうと思います」本原が続ける。「仕事というものは楽しくないものなので」
「なんで楽しくもないのに仕事すんのよ」甲高い声が訊く。
「それは、ぶっちゃけ給料の為っすよ」結城が答える。「全員、生活がかかってんすから」
「ふうん」甲高い声は理解を示す。「金の為に、嫌な仕事を我慢してんの」
「多かれ少なかれ、大体の者がそうだろう」時中が考えを述べる。
「まあ大変なことさね。人間ってやつは」
「あなたは、人間ではないのですね」本原が質問する。「天津さんの仰っていた、鯰さまですか」
「そう、鯰」声は初めて自らの正体を明かした。「でもあたしが喋ってるのは、岩っちの代わりにだから」
「岩っち?」結城が問う。「地球のこと?」
「そうとも言う」鯰が答える。
「あ」本原が声を発しかけるが、時中が視線を向けた為口をつぐんだ。発言の順番を守れという、無言の制止を察知したのだ。
「その地球は、我々に対してどう思っているんだ」時中は核心を衝いた。
「さあ」鯰の回答はただ一言だった。
「さ」時中が声を発しかけたが、今度は本原が視線でそれを制止した。
「あなたは」そして本原は問うた。「クーたんですか」
「はい?」鯰は素っ頓狂な声で答えた。「クーたん? 何それ?」
「海を護る汎精霊です」本原は返答した。
「本原さん」時中が例外的に、小声で言葉を挟んだ。「鯰は淡水生物だ。海にはいない」
「ああ、そうそう」結城が平常レベルの声で同調した。「海には鯰、いないよ」
「うるさい」本原は結城を厳しく睨み上げた。「どこにいたってクーたんはクーたんだ」
しばし、沈黙が洞穴内に流れた。
「あたしは、池の中にいるけど」鯰は、どこか戸惑いを帯びた雰囲気が感じられなくもない声で返答した。「クーたんじゃあ、ない」
「わかりました」本原が、低く答えた。
またしばし、沈黙が洞穴内に流れた。
「ん」やがて天津が、顔を左右に向け声を挙げた。
「どうかしました?」結城が天津に訊く。
「何か、いますね」天津は、目に見えないその“何か”を鋭く目で追っていた。
「何か?」時中が問い、
「幽霊?」結城が叫び、
「精霊ですか」本原が囁きかける。
「皆さん、その場を動かないで」天津は左手を立て制止の合図をした。「結界を張りますから」
「おお」結城が感動の声を挙げる。「結界。やったね本原さん、結界だって」
「はい」本原もやや興奮気味に頷く。「でも呪文も魔法陣もありません」
「ああ、そういうのは特に必要ないです」天津はほんの僅かに笑った。「僕らには」
「おお」結城はまた感動した。「さすが神様」
「そうなのですね」本原にとってはいささか残念なことのようであった。
そしてその直後、三人はそれぞれ“何か”に包まれた。それは温かく、優しく、柔らかく、良い香りがし、良い音がし、良い色をしていた。とはいえ決して周りの景色が見えなくなってしまったわけではなく、それはちゃんと見えているのだが、しかしその景色の中にありながらも明らかにその場の空気からは遮断されている――というよりも、護られている、そんな感じがするものだ。
「おおー」結城が感動の声を挙げる。「天国感はんぱねえ」
「下卑た言い方をするな」時中が非難したがその声もまた、棘がすべて取り払われ、柔和なものになっていた。
「素敵」本原がうっとりと囁く。「これが神様のお力なのですね」
「おかしいなあ」鯰が出し抜けに、そう言った。
「何がおかしいんだ」時中が問う。
「岩っちが、なんにも言わない」鯰は、口を尖らせたような喋り方で答える。「いつもなら、人間からなんか訊かれたら答えるのに」
「まあ」本原が口を押さえる。「どうして、地球さまはお答えくださらないのでしょう」
「さあ」鯰は再び、すっとぼけたような喋り方で答える。
「答えってさっきの、時中君が訊いた『我々の事をどう思ってるんだね君』ってやつ?」結城は時中の口真似らしく威張りくさった言い方を混ぜて問うた。
時中は結城を横睨みに睨んだが、敢えて取り構わなかった。「では別の問いをする。今この辺りにいる“何か”とは、地球の意志とか魂とか、そういう類のものなのか」
しばらく、鯰は何も返答しなかった。やがて、その答えはあった。「うん。こんな気分の時って、人間の言葉でなんて言うんだっけ、って言ってるよ」
少しの間、誰も口を開かなかった。
「こんな気分とは、どんな気分なのですか」やがて本原が訊き返した。
「うーんと」鯰は確認のため数秒黙った後「なんかね、ぱちんって弾けそうな感じの時」
「ぱちん?」結城が叫び、
「弾けそうな?」時中が呟き、
「苦しいのでしょうか」本原が囁く。
「苦しいって、食い過ぎで腹が苦しい時のこと? 地球さん、飯食い過ぎたの?」結城が目を丸くする。「何食ったんだ」
「違う」鯰は否定した。「『苦しい』じゃない、って言ってる」
「じゃあ何なんだ。怒りが爆発しそうなのか」時中が問う。
「それも違うって」鯰が答える。「『怒り』じゃない、って言ってる」
「へえ、よかった」結城が胸を撫で下ろす。
「では悲しいのでしょうか」本原が問う。「悲しみで胸が張り裂けそうなのでは」
「地球の“胸”ってどこになるの? 本原さん」結城がまたしても口を挟む。「赤道付近とか?」
本原は結城に一瞥もくれることなく、また一言も返答しなかった。
「『悲しみ』でもないって言ってる」鯰が否定する。
「あわかった」結城が殊更に叫ぶ。「楽しいんだ。楽しくてふわふわー、わくわくー、てなって、そんでぱちーんってなりそうなんじゃないの?」
時中が短く嘆息した。
「擬態語」本原が小さく指摘した。
「はは」それまで黙って聞いていた天津も、つい苦笑を洩らした。
「ああ、それだって」鯰が答えた。「『楽しい』だって」
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