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【3】
その日は学園が休みだった。
そしてニコラスとの半月に一度の茶会の日であった。
茶会は交互に互いの邸で開かれる。前回がニコラスのロンフォルド伯爵邸であったから、今回はステファニアが彼を招いていた。
だがその日の早朝になって、ニコラスから文が届いた。
「ニコラス様は急用ができたらしいわ」
「ステファニア。殿方が約束の日に来ないのは、それは別れの予兆よ」
ステファニアがニコラスからの文を読んでいると、姉が不吉な予言めいたことを言った。
「貴方もそう思わない?」
「僕は君との約束に遅れたことも反故にしたことも一度もないから、剣しか持てない若造の気持ちはこれっぽっちもわからないな」
姉の問いかけに、義兄はキレのある返答をした。なんだろう、聞いてて胸がスカッとした。
「お母様には私から話しておくわ。ステファニア、気にしないことよ。これがワンカウント。さあ、これから何回こんなことがあるのかしらね」
姉が親指を折りながら言う。
何回までなら許される範囲なのだろう。と言いうより、これから何度もこんなことが起こるのかしら。
そんな胸騒ぎを覚えて、ステファニアはこのまま邸にいては悪い考えしか浮かばないような気がしてきた。
ステファニアは、婚約の初めからニコラスと上手く行かない予感を抱いていた。
だからと言って、この婚約が破談になるのを望んでいたわけではない。
ニコラスは、ステファニアに甘いことも言わないし甘い素振りも見せないし、二人の間に甘い空気が漂うこともない。けれど、彼は彼なりに騎士道に則って正しく婚約者として付き合ってくれていた。
今までは遅刻などはなかったから、今回のような直前でのキャンセルなんて初めてのことだった。
ニコラスが、本心では自分との縁を望んでいない。そう思うのと、そういう確証を目の前で見せられるのとでは大きな違いがある。
そういうステファニアは、ニコラスのことをどう思っているのか。
彼のことは嫌いではない。ただ、本当のことをいうなら、興味を抱かれないことを寂しく思っていた。
ステファニアなりに、彼のことを慕っていた。燃えるような恋心ではないけれど、こんなふうに今までなかった行動を取られると、不安になるくらいには慕っている。
ステファニアが本気で駄目だと諦めたなら、とっくに父や母に泣きついただろう。
彼とはきっと上手く行かないかもしれない。けれどももしかしたら、上手く行くかもいれない。そんなふうに、確証の持てないまま心が揺れていたのは事実だった。
だから、ニコラスが破談を願うだろうと早いうちから覚悟していたのは、臆病なステファニアの心の予防線だったのである。
婚約してから二年をかけて、覚悟という名の心のクッションを抱き締めてきたのである。
朝から青い空が綺麗だった。身綺麗なワンピースを着て待っていた。
このまま私室にいても、くさくさするだけだろう。丁度、インクが切れていたし刺繍糸も欲しかった。ぽっかり空いてしまった時間だから、ステファニアはそのまま侍女に付き合ってもらって街へ買い物に出掛けることにした。
文具店に入ると、お目当てのインクの陳列棚に向かった。
最近は洒落たネーミングのインクが流行っていて、今手にしているのは『月のない宵の空』という濃い群青に黒が混ざったインクである。
『月のない宵』だなんて、どんな空だったかしら。
ステファニアは手にしたインク瓶をじっと見た。漆黒でもなく青でもない。見れば見るほど月のない夜の闇の色に思えた。
それから月に手にしたインクは、『紺碧の水面』という名がついていた。
これはエメラルドグリーンに濃い青が混ざった深海のような色である。どこかステファニアの瞳の色にも似ていて、これは絶対買おうと決めた。
変わり種は深みのある赤だった。赤茶の混ざるバーガンディで『時を超えた赤葡萄』という名であった。
迷いに迷って、結局、その三色全ての購入を決めた。それからついつい水色やオレンジ色に目移りしていたその時、ショーウィンドウ越しに見えた通りの向こうに、知った顔を見つけた。
エルリック・グラハム・ノーマン。
西の辺境伯、ノーマン辺境伯の子息だった。
白銀の髪に青い瞳は、遠目でもすぐに彼だとわかった。
あんな綺麗な白銀の髪は、彼くらいしか知らない。瞳の色も濃く鮮やかで、あまりに綺麗なものだから、できれば正面からじっくり見てみたいと思ったりした。
顎のラインで切り揃えた髪が、童話の挿絵の王子様そのものである。彼は学園で、令嬢たちから密かに『王子』と呼ばれている。
同じクラスに王国の第三王子が在籍しており、本物の王子がいるのになんとも不敬な話であるが、ステファニア自身も王子呼びしたことがあるから人のことは言えなかった。
王子が人目を惹くのは常であったが、今日が常にない光景に見えたのは、彼の横にいる令嬢に原因があった。
漆黒の長い髪。
「え?」
ステファニアは思わず声を漏らしてしまった。
あれは。
濡羽色の黒く長い髪に、墨を落としたような漆黒の瞳。日射しに照らされる白い肌。桃色の口元が、まるで紅を引いているようだ。
通りの向こうから二人がこちらに近付いてくると、その姿がはっきりわかった。
彼女が聖女だ。西の辺境伯領地に現れたという聖女。
聖女のことは、間もなく王都を訪れると聞ていた。そして学園に編入するとも。
彼女が聖女で間違いないと思った。それでエルリックが付き添っているのだろう。
なんて可憐な女性なのかしら。
ステファニアは瞬時に理解した。
ニコラス様はきっと、一目で恋に落ちるだろう。この可憐な女性に心を奪われてしまうだろう。
そうして彼は、ステファニアとの婚約の解消を願い出るのだろう。
そしてニコラスとの半月に一度の茶会の日であった。
茶会は交互に互いの邸で開かれる。前回がニコラスのロンフォルド伯爵邸であったから、今回はステファニアが彼を招いていた。
だがその日の早朝になって、ニコラスから文が届いた。
「ニコラス様は急用ができたらしいわ」
「ステファニア。殿方が約束の日に来ないのは、それは別れの予兆よ」
ステファニアがニコラスからの文を読んでいると、姉が不吉な予言めいたことを言った。
「貴方もそう思わない?」
「僕は君との約束に遅れたことも反故にしたことも一度もないから、剣しか持てない若造の気持ちはこれっぽっちもわからないな」
姉の問いかけに、義兄はキレのある返答をした。なんだろう、聞いてて胸がスカッとした。
「お母様には私から話しておくわ。ステファニア、気にしないことよ。これがワンカウント。さあ、これから何回こんなことがあるのかしらね」
姉が親指を折りながら言う。
何回までなら許される範囲なのだろう。と言いうより、これから何度もこんなことが起こるのかしら。
そんな胸騒ぎを覚えて、ステファニアはこのまま邸にいては悪い考えしか浮かばないような気がしてきた。
ステファニアは、婚約の初めからニコラスと上手く行かない予感を抱いていた。
だからと言って、この婚約が破談になるのを望んでいたわけではない。
ニコラスは、ステファニアに甘いことも言わないし甘い素振りも見せないし、二人の間に甘い空気が漂うこともない。けれど、彼は彼なりに騎士道に則って正しく婚約者として付き合ってくれていた。
今までは遅刻などはなかったから、今回のような直前でのキャンセルなんて初めてのことだった。
ニコラスが、本心では自分との縁を望んでいない。そう思うのと、そういう確証を目の前で見せられるのとでは大きな違いがある。
そういうステファニアは、ニコラスのことをどう思っているのか。
彼のことは嫌いではない。ただ、本当のことをいうなら、興味を抱かれないことを寂しく思っていた。
ステファニアなりに、彼のことを慕っていた。燃えるような恋心ではないけれど、こんなふうに今までなかった行動を取られると、不安になるくらいには慕っている。
ステファニアが本気で駄目だと諦めたなら、とっくに父や母に泣きついただろう。
彼とはきっと上手く行かないかもしれない。けれどももしかしたら、上手く行くかもいれない。そんなふうに、確証の持てないまま心が揺れていたのは事実だった。
だから、ニコラスが破談を願うだろうと早いうちから覚悟していたのは、臆病なステファニアの心の予防線だったのである。
婚約してから二年をかけて、覚悟という名の心のクッションを抱き締めてきたのである。
朝から青い空が綺麗だった。身綺麗なワンピースを着て待っていた。
このまま私室にいても、くさくさするだけだろう。丁度、インクが切れていたし刺繍糸も欲しかった。ぽっかり空いてしまった時間だから、ステファニアはそのまま侍女に付き合ってもらって街へ買い物に出掛けることにした。
文具店に入ると、お目当てのインクの陳列棚に向かった。
最近は洒落たネーミングのインクが流行っていて、今手にしているのは『月のない宵の空』という濃い群青に黒が混ざったインクである。
『月のない宵』だなんて、どんな空だったかしら。
ステファニアは手にしたインク瓶をじっと見た。漆黒でもなく青でもない。見れば見るほど月のない夜の闇の色に思えた。
それから月に手にしたインクは、『紺碧の水面』という名がついていた。
これはエメラルドグリーンに濃い青が混ざった深海のような色である。どこかステファニアの瞳の色にも似ていて、これは絶対買おうと決めた。
変わり種は深みのある赤だった。赤茶の混ざるバーガンディで『時を超えた赤葡萄』という名であった。
迷いに迷って、結局、その三色全ての購入を決めた。それからついつい水色やオレンジ色に目移りしていたその時、ショーウィンドウ越しに見えた通りの向こうに、知った顔を見つけた。
エルリック・グラハム・ノーマン。
西の辺境伯、ノーマン辺境伯の子息だった。
白銀の髪に青い瞳は、遠目でもすぐに彼だとわかった。
あんな綺麗な白銀の髪は、彼くらいしか知らない。瞳の色も濃く鮮やかで、あまりに綺麗なものだから、できれば正面からじっくり見てみたいと思ったりした。
顎のラインで切り揃えた髪が、童話の挿絵の王子様そのものである。彼は学園で、令嬢たちから密かに『王子』と呼ばれている。
同じクラスに王国の第三王子が在籍しており、本物の王子がいるのになんとも不敬な話であるが、ステファニア自身も王子呼びしたことがあるから人のことは言えなかった。
王子が人目を惹くのは常であったが、今日が常にない光景に見えたのは、彼の横にいる令嬢に原因があった。
漆黒の長い髪。
「え?」
ステファニアは思わず声を漏らしてしまった。
あれは。
濡羽色の黒く長い髪に、墨を落としたような漆黒の瞳。日射しに照らされる白い肌。桃色の口元が、まるで紅を引いているようだ。
通りの向こうから二人がこちらに近付いてくると、その姿がはっきりわかった。
彼女が聖女だ。西の辺境伯領地に現れたという聖女。
聖女のことは、間もなく王都を訪れると聞ていた。そして学園に編入するとも。
彼女が聖女で間違いないと思った。それでエルリックが付き添っているのだろう。
なんて可憐な女性なのかしら。
ステファニアは瞬時に理解した。
ニコラス様はきっと、一目で恋に落ちるだろう。この可憐な女性に心を奪われてしまうだろう。
そうして彼は、ステファニアとの婚約の解消を願い出るのだろう。
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