ヘンリエッタの再婚約

桃井すもも

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「姉上、僕は婚約を結ぶのか怖くなって来たよ。」

晩餐の後、自室へ戻るヘンリエッタをウィリアムが追って来た。ここ数日はピリピリしていたヘンリエッタであるが、ウィリアムは何も悪い事はしていない。寧ろ八つ当たり的に睨みを受けて可哀想なほどであった。
ウィリアムは今年学園に入学しており、そろそろ彼にも婚約者が据えられる年頃である。父はヘンリエッタの婚約が定まったなら次はウィリアムをと考えている筈で、嫡男であるが為に慎重に決めようとしているらしかった。

ウィリアムは聡い子である。
自身の立場も役割も十分承知しているだろう。少年期に姉の婚約解消の騒動を目の当たりにして少なからず影響を受けた筈で、色恋事に対しては殊更慎重に構えているのだろう。

「ウィリアム、誰かに焦がれるのも惹かれてしまうのも決して悪い事ではないわ。心を移してしまうのがいけない事でもないのよ。人の心はままならないわ。どんなに律したとして心を惹かれてしまうのを、誰も責めることなど出来やしない。そうではなくて、心を惹かれてしまったなら、それをどうするかが大切なのだと思うのよ。胸に仕舞って誰にも悟られず心の内に囲い込んだまま生涯を過ごすのか、思いの全てを打ち明けて、全ての責任を引受け果してから求める愛に向き合うのか。どちらにせよ、覚悟を持って決めたなら、後は誠心誠意その為に為せることを為すと言うことだと思うのよ。」

「深いね。深すぎて一層恐ろしいね。」

ヘンリエッタが長々と持論を展開すれば、すかさずウィリアムは尻込みをする様な仕草を見せた。

「貴方、ご縁を得たいご令嬢がいるのかしら?」

学園の一年に在学する令嬢を思い浮かべなてみる。

「多分、姉上が今頭の中で思い浮かべる中には居ないよ。」
「えっ、それって、それ以外には居るという事?」
「どうかな。内緒。」
「内緒の癖に、相談して来るだなんて。」
「なんだか今日の母上に狂気を感じてしまって。」
「確かに。全て阿呆な男共の所為よ。」
「その男共って、僕も一応男なんだけれど、」
「ええ。貴方が将来不埒で不誠実で不義理な事を引き起こしたら、映えある阿呆の仲間入りね、お目出度う。」
「まだ仲間入りしていないからね。益々女の子が怖くなって来た。」
「ふん。」

結局、ウィリアムはヘンリエッタに睨まれて「おお、こわ」と戻って行った。

ウィリアムだって知っているだろう。
父が他に邸を構えている事を。そこに住まわせる女性がいる事を。もしかしたら、探せば異母兄弟姉妹もいるかもしれない。流石に嫡男に影響を与える様な愚かな事を、父が引き起こさないと信じているが。

父と母の婚姻も政略によるものである。父が母との婚姻関係を尊重して、母を本妻と立てて家政も任せて、自身の外での暮らしを悟られないように気を付けているのを誰も責められずにいる。

「では、お母様はそれで幸せ?」

父が家の為に母を妻と迎え入れたとして、それとは別に母にも他に想いを寄せる男性がいたと思わないのか。その男性が今も母を求めているかもだなんて想像してみて、あの美しい母は、一層その方が幸せなのではないかと思った。コソコソ別邸に向かう不実な夫の背を見送るよりも、母を唯一の女性として愛してくれる男性がいるのだとしたら、そんな男性と共にいる方が母は今より数倍幸福なのではなかろうか。

「お母様、終の棲家を考えるのは早計よ。お母様こそ本来もっと愛されるべきよ。」

デヴュタントを迎えたばかりで婚約者の不実に見舞われたヘンリエッタは、男性不信になるあまり自分の事で精一杯であった。母もまた不誠実な行いに涙を飲んだ女性である事を知りながら、それが父が齎した哀しみで、母にも誰かと愛し合える人生があるのかも知れないということに、今になって思い至る。

夫婦や恋人に限らず、信じるべき人を信用出来ないと言うのは、なんて虚しい事だろう。あの夜会の夜に、二年前の夜会の夜に、信じた男が知らない女性を伴うその横顔が蘇った。



一度不信を得てしまった関係は、些細な事を引き金に、何度でもその事を思い出させる。記憶は忘却を許さない。喩え許せたとしても忘れる事など出来ないのだ。

だからヘンリエッタはその事を正直に伝えた。

「貴方とこうして会ったりお話しをすることは出来るけれど、もう友情もそれ以上のものも交わせそうにはないわ。私、きっと必ず思い出すわ。何度も何度も思い出してしまうでしょう。一度貴方に抱いた感情は生涯消せないと思うの。貴方が他に想い合う女性ひとと並び立つ姿を忘れる事は無いと思うの。」

翌日早くに先触れがあって、ヘンリエッタはハロルドを迎え入れた。
秋の日射しが暖かなテラスで、手ずからお茶を振る舞いながら、ヘンリエッタは曲げられない正直な気持ちを打ち明けた。

ハロルドがどんな表情をしているかは、手元の茶器を見つめていたから解らない。
けれどもハロルドが、ほんの一瞬何かを言いかけたのは気配で解った。

ヘンリエッタからお茶を受け取り、ハロルドはひとくち口に含んだ。

「美味しいお茶だね。」

母がメイナード夫人から贈られた茶葉は、香りもそうだがひと口目の風味が爽やかで美味しいお茶であった。

「君と、こんな風にお茶を飲める事を得難い事だと思っている。」

ハロルドはヘンリエッタの榛の瞳を見つめながら、そう言った。




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