ヘンリエッタの再婚約

桃井すもも

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ハロルド・シーモア・ダウンゼン。
三つ年上の婚約者。
艶のある黒髪がヘンリエッタの髪より太く張りがある事を知っている。青い瞳は中心がほんの僅かに榛色を帯びている。それがまるで自分の瞳と同じ様に思えて、そんな僅かな事すら嬉しかった。

十四歳で初めて出会って、幼さの残るヘンリエッタと違って、学園で学び王族に侍るハロルドは、まだ見ぬ大人の世界の男性ひとだった。

この婚約は、国内最大規模の軍馬生産の名門と知られるノーザランド伯爵家と、第二王子殿下の側近候補の子息を持ち当主は宰相補佐官であるダウンゼン伯爵家との、純然たる政略によるものである。

互いにそれを承知の上で会った初見の席で、ヘンリエッタは恋をした。
青い瞳が冴え冴えとして、黒い髪色も相まって大人びた表情に見えるハロルドは、まだ少女の域を出ないあどけなさの残る令嬢へ穏やかな笑みを見せてくれた。

その日から、ヘンリエッタは只の一度もハロルドを疑う事は無かった。清廉な青年の全てを信じて心を寄せた。
不思議な事に、ハロルドはヘンリエッタを大切にしてくれた。秀でた美しさを持っているわけではないのに、そんなヘンリエッタの平凡な瞳を美しいと言ってくれた。
小さな手の小さな指の爪を愛らしいと言ってくれた。

美しい母に似たのは弟のウィリアムで、自身は父親似だと思うヘンリエッタは、お世辞かも知れない褒め言葉を話半分に受け止めながら、その気遣いすら嬉しく思った。

学生でありエドワード殿下にも仕えて登城するハロルドは、多忙であるのにヘンリエッタの邸を度々訪れた。ヘンリエッタもダウンゼン伯爵家に度々招かれた。
穏やかな心の温まる婚約時代を過ごすのを、幸福な事だと思っていた。

手酷い裏切りと信じられない不実の末に婚約を解消する時に、そんな絶望的な場面にあっても、ヘンリエッタは自分を不幸だとは思えなかった。僅か二年であったが、十分大切にしてもらっていたと思う気持ちが、自身を取り巻く一連の出来事からも、ヘンリエッタの心を救ってくれた。

心の奥底に囲い込んで大切に仕舞ったヘンリエッタだけのハロルド。
柔らかな唇、張りのある黒髪の手触り。ヘンリエッタを見る瞳の色、ヘンリエッタの名を呼ぶ声。その記憶は確かにヘンリエッタだけのものだと、その思い出を心の奥底に仕舞い込んで、貴族令嬢ヘンリエッタとして生きて行こうと心に決めた。


「貴方って、本当に最低な人だわ。漸く寝た子を起こすだなんて。私は貪欲で嫉妬深くて手に余る嫌な女になれるのよ。折角過ぎた過去を飲み込んで嫌な女にならずに済むと思っていたのに、どうして起こしてしまったの。」

「君に忘れ去られる方が君の為だと思っていた。だけれど、君を手に入れる可能性が見えた時に、どうして私が君を諦めねばならないのかと思った。望んだ未来を今諦めてしまったら、君を余所に奪われてしまう。私では無い男に連れられて歩く君を見るのはどう考えても嫌だった。」

「勝手だわ。貴方こそ私ではない女性を連れて現れたくせに。」

「魂は、君の下に置いてきた。抜け殻の私が誰と居たとしても、それは本当の私じゃない。」

「本当の貴方は今、何処にいるの?」

「眉を顰めて私を睨む可憐なご令嬢の目の前にいる。」

「眉は顰めているけれど、可憐などではないわ。何処にでもいる平凡な貴族の娘よ。」

「あの背の高い男子生徒。」
「?」
「学園で。君を背にして立つ男子生徒を蹴飛ばしてやりたかった。君を囲い込むように前に立つだなんて。彼の脇から君の髪が見えて、アイツを彼処から引き摺り出してしまいたかった。」
「彼は偶々そこにいた名前も知らない学生よ?」
「それすら諦め切れずに感情を煽られた。」

「どうしてそこまで思えるの?私はそれ程の見目でも家柄でもないわ。家は少しばかり特殊であるけど、私自身は無位なのだから。」

「心を奪われるのに理由があるなら誰も恋などしないんじゃないか。私はそう云う事には疎い男だが、それで良いと思っている。君だけがいてくれれば、もうそれで良いと思っている。」


いつの間にか、ブリジットが新しいお茶を淹れてくれていた。少し渋めの紅茶にはたっぷりのミルクと蜂蜜が入っている。この甘いミルクティーが、ハロルドの好みであるのをブリジットは知っている。

「ヘンリエッタ。」

刺々と尖った感情がまろやかなミルクと蜂蜜の甘さに凪となる。自分の名を呼ぶ声の響きを瞳を閉じて味わう。決して離れないえにしだと疑わなかったのに、呆気なく失ってしまった声音である。

「もう一度。もう一度名を呼んで下さる?」

「...ヘンリエッタ。」

耳朶に響いて溶けて行く。今だけはこの声音は自分だけのものであると、ヘンリエッタは瞳を閉じてその余韻まで味わった。

「君に、再度の婚約を申し込みたい。」

ヘンリエッタはそれに答えない。
そんなヘンリエッタに向かって、ハロルドは続けた。

「許して欲しい。」

それは過去の出来事についてか、再度の婚約の願いについてか。ヘンリエッタには解らなかった。

「駄目よ。」

ハロルドは静かにヘンリエッタを見つめる。

「何も終わっていないもの。」
「話したなら、君は受け入れてくれるか?」
「話して良いの?私達ばかりの事ではないのでしょう?」

青い瞳は揺らがない。その眼差しを、ヘンリエッタは見つめ返した。




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