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ハロルドとの婚約は、時を置かず解かれた。ハロルド有責による破棄となり、ダウンゼン伯爵家には賠償責任が発生した。
エドワードが二年前の経緯をヘンリエッタに明かしたことから、王族由縁の疵をヘンリエッタに負わせた事が明らかとなった。結果、彼女の令嬢としての価値を著しく損なわせた事に加えて、ハロルドから望まれての再婚約もエレノアを抑えきれずに、エレノアの良いようにされた挙句にヘンリエッタに危害が及んだ事をその理由とされた。
二人きりの部屋にいて起こった事は破棄の原因には問われなかった。そこを問うてしまえば、愈々ハロルドの未来は潰えると、ヘンリエッタが責を負わすことを望まなかった。
前の婚約もその解消も、二度目の婚約の話し合いも、これまでは全て両家の父同士で為されていたが、ノーザランド伯爵邸で行われた此度の会合に、ヘンリエッタは自ら望んで同席した。
話し合いの事柄に僅かでも齟齬があって欲しくはなかった。最後は自分自身で確かめて見届けたいと思った。
話し合いが終わって全ての書類に署名がされて、ダウンゼン伯爵からもヘンリエッタへ長きに渡って瑕疵を与えた事を詫びられた後、ヘンリエッタとハロルドは僅かな時間、二人きりの会合の機会を許された。
扉は僅かに開かれて、外には父の従者とブリジットが控えている。お茶が饗されることも無い。
「ヘンリエッタ嬢、申し訳無かった。」
「それは、何に対して。」
「全て、としか言えない。」
あの夜会の夜から幾日も経っていないのに、ハロルドの表情は益々濃い影を帯びて、冴え冴えと鋭さを増した顔は一層美しくさえ見えた。
「貴方だって犠牲者だわ。」
エドワードに侍るのに、我が身を差し出したハロルド。彼自身の選択とはいえ、彼とて多くを犠牲にした。それは青年が背負う忠臣にしては、大き過ぎるものであったろう。
「君を諦められたかと言えば、正直、今はそうだと言えない。しかし、時が経てばいつか薄れるものと、それを頼りにしている。」
「貴方には、お仕えする大切なお方がおられるわ。これから益々深く政の世界を歩まれる。終わった縁を振り返る暇は無くなるでしょう。貴方の御武運を、私も陰ながらお祈りさせて頂きます。」
「君の、君の書いた物語を読ませてもらった。言葉の選び方、流れる様な文脈が、とても君らしいと思った。まだ文を交わしていた頃を思い出したよ。あの文は、今も大切にとってある。私は君に辛い思いばかりを強いた。あの物語を読み進めるのは、実は結構堪えたよ。だが、君のこれからの物語を楽しみにしている。君の幸せを願っている。君を愛したことを忘れない。君の唇も肌の温もりも全て。それを許してもらえないだろうか。」
あの夜の荒々しく濃厚な口付けを思い出す。恋人から齎されたのに、ヘンリエッタはそれから逃げ出そうと藻掻いた。けれども今は、そこにハロルドのヘンリエッタに向ける愛の強さが感じられ、この目の前の男性に、確かに大切に愛されていたのだと思った。
不器用な恋人達は、置かれた環境も相まって、当たり前の穏やかな愛を育む事を許されなかった。それでもヘンリエッタにとっては苦しさの中に失わない耀きを与えてくれた初恋で、もしかしたらハロルドにとってもそうであったのかも知れない。
「貴方様を、私、心からお慕いしておりました。貴方の幸せを、私も心から願っております。」
そう言って右手を差し出せば、ハロルドもそろりと右手を差し出して、二人、最後の握手を交わした。あの宝飾店で婚約の申し込みを受け入れた際に、ハロルドは宝飾店の支配人と固い握手を交わしていた。今度はヘンリエッタが差し出した別れの握手でこの関係の幕引きとした。
ハロルドとの関係が終わりを迎えて、流石のヘンリエッタも少しの間、心が沈んだ。自ら選んだ道であったが、思い出されるハロルドとの日々、特に再婚約を結ぶまでのハロルドと過ごした彼の表情や会話が思い出されて、それらを思い出とするのに時間を要した。
一層の事、ハロルドがただの悪人で、手酷い仕打ちを受けていたならこれ程時間を要する事も無かったろう。
青春の全てを捧げた恋を弔うのに、冬の閉塞的な季節は丁度良かったのかもしれない。パチパチ爆ぜる暖炉の炎を見つめながら、一日一日心の中の思い出に別れを告げて手放した。
そうして思い出の弔いを終えた頃、新たな物語を執筆する事にした。
学園は休みであるし、元々引き籠もりのヘンリエッタに時間だけは潤沢に与えられていた。
当主教育や剣の稽古があるウィリアムの方が、余程ヘンリエッタより多忙である。
両親の庇護の下、令嬢と云う身分に守られて来たことを痛感しながら、独り立ちの術となる文筆に向かい合う。
前作のエピローグは、女性としては哀しい終わりを迎えていた。次の物語には、明るい未来を与えたい。読み手に勇気が伝わるような、読後に清々しい希望が残るような。
これから先の物語は、ヘンリエッタの心が生み出す架空の世界の出来事である。
ヘンリエッタが思う主人公の姿とその生き方を描いてゆく。
そう思うだけで、ヘンリエッタの胸の内に新たな光が湧いて、マルクスが用意してくれた原稿用紙に向かいながら、さあ新しい人生をこの紙面から生み出そう、きりりと冷えた冬の朝に、そう思うのだった。
エドワードが二年前の経緯をヘンリエッタに明かしたことから、王族由縁の疵をヘンリエッタに負わせた事が明らかとなった。結果、彼女の令嬢としての価値を著しく損なわせた事に加えて、ハロルドから望まれての再婚約もエレノアを抑えきれずに、エレノアの良いようにされた挙句にヘンリエッタに危害が及んだ事をその理由とされた。
二人きりの部屋にいて起こった事は破棄の原因には問われなかった。そこを問うてしまえば、愈々ハロルドの未来は潰えると、ヘンリエッタが責を負わすことを望まなかった。
前の婚約もその解消も、二度目の婚約の話し合いも、これまでは全て両家の父同士で為されていたが、ノーザランド伯爵邸で行われた此度の会合に、ヘンリエッタは自ら望んで同席した。
話し合いの事柄に僅かでも齟齬があって欲しくはなかった。最後は自分自身で確かめて見届けたいと思った。
話し合いが終わって全ての書類に署名がされて、ダウンゼン伯爵からもヘンリエッタへ長きに渡って瑕疵を与えた事を詫びられた後、ヘンリエッタとハロルドは僅かな時間、二人きりの会合の機会を許された。
扉は僅かに開かれて、外には父の従者とブリジットが控えている。お茶が饗されることも無い。
「ヘンリエッタ嬢、申し訳無かった。」
「それは、何に対して。」
「全て、としか言えない。」
あの夜会の夜から幾日も経っていないのに、ハロルドの表情は益々濃い影を帯びて、冴え冴えと鋭さを増した顔は一層美しくさえ見えた。
「貴方だって犠牲者だわ。」
エドワードに侍るのに、我が身を差し出したハロルド。彼自身の選択とはいえ、彼とて多くを犠牲にした。それは青年が背負う忠臣にしては、大き過ぎるものであったろう。
「君を諦められたかと言えば、正直、今はそうだと言えない。しかし、時が経てばいつか薄れるものと、それを頼りにしている。」
「貴方には、お仕えする大切なお方がおられるわ。これから益々深く政の世界を歩まれる。終わった縁を振り返る暇は無くなるでしょう。貴方の御武運を、私も陰ながらお祈りさせて頂きます。」
「君の、君の書いた物語を読ませてもらった。言葉の選び方、流れる様な文脈が、とても君らしいと思った。まだ文を交わしていた頃を思い出したよ。あの文は、今も大切にとってある。私は君に辛い思いばかりを強いた。あの物語を読み進めるのは、実は結構堪えたよ。だが、君のこれからの物語を楽しみにしている。君の幸せを願っている。君を愛したことを忘れない。君の唇も肌の温もりも全て。それを許してもらえないだろうか。」
あの夜の荒々しく濃厚な口付けを思い出す。恋人から齎されたのに、ヘンリエッタはそれから逃げ出そうと藻掻いた。けれども今は、そこにハロルドのヘンリエッタに向ける愛の強さが感じられ、この目の前の男性に、確かに大切に愛されていたのだと思った。
不器用な恋人達は、置かれた環境も相まって、当たり前の穏やかな愛を育む事を許されなかった。それでもヘンリエッタにとっては苦しさの中に失わない耀きを与えてくれた初恋で、もしかしたらハロルドにとってもそうであったのかも知れない。
「貴方様を、私、心からお慕いしておりました。貴方の幸せを、私も心から願っております。」
そう言って右手を差し出せば、ハロルドもそろりと右手を差し出して、二人、最後の握手を交わした。あの宝飾店で婚約の申し込みを受け入れた際に、ハロルドは宝飾店の支配人と固い握手を交わしていた。今度はヘンリエッタが差し出した別れの握手でこの関係の幕引きとした。
ハロルドとの関係が終わりを迎えて、流石のヘンリエッタも少しの間、心が沈んだ。自ら選んだ道であったが、思い出されるハロルドとの日々、特に再婚約を結ぶまでのハロルドと過ごした彼の表情や会話が思い出されて、それらを思い出とするのに時間を要した。
一層の事、ハロルドがただの悪人で、手酷い仕打ちを受けていたならこれ程時間を要する事も無かったろう。
青春の全てを捧げた恋を弔うのに、冬の閉塞的な季節は丁度良かったのかもしれない。パチパチ爆ぜる暖炉の炎を見つめながら、一日一日心の中の思い出に別れを告げて手放した。
そうして思い出の弔いを終えた頃、新たな物語を執筆する事にした。
学園は休みであるし、元々引き籠もりのヘンリエッタに時間だけは潤沢に与えられていた。
当主教育や剣の稽古があるウィリアムの方が、余程ヘンリエッタより多忙である。
両親の庇護の下、令嬢と云う身分に守られて来たことを痛感しながら、独り立ちの術となる文筆に向かい合う。
前作のエピローグは、女性としては哀しい終わりを迎えていた。次の物語には、明るい未来を与えたい。読み手に勇気が伝わるような、読後に清々しい希望が残るような。
これから先の物語は、ヘンリエッタの心が生み出す架空の世界の出来事である。
ヘンリエッタが思う主人公の姿とその生き方を描いてゆく。
そう思うだけで、ヘンリエッタの胸の内に新たな光が湧いて、マルクスが用意してくれた原稿用紙に向かいながら、さあ新しい人生をこの紙面から生み出そう、きりりと冷えた冬の朝に、そう思うのだった。
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