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「まあ、デイビッド。久しぶりね。」
浮かれていると必ずこうなる。
感想を聞かれても、記憶が朧気である位には浮かれてしまったアナベルに、釘を刺すような出来事であった。
「ああ、君も来ていたのか、アデレード。」
朗らかにデイビッドが答える。
傍からみれば、劇場のホールで見知った二人が言葉を交わす、只それだけの事であったが、アナベルはこれは天からの警告だと思わずにはいられなかった。
美しい女性である。何処の貴族夫人であろうか。いや、まだ未婚の令嬢であるかもしれない。
照明の下で濡羽色の黒髪が艷やかに燦いて黒曜石を思わせた。
社交に疎いアナベルには彼女が何者なのかさっぱり分からなかった。只、アデレードという名ばかりは記憶に残って、母か姉に聞いてみようと思った。
ところが当の婦人はアナベルには目もくれない。まるで其処には誰もおらず、デイビッドと唯二人きりの様に話しを続ける。デイビッドにしてもそうで、アナベルはすっかり蚊帳の外に置かれていた。
何とか笑みを浮かべてデイビッドの横に侍って、一体何処へ視線を向けて良いのやら分からなくなって、途方に暮れながら二人の会話が終わるのを待っていた。
「ではご機嫌よう、デイビッド。」
「ああ。」
互いに名を呼び捨てに出来る間柄。
アナベルをいないものと無視する思惑。
どう考えてもデイビッドのそう云う関係者ではなかろうか。どんな関係?聞くだけ野暮なのはアナベルでも分かってしまう。
小娘にも分かるほどの雰囲気を、あの婦人は漂わせていた。
何よりアナベルを失望させたのはデイビッドであった。
婦人と別れてからも、彼女が誰であるのか、どんな関係であるのか、取り繕うことも説明することも無かった。
寧ろ、たった今彼女と出会ったことなどすっかり忘れている風でもあった。つい先程の出来事であるのだし、短くない時間をアナベルは横で待っていたのだから、流石にそれは有り得ない。
ここに来るまでの馬車の中でのウィットに富んだ会話も、それに解された心も、美しいと褒めてくれた言葉も、それに浮かれた自分も、全て元の木阿弥となってしまった。
誘われなければ良かった。邸に着く頃には、そんなことすら考えていた。
元から大人しいアナベルの変化には、デイビッドは気付いていないらしく、帰りの馬車の中でも穏やかに話しを振ってくる。
「ええ」とか「そうなのですね」と当たり障りの無い返事を、アナベルが絡繰人形の様に繰り返しているのにも気付かぬらしい。
「デイビッド様、今日は有難うございました。」
別れの挨拶に、楽しかったと告げなかったのは、アナベルの最後に残った意地であった。
「どうだった?」
喜んで帰って来るであろう妹を予想していたらしい姉達に、「最悪」と答えてしまいそうになって、「ええ、余り集中出来なくて覚えていないの」と、演目についてだけの感想を話した。
婚約者とは円満な関係である姉達は、何の疑問も持たなかったらしく、晩餐の席でも再び話題に登ることは無かった。
一人になって寝台に横たわると、考える事は自ずと今日の出来事であった。
もう心変わりも裏切りも真っ平だ。
騙すのなら最後まで騙し通して欲しい。
女の影も他へ寄せる思いも、私には一滴だって見せないで欲しい。
「貴方なら出来るでしょう?」
アナベルでは到底太刀打ち出来ない大人の男に、嘘を付くなら最後までつき通して欲しいと願うのであった。
互いに何かが足りなかったらしいデズモンドとの婚約での失敗を、再び繰り返したくはなかった。けれども、元来が不器用である自分では、何度繰り返しても同じ道を辿ってしまう。
もう一層のこと婚姻などせずにガヴァネスにでもなって、生涯独り身を通す事を選べば良かった。
父に言われるままに舌の根も乾かぬ内に婚約を結んで、今度こそは大丈夫とすっかり安心してしまった。
何故姉達の様な、当たり前の婚約関係を築けないのだろう。
自分が悪いのか、相手が悪いのか。
夜半に独り、寝床で考え込むのに良い結果があった試しは無い。
何処までも深く沈み込む思考が、最適解を探し当てた事など無かった。
考え抜いて導き出した結末は、見て見ぬ振りを通して知らぬ振りで付き合う事であった。
まんじりともせずに目覚めた翌朝、届けられた白紫陽花に、どこか手を抜かれたような二番煎じの感を覚えて、なんだか白けてしまったアナベルであった。
マーガレットばかりが、お姉様素敵ね、いいなあ素敵な婚約者様がいらしてと、乙女らしく燥(はしゃ)いでいて、これ程可憐であったならこんな苦労とは無縁だろうと妹を羨ましく思ったのだった。
浮かれていると必ずこうなる。
感想を聞かれても、記憶が朧気である位には浮かれてしまったアナベルに、釘を刺すような出来事であった。
「ああ、君も来ていたのか、アデレード。」
朗らかにデイビッドが答える。
傍からみれば、劇場のホールで見知った二人が言葉を交わす、只それだけの事であったが、アナベルはこれは天からの警告だと思わずにはいられなかった。
美しい女性である。何処の貴族夫人であろうか。いや、まだ未婚の令嬢であるかもしれない。
照明の下で濡羽色の黒髪が艷やかに燦いて黒曜石を思わせた。
社交に疎いアナベルには彼女が何者なのかさっぱり分からなかった。只、アデレードという名ばかりは記憶に残って、母か姉に聞いてみようと思った。
ところが当の婦人はアナベルには目もくれない。まるで其処には誰もおらず、デイビッドと唯二人きりの様に話しを続ける。デイビッドにしてもそうで、アナベルはすっかり蚊帳の外に置かれていた。
何とか笑みを浮かべてデイビッドの横に侍って、一体何処へ視線を向けて良いのやら分からなくなって、途方に暮れながら二人の会話が終わるのを待っていた。
「ではご機嫌よう、デイビッド。」
「ああ。」
互いに名を呼び捨てに出来る間柄。
アナベルをいないものと無視する思惑。
どう考えてもデイビッドのそう云う関係者ではなかろうか。どんな関係?聞くだけ野暮なのはアナベルでも分かってしまう。
小娘にも分かるほどの雰囲気を、あの婦人は漂わせていた。
何よりアナベルを失望させたのはデイビッドであった。
婦人と別れてからも、彼女が誰であるのか、どんな関係であるのか、取り繕うことも説明することも無かった。
寧ろ、たった今彼女と出会ったことなどすっかり忘れている風でもあった。つい先程の出来事であるのだし、短くない時間をアナベルは横で待っていたのだから、流石にそれは有り得ない。
ここに来るまでの馬車の中でのウィットに富んだ会話も、それに解された心も、美しいと褒めてくれた言葉も、それに浮かれた自分も、全て元の木阿弥となってしまった。
誘われなければ良かった。邸に着く頃には、そんなことすら考えていた。
元から大人しいアナベルの変化には、デイビッドは気付いていないらしく、帰りの馬車の中でも穏やかに話しを振ってくる。
「ええ」とか「そうなのですね」と当たり障りの無い返事を、アナベルが絡繰人形の様に繰り返しているのにも気付かぬらしい。
「デイビッド様、今日は有難うございました。」
別れの挨拶に、楽しかったと告げなかったのは、アナベルの最後に残った意地であった。
「どうだった?」
喜んで帰って来るであろう妹を予想していたらしい姉達に、「最悪」と答えてしまいそうになって、「ええ、余り集中出来なくて覚えていないの」と、演目についてだけの感想を話した。
婚約者とは円満な関係である姉達は、何の疑問も持たなかったらしく、晩餐の席でも再び話題に登ることは無かった。
一人になって寝台に横たわると、考える事は自ずと今日の出来事であった。
もう心変わりも裏切りも真っ平だ。
騙すのなら最後まで騙し通して欲しい。
女の影も他へ寄せる思いも、私には一滴だって見せないで欲しい。
「貴方なら出来るでしょう?」
アナベルでは到底太刀打ち出来ない大人の男に、嘘を付くなら最後までつき通して欲しいと願うのであった。
互いに何かが足りなかったらしいデズモンドとの婚約での失敗を、再び繰り返したくはなかった。けれども、元来が不器用である自分では、何度繰り返しても同じ道を辿ってしまう。
もう一層のこと婚姻などせずにガヴァネスにでもなって、生涯独り身を通す事を選べば良かった。
父に言われるままに舌の根も乾かぬ内に婚約を結んで、今度こそは大丈夫とすっかり安心してしまった。
何故姉達の様な、当たり前の婚約関係を築けないのだろう。
自分が悪いのか、相手が悪いのか。
夜半に独り、寝床で考え込むのに良い結果があった試しは無い。
何処までも深く沈み込む思考が、最適解を探し当てた事など無かった。
考え抜いて導き出した結末は、見て見ぬ振りを通して知らぬ振りで付き合う事であった。
まんじりともせずに目覚めた翌朝、届けられた白紫陽花に、どこか手を抜かれたような二番煎じの感を覚えて、なんだか白けてしまったアナベルであった。
マーガレットばかりが、お姉様素敵ね、いいなあ素敵な婚約者様がいらしてと、乙女らしく燥(はしゃ)いでいて、これ程可憐であったならこんな苦労とは無縁だろうと妹を羨ましく思ったのだった。
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