アナベルの二度目の婚約

桃井すもも

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「さあさ、貴方もご覧になって。」
「どれどれ、うむむ、確かにこれは素晴らしいな。職人の手のものと言われても分からないな。」

どれどれと机上に広げられたハンカチに、伯爵が頭を寄せる。
伯爵も例に漏れず老眼なのだと云う。

夫婦で頭を並べて同じ姿勢でハンカチを覗き込む姿が微笑ましい。

グレイ伯爵夫妻は寛容な人柄であった。
アナベルの両親も気さくな社交家ではあるが、それとも違う穏やかな貫禄と思慮深さが伺われて、やはりデイビッドはこの夫婦の子息なのだと納得した。

「父上、母上も。そんなに見つめては生地が薄くなりますよ。」
「減るもんじゃああるまいし、ケチな事を言っても無駄よ。これは我が邸に頂戴しましたの。貴方の文句は受け付けませんよ。」

ユーモアとウィット、そこに鷹揚で優雅な仕草。
爪の垢を貰って帰って、父と母にも煎じて飲ませてやりたい。

額装すると云うのはどうやら本気であるらしく、何処へ飾ろうかしらと夫人が部屋を見渡している。

温かな家族だ。
アナベルは、柔らかなものに包まれたような安堵を覚えた。

初見の席でも、夫妻はアナベルの来訪を喜んでくれた。
緊張で固まる若い令嬢には粗相もあろうに、そんな細かい事には目もくれず、漸く我が家に娘が出来たと言ってくれた。

四姉妹の中で、最も手が掛からず、最も大人しい。そして、唯一生まれた事を父親に失望させた娘である。
こんな自分が居場所を認められた。その喜びが胸に熱くなる。

晩餐の席は穏やかな笑いに包まれた。
爺と婆ばかりでは静かなものよ、葬儀の練習をしているみたいよ、と夫人が言えば、
いやいや、そんな事は無いよ。君が姦しいからね、と伯爵が訂正する。
晩餐の席は始終そんな感じで、アナベルは心も身体もすっかり解れて、和やかな晩餐を楽しんだ。


「疲れただろう。」
晩餐を終えてお茶を楽しみ夜も更けた。

星空が美しいのだと誘われて、テラスに出ると、夜気の冷たさにアナベルを気遣ってデイビッドがショールを肩に掛けてくれた。

「寒くないか?」
そう言いながら、そっと後から抱き締められる。

「いいえ、暖かいわ。」貴方がいるから、と皆までは恥ずかしくて言えなかった。

夜空が美しい。
王都は美しい都であるが、それ故に星が淡い。夜空すら瞬く街の灯りに染められて、星の瞬きも霞んでしまう。

ここは夜の闇が深い。
漆黒の中に群青が混じり、まるでそこに振りかけた様に星々が一面を飾り瞬く。

夜の星に名があることは知っている。
明けの明星と宵の明星が名を変えた同じ星なのも知っている。
けれども、これ程の星が夜空に瞬くのを、アナベルは初めて知った。
空一面のキャンバスを星々が飾っている。

「貴方の領地は美しいもので溢れているわ。」思わず漏れた言葉であった。他意の無い本心である。

「君の領地でもある。」
だから、無防備なまま聞いた言葉に胸が震えた。言っても良いだろうか。

「貴方の妻になって良いの?」
契約は結ばれて覆ることは無い。過去に覆した男がいたが、とうに忘れた。
この婚姻は既に決まったもので、アナベルはまごう事の無いデイビッドの妻となる。
アナベルが言いたかったのは、本心からの妻と認めてくれるか、そこに愛を与えてくれるか、そう云う問いかけてあった。

「君以外、誰と?」
意地悪な大人の男が何を言っても嘘くさい。なぜだか信じ切れないアナベルは吹き出してしまった。

「何が可笑しい?」
嘘が上手な貴方が可笑しいの。と言ったら怒るだろうか。

疑り深い令嬢は、自分の女としての魅力を信じる事が出来ずにいる。
男にも過去があって当然なのを解りながら、潔癖な若さがそれを過ぎた事だと認められずに疑っている。言葉巧みに言い含められているのだ、それ程自分は美しくもなければ魅力的でもない。
濡羽色の漆黒の髪でもないし、大人の女の艶めかしさも無い。

だから疑ってしまうのだ。
どれ程までに愛情らしきものを示されても。
力強く抱き締められて、息も詰まる口付けを与えられて、それに溶かされ焦がされても、真実愛しているのは自分ばかりなのだと思い込んでいる。
だから、男の心情に気付きもせずに、迂闊にも無垢で無防備な顔を晒しているのにも気が付かない。

一人寝の寝室にデイビッドが現れて初めて、アナベルは自分の愚かしさを知った。
デイビッドは優しく穏やかな紳士であるけれど、それは貴族が見せる表の顔であって、欲を求める本性からの顔をこれから自分は知るのだと。





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