アナベルの二度目の婚約

桃井すもも

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天と地が分からない。
言葉を出そうにも喘ぐばかりで声にならない。我慢して声を呑み込むのを

「堪えるなアナベル、」
力を抜けとデイビッドが言う。

はっはっと息を逃すのが精一杯で、何を言われても何も考えられない。

与えられる快楽は、この世で初めて知るものであるのに、遠い昔から生まれる前から知っている、そんな不思議な感覚であった。

痛みが愛おしい。
苦しみが愛おしい。

自分より遥かに大きく重い体躯に伸し掛かられて、前も後ろも分からぬ抱擁に、酸素を求めて息を大きく吸い込もうとすれば、それすら濃密な口付けに塞がれる。

固く瞑っていた瞳を開ければ、青い瞳が射抜いていた。見慣れた青に赤みが刺して見えたのは幻だったのか。
欲している。
デイビッドの瞳に確かな欲情が見えて、心が喜びに震える。

どうしてわかるのか、アナベルでは到底解らぬポイントを、デイビッドはまるで自分の身体のように攻めてくる。
自分の身体なのにそんな事は知らない。
沸き上がる快楽が思考を奪って、もう何も考えられない。
ただ揺り籠に揺られる赤児の様にデイビッドに揺らされて、何もかもを手放し全てを委ねた。

デイビッドが倒れてくるのを両の手で受け止めて、息の整うのすら待てずに再び唇を合わせる。

この世に初めからあった凸と凹のパーツが、漸くぴたりと合わさった寸分の隙間も無い結合に、ひとつになるとはこう云う事なのだと、アナベルは滲む涙を愛する男の口付けで吸われながら思った。



「辛くはないか?」
辛くはないが恥ずかしい。

互いに汗に塗(まみ)れて見つめ合う。
汚れた身体を清められて、自分で出来ると言えば、これは夫の務めなのだと返された。まだ夫ではないのに。

柔らかな布で拭き清めらるのを、どうしてそんな物が用意されているのかは考えない事にした。
理性が戻れば羞恥を感じる。
明日、この部屋を整える使用人には全て分かってしまうだろう。伯爵夫妻にも伝わってしまうかもしれない。
婚前に端(はした)ない娘だと蔑まれるかもしれない。何より恥ずかしい。覗き込む男が恥ずかしい。

「そんなに見ないで」
「見つめても減らないと母は言っていたが」
「それはハンカチの事よ」

幼子を宥めるようにデイビッドに髪を梳かれて、心地の良さに目を細める。
それをすっかり分かったらしいデイビッドに触れる口付けを落とされた。

「遠乗りに行こう。」
君に見せたい処があるんだ、とデイビッドが言う。

「馬で行こうか、二人乗りで。」
「馬は無理よ」
「あー、悪かった。」
無理をさせた自覚があるらしいデイビッドが考えを改めて、
「では馬車で行こう。」
そう言われるのすら恥ずかしい。

宵闇の中で良かった。赤く茹だった顔を見られずに済んだ。
二人きりの寝台で、こんな場面でも気安く話せるデイビッドは大人である。どこで何を経験して大人になったか知らないけれど。
悋気に囚われそうになって思い留まる。

この時間を一秒たりとも無駄にしたくない。
互いの身体を味わい尽くした後には、直に触れる肌の温もりと他愛のないお喋りを、心ゆくまで楽しんでいたい。

もう昨日の自分に戻れないと、あの夜会の夜の口付けに思ったのに、あれは何も知らない生娘の台詞であったのだと思い知った。

後にも先にもこれ程の幸福を知ることは無いだろう。
幸せな微睡みに飲み込まれて、温かな胸に包まれた。

 

「湖はどうだったかしら?」
晩餐の席で夫人に尋ねられた。

昨夜の事を知られているのではと恥ずかしく、朝食の席では目を合わせずらかった。
けれども、変わらぬ穏やかな笑みに迎えられて緊張も徐々に解れ、湖へ出掛ける際にも、冷えてはいけないと暖かなショールを肩に掛けてもらった。
その仕草が昨夜のデイビッドとそっくりで、ああやはり親子なのだと笑みが零れた。


「素晴らかったですわ。」
言葉が見当たらず恥ずかしいと言えば、

「美しいものの前では言葉は出ないものよ。」と穏やかな笑みで返してくれた。


「デイビッド、貴方」
夫人がデイビッドに顔を向けて
「指輪は用意してあるの?」そう続けた。

「ええ、王都の宝石店で「ああ、駄目よ、駄目駄目。」
駄目駄目と夫人が人差し指を左右に振る。
それから執事に目配せすると、程なくしてトレイに何かを乗せた執事が戻って来た。
それを受け取り、そのままアナベルに手渡す。食事の席ではあるが共に立って腕を伸ばして受け取った。

「やめてくれ、母上。それではまるで母上の妻ではないか。」
「黙らっしゃい。」
「ああ、デイビッド、メアリーの言う通りだよ。」日和見的なのんびり声で伯爵が窘める。メアリーとはデイビッドの母の名である。

「開けてみて。」

掌に乗せても分かる重厚な箱は、小さいけれど緻密な装飾が施されて、アナベルは一瞬、この小箱が贈り物なのかと戸惑った。
そんな戸惑いを知ってか知らずか、瞳を輝かせた夫人が、さあ開けろと目で訴えてくる。

大粒のサファイアであった。
爪の形から古い物だろう事が伺われた。

「ジェームズの母から譲られたの。婚約式の後に。」ジェームズとは伯爵の事である。

「お義母様はその義母から譲られたのだそうよ。その義母はそのまた義母から。」

「貴女は五代目ね。」
その言葉を聞き終える前に、涙が溢れて零れ落ちた。
止めようとも止まらずに、ぽろぽろ零れ落ちる涙に周りはあたふた慌てるも、涙の湖に瞳が沈んでしまったアナベルには、ただ青い色だけがぼやけて滲んで見えていた。





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