ビアトリスの象牙の小箱

桃井すもも

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第四十章

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「ビアトリスお義姉様!」

 妖精に呼びかけられたのかしらと思ったビアトリスは、声のほうへ振り向いた。

 今日は学園が休みの日で、ビアトリスは久しぶりに邸にいて、のんびりとティールームから晩秋の庭を眺めていた。
 その姿を庭から見つけたらしい少女は、どうやら外から駆け戻ってきたらしい。

「まあ!私の妖精さん、走ってはいけないわ。貴女が転んでしまったら、後で護衛は打ち首獄門よ」

 そう言えば、少女は恥ずかしそうにもじもじしながら、「申し訳ありません」と頬を染めてビアトリスを見た。それから「あ」と思い出したように、カーテシーで挨拶をした。

「まあイーディア、とっても美しいカーテシーだわ。息を呑んでしまうほど。やっぱり私の妖精さんはなにをしても可憐だわ」

 少女のカーテシーは、指先まで美しかった。そばにいた侍女たちもビアトリスの後ろに控えていたマチルダも、「確かに」と頷いた。

 豊かな金色の髪をハーフアップに結っているのは、憧れのビアトリスをリスペクトしているからだという。

 自分のどこにそんな価値があるのか、地を這う自己評価しかないビアトリスには、そのあたりの感性が全く理解できない。

 まだデヴュタントを迎える前のあどけなさが残る顔立ち。だが、彼女は間もなく大化けするとビアトリスは思っている。きっと必ず、匂い立つ大輪の花を咲かせるだろう。

 この子が学園に入ったなら、その魅力に数多の子息が虜にされて、アメリアの再来と言われてしまうに違いない。

 ビアトリスのイーディア贔屓は相当で、若干盛り過ぎるきらいがある。

 イーディアはカーテシーの姿勢から戻ると、もう我慢できないとばかりに競歩並みの速さでビアトリスに歩み寄った。

「ビアトリスお義姉様。ご機嫌よう」

 こちらを見上げる潤んだ瞳は榛色で、翠の奥に焦げ茶が混ざる色が綺麗だと思う。

 かつての婚約者だったウォレスも榛色の瞳だった。だが彼は、それが高位貴族らしくないと嫌っていた。

 自分の身体や容姿を嫌うことは、哀しいことである。ビアトリスだってコンプレックスなら幾つもある。けれど、ハロルドがそこも含めてビアトリスだと認めてくれて救われた。ビアトリスは、自身の欠点を愛せるようになっている。

 目の前の少女の瞳も美しい。それはきっと彼女もまた、その瞳も髪も容姿も気質も、全てを愛されているからだろう。

 イーディアは、ルーファスの婚約者である。
 彼女は十三歳で、ルーファスとは五歳年の差がある。
 侯爵家の令嬢であるが三女の彼女は、姉や兄たちほど厳しくされず、自由に育ったようである。

 ビアトリスはわかる。要は、目が行き届かずに放任され気味だったのだ。なぜならビアトリスがそうだったから。
 賢い姉たちと、太陽とか星とかに例えられるルーファスに挟まれて、誰の手も焼かない、記憶に残らない、そんな平凡令嬢がビアトリスなのである。

 ビアトリスをイーディアが慕うのは、双子のルーファスと面立ちが似ているからだろう。ルーファスもどちらかといえば童顔であるから、婚約者の面影をその姉に見るのだろう。

「私の妖精さん、貴女の婚約者はどこに行ったのかしら?」

 こんな可愛い婚約者を、いつまで放置しているのか。ルーファスのどこ吹く風的な顔を思い浮かべて辺りを見回した。

「おや?あんなところにルーファスが」
「まあ!私ったら走ってきちゃったからルーファス様を置いてけぼりにしてしまいましたわ」

 してしまったのか。

 ビアトリスより背の低いイーディアを見れば、頬を染めて瞳をうるうるさせている。 

 榛色の瞳は今なお澄んで、世間の穢れを知らないこの婚約者を、ルーファスは汚染を避けて囲い込むように大切に愛している。
 イーディアと会う日には、エリックの側付きも辞して、ウォレスのような土壇場キャンセルなんてことは、ルーファスに限ってあり得ない。


「イーディア。走っては危ないよ」

 置いてけぼりにされたルーファスが追いついて、イーディアの髪を撫でる。こんな甘いルーファスは、イーディアの前でしか見られない。

 ルーファスの内面は決して甘い人物ではない。冷めた思考は外見の甘さで中和されているが、エリックに見込まれるほどにはキレ者である。
 双子なのに残念なほど大違いであるが、彼は生まれたときから磨かれている我が家の珠宝なのである。

「ビアトリスお義姉様がお嫁に行かれてしまうのは、とても淋しいです」

「そうだね、イーディア。本当は、ずっとこの邸にいて花を育ててくれる筈だったんだけれどね。イーディアは花が好きだからね」

 ウォレスとの破談で行き場を失うビアトリスの、その後の面倒を見ると言ったルーファスだった。あれは弟の姉への愛だと信じたい。

「ビアトリスお義姉様の婚約者様も、とても素敵なお方ですわ」

 途端にルーファスが眉をひそめた。駄目よイーディア、それ以上言っては!
 だがイーディアの言葉は本当だから、ビアトリスも頷いた。

「ええ。素敵なお方よ。こんな平々凡々の私の中から、数少ないプラスポイントを見つけ出すのが超絶上手いのですもの」

 お陰でビアトリスはコンプレックスも欠点も、自分の「味わい」だと愛せるようになっていた。
 そうなって初めて思ったのは、ウォレスのことだった。

 ビアトリスはウォレスの瞳を綺麗だと思っていた。綺麗なものは綺麗だと、彼に伝えればよかった。愛されていないとか良好な仲ではないとか、そんなことは別にして、彼にちゃんと伝えていたら、ウォレスは自分のコンプレックスに愛しさを見いだすことができたのだろうか。

 そんなウォレスとは、もう学園でも顔を合わせていない。エリックの側近候補からは降りていたし、もしかしたらハロルドが、そっと避けてくれていたのかもしれない。

 ビアトリスは、無性にハロルドの顔が見たいと思った。自分の中にこんな恋する乙女が住んでいたなんて、自分が一番驚いている。

 叔母は留学生と婚約してからとても幸せそうで、そしてとても綺麗だった。鏡を見つめていた叔母は、きっと婚約者のことを思い浮かべていたのだろう。

 ビアトリスは気づいていない。
 イーディアが、ビアトリスの姿を鮮やかな記憶として留めることを。
 夫の姉が隣国に渡る前に、愛し愛され輝いて、光を放つように美しかったと、いつまでも心の奥に思い出として留めておくことを。



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