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第七章
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感情を露わにすることに、ロウェナは全く慣れていない。その前に、元より激しい感情を持ち合わせてはいなかった。
激昂とは、あんな気持ちだったのか。
それを見せてしまったのが、よりによって婚約者だなんて。
何度目かわからない、ゴム毬が萎んでしまう感覚に、ロウェナはレイモンドに手を握られたまま俯くことしかできなかった。
「ごめんなさい」
「なにに謝っている?」
なにに謝りたいのかは、自分でもよくわからなかった。
声を荒らげたこと?
嫌いって言ったこと?
乱暴な口調になってしまったことか?
令嬢としても婚約者としても、至らないのはエイブリンばかりでなくロウェナも同じだと思う。
「君が僕の一番だと、そう言ったよね」
その言葉に俯いていた顔をのろのろと上げれば、視線はレイモンドの青い瞳とぶつかった。
ロウェナの胸の中はこの短い間に、まるでモンスーンが吹き荒れるように右に左に揺さぶられていた。
それなのに、レイモンドは初夏を思わせる日射しの下で、涼し気な目元を細めてロウェナを見ていた。
この魅惑的な婚約者に、どうにも敵いそうになかった。再び俯きかけたところで、先ほど撫でられた目元から、今度は頬に手を添えられた。
「全部、君の全部を僕だけに見せて」
そう言って、更に笑みを深めたレイモンドは、真正の悪魔だろう。
「もう一度、さっきの言葉を聞かせてくれないか」
「さっきの言葉?」
「僕のことを言ったろう?」
「貴方なんか大嫌い」
「ははは、確かに」
そこでレイモンドは声を出して笑った。それすら下品にならないのが彼だった。
「ふふ、確かにそう言われた。でもそうじゃないよ。その前に言ったことだよ」
覗き込むような視線を向けたレイモンドに、ロウェナは薄く唇を開いた。
それから吐き出す溜め息に乗せるように、小さく呟いた。
「貴方のことが、好きなの」
「大嫌いって言ったのに?」
「ええ、そうよ。どちらも本当の気持ちだわ」
ロウェナのどっちつかずな返答を、なぜかレイモンドは気に入ったらしい。滅多に見せない満面の笑みを浮かべた。
「僕も君が好きだよ」
その裏側に、もっと違う言葉があるのだろう。だが、もう聞くだけ無駄だと思えた。
結局、ロウェナはどんなレイモンドも嫌いになれない。どんなに悔しくても、大嫌いと言った先から好きが溢れる。
握られた手を、痛いだろうと思うほどきつく握り返した。それで、せめてこの胸の痛みの仕返しをしてやりたいと思った。
それからロウェナは、昼時の廊下でも食堂でも、レイモンドの姿を探すことをやめにした。もう彼が自分以外の令嬢と並び歩く姿を見たくなかった。
それでも同じ校舎であるから、偶然、鉢合わせてしまうことは稀にあった。
大きな紫陽花が見事だと友人に誘われて、昼休みに庭園に行ったことがある。紫陽花は綺麗な乳白色で、本当にロウェナの顔ほどもある大きなものだった。
純粋な感動を抱いて校舎に戻ろうとした時に、あのベンチに目が行った。レイモンドと話をしたベンチだった。
そこに、並んで座るレイモンドとエイブリンを見つけて、ロウェナは足元から凍りつくような感覚に囚われた。
誘ってくれた友人も、二人の姿に気がついた。
「えっと、」
「良いのよ。行きましょう」
放っておいて大丈夫なの?そんな表情を浮かべた友人に、ロウェナは薄く笑って見せた。
レイモンドとエイブリンの交流は、きっと今に始まったことではない。
ロウェナが入学する前から、二人はあんなふうだったのだろう。だから、ロウェナが入学しても、彼の友人たちはレイモンドを諌めたりしなかったのではないか。
それもどうかと思う。寧ろ、婚約者が入学したのだから、やめたほうがよいとか、せめて気をつけてはどうだとか、そんな忠告を周りはしないのだろうか。
だが、そうさせないからレイモンドなのだろうと、結局、ロウェナのほうが呑み込んだ。
「はあ」
そこで溜め息をついたのは、友人のほうだった。
「貴女、将来はきっと妻の鑑となるわ」
「ええ?どういうこと?」
「私の父にも妾がいるの」
友人の告白に、ロウェナは眉が下がってしまった。政略結婚に抗えない貴族には、愛人や妾といった存在はままあることだった。
けれども皆がそうではないし、推奨されるものでもない。現にロウェナの両親も政略での婚姻であるが仲は良い。
「ああ、気にしないで。家族はみんな知っているの。母は面白くはないでしょうけれど、父なりに母を立てているし」
「お母様は、許していらっしゃるの?」
「許しても許さなくても、やめないでしょう?」
全くそのとおりだと、ロウェナは友人と並び歩いて頷いた。
「私なら、嫌だわ」
「私だって嫌よ」
嫌だと言った友人へ正直な言葉を返すと、ロウェナまで溜め息が漏れてしまった。
「男って……」
だがそう呟いた友人には、誠実そうな婚約者がいる。
「もしも、彼のことで悩ましい事柄ができたなら、真っ先に貴女に相談するわ」
そんなことを言った友人は、あながち冗談ではないようで、真っ直ぐロウェナを見た。
妻の鑑。
その言葉はきっと、これからロウェナを縛るのだろう。自分は本当に我慢なんてできるのか。
今は生家にいるけれど、同じ邸に暮らすようになった時に、レイモンドに女性の影を感じながら気丈でいられる自信はなかった。
「私こそ、貴女のお母様にご相談したいくらいよ」
友人は、少しの沈黙の後に、
「母はきっと、いつでもどうぞって言いそうね」
そう言って、その後は違う話をし始めた。
この日のことは、ロウェナの心に静かに残った。泥を掻き回した池の水が、茶色い澱みを沈めるように、心の奥底に沈殿していった。
泥がいつか積み重なって、ねっとりと重い汚泥になった時に、自分はどうなるのだろうと考えた。
それなのに、レイモンドに抱く愛もまた重みを増して、積み重なっていくことを止められなかった。
激昂とは、あんな気持ちだったのか。
それを見せてしまったのが、よりによって婚約者だなんて。
何度目かわからない、ゴム毬が萎んでしまう感覚に、ロウェナはレイモンドに手を握られたまま俯くことしかできなかった。
「ごめんなさい」
「なにに謝っている?」
なにに謝りたいのかは、自分でもよくわからなかった。
声を荒らげたこと?
嫌いって言ったこと?
乱暴な口調になってしまったことか?
令嬢としても婚約者としても、至らないのはエイブリンばかりでなくロウェナも同じだと思う。
「君が僕の一番だと、そう言ったよね」
その言葉に俯いていた顔をのろのろと上げれば、視線はレイモンドの青い瞳とぶつかった。
ロウェナの胸の中はこの短い間に、まるでモンスーンが吹き荒れるように右に左に揺さぶられていた。
それなのに、レイモンドは初夏を思わせる日射しの下で、涼し気な目元を細めてロウェナを見ていた。
この魅惑的な婚約者に、どうにも敵いそうになかった。再び俯きかけたところで、先ほど撫でられた目元から、今度は頬に手を添えられた。
「全部、君の全部を僕だけに見せて」
そう言って、更に笑みを深めたレイモンドは、真正の悪魔だろう。
「もう一度、さっきの言葉を聞かせてくれないか」
「さっきの言葉?」
「僕のことを言ったろう?」
「貴方なんか大嫌い」
「ははは、確かに」
そこでレイモンドは声を出して笑った。それすら下品にならないのが彼だった。
「ふふ、確かにそう言われた。でもそうじゃないよ。その前に言ったことだよ」
覗き込むような視線を向けたレイモンドに、ロウェナは薄く唇を開いた。
それから吐き出す溜め息に乗せるように、小さく呟いた。
「貴方のことが、好きなの」
「大嫌いって言ったのに?」
「ええ、そうよ。どちらも本当の気持ちだわ」
ロウェナのどっちつかずな返答を、なぜかレイモンドは気に入ったらしい。滅多に見せない満面の笑みを浮かべた。
「僕も君が好きだよ」
その裏側に、もっと違う言葉があるのだろう。だが、もう聞くだけ無駄だと思えた。
結局、ロウェナはどんなレイモンドも嫌いになれない。どんなに悔しくても、大嫌いと言った先から好きが溢れる。
握られた手を、痛いだろうと思うほどきつく握り返した。それで、せめてこの胸の痛みの仕返しをしてやりたいと思った。
それからロウェナは、昼時の廊下でも食堂でも、レイモンドの姿を探すことをやめにした。もう彼が自分以外の令嬢と並び歩く姿を見たくなかった。
それでも同じ校舎であるから、偶然、鉢合わせてしまうことは稀にあった。
大きな紫陽花が見事だと友人に誘われて、昼休みに庭園に行ったことがある。紫陽花は綺麗な乳白色で、本当にロウェナの顔ほどもある大きなものだった。
純粋な感動を抱いて校舎に戻ろうとした時に、あのベンチに目が行った。レイモンドと話をしたベンチだった。
そこに、並んで座るレイモンドとエイブリンを見つけて、ロウェナは足元から凍りつくような感覚に囚われた。
誘ってくれた友人も、二人の姿に気がついた。
「えっと、」
「良いのよ。行きましょう」
放っておいて大丈夫なの?そんな表情を浮かべた友人に、ロウェナは薄く笑って見せた。
レイモンドとエイブリンの交流は、きっと今に始まったことではない。
ロウェナが入学する前から、二人はあんなふうだったのだろう。だから、ロウェナが入学しても、彼の友人たちはレイモンドを諌めたりしなかったのではないか。
それもどうかと思う。寧ろ、婚約者が入学したのだから、やめたほうがよいとか、せめて気をつけてはどうだとか、そんな忠告を周りはしないのだろうか。
だが、そうさせないからレイモンドなのだろうと、結局、ロウェナのほうが呑み込んだ。
「はあ」
そこで溜め息をついたのは、友人のほうだった。
「貴女、将来はきっと妻の鑑となるわ」
「ええ?どういうこと?」
「私の父にも妾がいるの」
友人の告白に、ロウェナは眉が下がってしまった。政略結婚に抗えない貴族には、愛人や妾といった存在はままあることだった。
けれども皆がそうではないし、推奨されるものでもない。現にロウェナの両親も政略での婚姻であるが仲は良い。
「ああ、気にしないで。家族はみんな知っているの。母は面白くはないでしょうけれど、父なりに母を立てているし」
「お母様は、許していらっしゃるの?」
「許しても許さなくても、やめないでしょう?」
全くそのとおりだと、ロウェナは友人と並び歩いて頷いた。
「私なら、嫌だわ」
「私だって嫌よ」
嫌だと言った友人へ正直な言葉を返すと、ロウェナまで溜め息が漏れてしまった。
「男って……」
だがそう呟いた友人には、誠実そうな婚約者がいる。
「もしも、彼のことで悩ましい事柄ができたなら、真っ先に貴女に相談するわ」
そんなことを言った友人は、あながち冗談ではないようで、真っ直ぐロウェナを見た。
妻の鑑。
その言葉はきっと、これからロウェナを縛るのだろう。自分は本当に我慢なんてできるのか。
今は生家にいるけれど、同じ邸に暮らすようになった時に、レイモンドに女性の影を感じながら気丈でいられる自信はなかった。
「私こそ、貴女のお母様にご相談したいくらいよ」
友人は、少しの沈黙の後に、
「母はきっと、いつでもどうぞって言いそうね」
そう言って、その後は違う話をし始めた。
この日のことは、ロウェナの心に静かに残った。泥を掻き回した池の水が、茶色い澱みを沈めるように、心の奥底に沈殿していった。
泥がいつか積み重なって、ねっとりと重い汚泥になった時に、自分はどうなるのだろうと考えた。
それなのに、レイモンドに抱く愛もまた重みを増して、積み重なっていくことを止められなかった。
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