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第一章
身体が内側から腐敗していく感触は、かえって意識を研ぎ澄ました。
間もなく自分がこの世の生を終えることを、そこで静かに理解できた。
絶望が深すぎると、俯瞰の境地に至るのだろう。
死を前にして思ったのは、そんな聖人や哲学者のようなことだった。
悔やまれるのは、この身籠ったばかりの子を道連れにしなければならないことか。
だがすぐに、そうでもないと思い直した。
こんな世界にこの子を一人、残してなんて行かれない。一緒に連れて行きましょう。
私もこの子の跡形もなく消えたなら、貴方はそれを喜ばしく思うのかしら。
私は貴方から病を移され、貴方の不幸の全てを引き受けた。心を悩ませる種は、あなたの人生にはなくなった。
これまで感じたことのない鋭い痛みと不快感、それから身体が朽ちていくような感覚は、懐妊の兆しと一緒にやってきた。
大事にしたくはなくて夫に内緒で呼んだ医師からは、子を宿していると告げられた。
同時に、その身体が性の病に蝕まれており、腹の子も恐らくは罹患しているだろうと伝えられた。
夫しか知らないこの身がそんな病に罹ったのは、夫を介してということだろう。
そこで夫の顔を思い浮かべた。それから最近、彼の傍にいる女性のことを思い出す寸前でやめにした。
なんだ、あんなに愛して悩んだのに、先に人生の舞台を降りるのは自分だった。
医師も侍女もいなくなった自室の寝台に横たわり、瞼を閉じて思い返した。
悔しくもあるし哀しくもある。だが、宿ったばかりの子とともに、この腐敗した泥にまみれた世界から、一抜けできるのは悪いことではないだろう。
多分、愛しすぎてしまったのだ。
もっと貴族の女らしく、堂々と自分の道を通せばよかった。そして夫に穢れの影を知ったなら、さっさとここを飛び出してしまえばよかったのだ。
「ごめんなさい。私の子」
医師は、出産までなんとも言えないと言葉を濁した。それは母体も含めてのことだろう。
「一緒に神の御下に行きましょうね。大丈夫、あなたのことは母様がしっかり抱き締めて行くから、何も心配いらないわ」
その言葉のとおり、三月と経たぬうちに命を閉じることとなる。病がわかってからすぐに、夫と離れて別宅に移っていた。
身体が内側から腐っていく姿なんて、彼には決して見せたくはなかった。それくらいの意地は残っていた。
死ぬほどだから、相当苦しい筈だった。だが命を閉じる瞬間は、平穏と静寂に包まれていた。
こんな身体であるのに、子供はちゃんと育ってくれた。だがあまりに月足らずで、たとえこのまま産み落としても、きっと生きてはいけないだろう。
心の中でまだ見ぬ我が子を抱き締めた。約束どおり、決して離すまいと心に誓って、闇の底に沈んでいった。
遠くから、名前を呼ばれた気がしたが、もう神の元へ行くのだと決めていたから、閉じた瞼を開けることはなかった。
という幻想を見たのは、母の再婚先の邸宅を訪れたときのことだった。
母が再婚したのは伯爵家の当主で、義父となる彼は騎士だと聞いていた。
王族の側近くに侍り尊い御身を警護する、栄誉ある近衛騎士なのだという。
ジャクリーンは十四歳。前年に、子爵家当主だった父を馬車の事故で亡くしていた。
本来であれば、父の一人娘であったジャクリーンが後々爵位を継ぐ立場であった。しかし父には弟がおり、叔父にはジャクリーンより一つ年上の男児がいた。
祖父母が密かに男児を跡取りにと望んでいたことは知っている。
彼らがこの機会に後継者として従兄を欲したのか、それともジャクリーンを欲しくなかったのか、どちらなのかはわからない。
わかっていたことは、ジャクリーンは母とともに子爵家から縁を切られて、翌年に母が再婚したことだった。
義父は見上げるような大きな体躯だった。
手足はすらりと長く、綺麗な面立ちをした人だった。
鮮やかな金色の髪は背中まで長く伸びて、それを一括りにしてロイヤルブルーのリボンを結んでいた。
ロイヤルブルーが王家の色で、義父が王家に忠誠を捧げているのだと、ジャクリーンにもひと目でわかった。
「初めまして、伯爵様」
彼は母を妻に望んだが、ジャクリーンを子として望んだわけではない。生家である子爵家からも望まれなかった我が身のことを、自分なりに理解していた。
そこでジャクリーンは、敬意を込めて「伯爵様」と呼んだのだが、周りの空気はそこで一瞬、ピリリとなった。
亡き父は、生前ジャクリーンを聡い子だと言ってくれたが、あれは親の欲目だったのだろう。ジャクリーンはここにきて察した。
そうでなければ、左右に並ぶ使用人たちから、こんな残念そうな眼差しを向けられるなんてないだろう。
「お、……お義父様……」
改めて言い直した時に、義父の後ろにいた執事がホッとしたような顔をした。
「うむ」
義父の短い返事が「正解」の証なのか、短すぎてよくわからなかった。
それからジャクリーンは、義兄となった青年を紹介された。二つ年上の彼もまた、義父と同じ金色の髪と鮮やかな翠色の瞳をしていた。
「私はスティーブンソンという」
名前は長いが挨拶としてはあまりに短い自己紹介をした義兄を見つめたその瞬間、今まで覚えのない強烈な意識の変動を感じた。
まるで記憶の大波が押し寄せるような勢いに、足元がぐらりと揺らぐようだった。
母に恥をかかせてはいけないと、なんとか足を踏ん張り耐えた。
その間もなだれ込むように脳内に蘇った記憶は、ジャクリーンがこの生を受ける前、過去世での人生だと咄嗟に思った。
そう思った瞬間に、ジャクリーンは溢れ出した涙を止めることもできぬまま、立位の姿勢で綺麗に後ろに昏倒した。がごんと音がしたのは、自分の後頭部が床を打った音だろう。
遠のく意識の向こうで、母が慌ててジャクリーンを呼んでいた。
『ジャクリーン!』
なぜなのか、もう終わってしまった過去での夫が、自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
ジャクリーンは、過去世でもジャクリーンという名前だった。
今世でもっと違う名が思いつかなかったのかと、薄らぐ意識の中で母に文句を言っていた。
間もなく自分がこの世の生を終えることを、そこで静かに理解できた。
絶望が深すぎると、俯瞰の境地に至るのだろう。
死を前にして思ったのは、そんな聖人や哲学者のようなことだった。
悔やまれるのは、この身籠ったばかりの子を道連れにしなければならないことか。
だがすぐに、そうでもないと思い直した。
こんな世界にこの子を一人、残してなんて行かれない。一緒に連れて行きましょう。
私もこの子の跡形もなく消えたなら、貴方はそれを喜ばしく思うのかしら。
私は貴方から病を移され、貴方の不幸の全てを引き受けた。心を悩ませる種は、あなたの人生にはなくなった。
これまで感じたことのない鋭い痛みと不快感、それから身体が朽ちていくような感覚は、懐妊の兆しと一緒にやってきた。
大事にしたくはなくて夫に内緒で呼んだ医師からは、子を宿していると告げられた。
同時に、その身体が性の病に蝕まれており、腹の子も恐らくは罹患しているだろうと伝えられた。
夫しか知らないこの身がそんな病に罹ったのは、夫を介してということだろう。
そこで夫の顔を思い浮かべた。それから最近、彼の傍にいる女性のことを思い出す寸前でやめにした。
なんだ、あんなに愛して悩んだのに、先に人生の舞台を降りるのは自分だった。
医師も侍女もいなくなった自室の寝台に横たわり、瞼を閉じて思い返した。
悔しくもあるし哀しくもある。だが、宿ったばかりの子とともに、この腐敗した泥にまみれた世界から、一抜けできるのは悪いことではないだろう。
多分、愛しすぎてしまったのだ。
もっと貴族の女らしく、堂々と自分の道を通せばよかった。そして夫に穢れの影を知ったなら、さっさとここを飛び出してしまえばよかったのだ。
「ごめんなさい。私の子」
医師は、出産までなんとも言えないと言葉を濁した。それは母体も含めてのことだろう。
「一緒に神の御下に行きましょうね。大丈夫、あなたのことは母様がしっかり抱き締めて行くから、何も心配いらないわ」
その言葉のとおり、三月と経たぬうちに命を閉じることとなる。病がわかってからすぐに、夫と離れて別宅に移っていた。
身体が内側から腐っていく姿なんて、彼には決して見せたくはなかった。それくらいの意地は残っていた。
死ぬほどだから、相当苦しい筈だった。だが命を閉じる瞬間は、平穏と静寂に包まれていた。
こんな身体であるのに、子供はちゃんと育ってくれた。だがあまりに月足らずで、たとえこのまま産み落としても、きっと生きてはいけないだろう。
心の中でまだ見ぬ我が子を抱き締めた。約束どおり、決して離すまいと心に誓って、闇の底に沈んでいった。
遠くから、名前を呼ばれた気がしたが、もう神の元へ行くのだと決めていたから、閉じた瞼を開けることはなかった。
という幻想を見たのは、母の再婚先の邸宅を訪れたときのことだった。
母が再婚したのは伯爵家の当主で、義父となる彼は騎士だと聞いていた。
王族の側近くに侍り尊い御身を警護する、栄誉ある近衛騎士なのだという。
ジャクリーンは十四歳。前年に、子爵家当主だった父を馬車の事故で亡くしていた。
本来であれば、父の一人娘であったジャクリーンが後々爵位を継ぐ立場であった。しかし父には弟がおり、叔父にはジャクリーンより一つ年上の男児がいた。
祖父母が密かに男児を跡取りにと望んでいたことは知っている。
彼らがこの機会に後継者として従兄を欲したのか、それともジャクリーンを欲しくなかったのか、どちらなのかはわからない。
わかっていたことは、ジャクリーンは母とともに子爵家から縁を切られて、翌年に母が再婚したことだった。
義父は見上げるような大きな体躯だった。
手足はすらりと長く、綺麗な面立ちをした人だった。
鮮やかな金色の髪は背中まで長く伸びて、それを一括りにしてロイヤルブルーのリボンを結んでいた。
ロイヤルブルーが王家の色で、義父が王家に忠誠を捧げているのだと、ジャクリーンにもひと目でわかった。
「初めまして、伯爵様」
彼は母を妻に望んだが、ジャクリーンを子として望んだわけではない。生家である子爵家からも望まれなかった我が身のことを、自分なりに理解していた。
そこでジャクリーンは、敬意を込めて「伯爵様」と呼んだのだが、周りの空気はそこで一瞬、ピリリとなった。
亡き父は、生前ジャクリーンを聡い子だと言ってくれたが、あれは親の欲目だったのだろう。ジャクリーンはここにきて察した。
そうでなければ、左右に並ぶ使用人たちから、こんな残念そうな眼差しを向けられるなんてないだろう。
「お、……お義父様……」
改めて言い直した時に、義父の後ろにいた執事がホッとしたような顔をした。
「うむ」
義父の短い返事が「正解」の証なのか、短すぎてよくわからなかった。
それからジャクリーンは、義兄となった青年を紹介された。二つ年上の彼もまた、義父と同じ金色の髪と鮮やかな翠色の瞳をしていた。
「私はスティーブンソンという」
名前は長いが挨拶としてはあまりに短い自己紹介をした義兄を見つめたその瞬間、今まで覚えのない強烈な意識の変動を感じた。
まるで記憶の大波が押し寄せるような勢いに、足元がぐらりと揺らぐようだった。
母に恥をかかせてはいけないと、なんとか足を踏ん張り耐えた。
その間もなだれ込むように脳内に蘇った記憶は、ジャクリーンがこの生を受ける前、過去世での人生だと咄嗟に思った。
そう思った瞬間に、ジャクリーンは溢れ出した涙を止めることもできぬまま、立位の姿勢で綺麗に後ろに昏倒した。がごんと音がしたのは、自分の後頭部が床を打った音だろう。
遠のく意識の向こうで、母が慌ててジャクリーンを呼んでいた。
『ジャクリーン!』
なぜなのか、もう終わってしまった過去での夫が、自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
ジャクリーンは、過去世でもジャクリーンという名前だった。
今世でもっと違う名が思いつかなかったのかと、薄らぐ意識の中で母に文句を言っていた。
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