30 / 38
第三十章
「クエンティン様……」
そこでジャクリーンは、一旦もとのジャクリーンに戻った。
記憶の端で、薄皮を剥がすように前世の夫が思い出された。
裏切りは確かだったのだろう。彼が病を得たのなら、たとえ理由があるにしても、ジャクリーン以外と交わりを持ったということだ。
だがそれが、心からの裏切りではなかったとしたら。
ジャクリーンは、夫の心変わりに打ちひしがれて、挙句、病を移され、ようやく授かった我が子ともども死なねばならなかった。
それなのに、ただの一度も夫に確かめることをしなかった。
きっと意地になっていた。夫から打ち明けられることを願っていた。
それが誠意だと思ったし、ジャクリーンを愛するなら誤解させたくないと思う筈だと信じていた。
もし過去の自分に会えるなら、伝えたいことがある。
自分一人の胸の内で決めつけてはいけない。
秘密には、愛するゆえに打ち明けられないこともある。
だから、すれ違う前に本心を確かめることを恐れないでほしい。
前世の夫は本当に、妻を裏切るばかりの人だったのか。本当に、ジャクリーンのことなど考えもせず、ほかの女性と関係していたのか。
目の前で不安を瞳に滲ませるクエンティンを見て、あの頃の夫もきっと、こんな瞳を隠していたのではないかと思った。
「クエンティン様。貴方をお慕いいたしております。貴方が何をしたとしても信じております。貴方が私を裏切るとしたら、それはきっと私の幸せを願ってのことなのでしよう」
今の今まで娼館に乗り込もうと勢いづいていた。それが行き成り素に戻ったジャクリーンに、クエンティンは驚くような顔をした。
だがすぐに、真剣な眼差しになって言った。
「君が危うくなる前に、必ず迎えに行くから」
二人はそこで、互いの瞳を見つめて頷き合った。
「いらっしゃい。まあ!なんて可愛らしい男の娘なのかしら」
開口一番、メロディはそう言った。
百戦錬磨のお姉様には、王子ルックのジャクリーンは垂涎の男の娘だった。
ジャクリーンは、部屋に入ったところで立ち止まったまま、一歩も前に進めなかった。
ここに来るまで何パターンものシチュエーションを想定していた。それぞれの対処についてもしっかりシミュレーションしていた。
だから、ひと言も何も言わないうちにバレるなんて思いもしなかった。
「キィ」と扉が小さく音を立てて、室内に足を踏み入れただけで身バレした。
二年連続お客様人気投票第一位。
手練の高級娼婦メロディは、噂通りの歌うような口ぶりでジャクリーンの正体を言い当てた。
ととと、と小走りになって駆け寄ると、ガシッと思いのほか強い力でジャクリーンの手を取った。
——モウ、ニゲラレナイ
脳内で、自分ではない存在が告げるのが聞こえたような気がした。
「やだ、怯えちゃって可愛い。食べちゃいたい」
彼女の声には妙な抑揚がついていて、名前の通り歌うようだった。だが不思議と不快な気持ちにはならなかった。
ジャクリーンは心も身体も自力で制御できなくなった。メロディという蜘蛛の糸に絡め取られてしまったように、彼女のヘーゼル色の瞳を見つめていた。
メロディは、平凡な容姿をしていた。
茶色の髪にヘーゼル色の瞳。それなのに、なぜかとても魅力的だった。
目に輝きがある。彼女の胸に抱かれたなら、きっと大地に抱擁されたように思うだろう。
「お酒は駄目なお年頃?」
手を引かれて、ジャクリーンは誘われるようにソファに座った。光沢のある濃いピンク色の生地が目に染みる。
「ココアにする?さっきお帰りになったお客様からいただいたの」
そう言ってメロディは、いそいそとジャクリーンのためにココアを淹れてくれた。
その間、ジャクリーンはひと言も発していなかった。なのにメロディは、以心伝心で心の声を読み取るようだった。まるで二人で会話をするように一人語りをしている。
それすらなぜか心地よい。
ここに通うのは、貴族か裕福な平民だろう。
地位も財産もあり上流に慣れ親しむ彼らがメロディを頂点に押し上げた。
そんな彼らに、初心なジャクリーンでは知り得ない、めくるめく快楽のひとときを目の前のメロディが提供している。
「もう。緊張しなくてもよいのよ?でも初めてなら仕方ないわね。いいわ」
私が優しく教えてあげる。
そう言ってメロディは微笑んだ。
「あ、んっん」
そこで初めてジャクリーンは声を発した。声というより咳払いと言ったほうが正しかった。
「わた、じゃない、僕のことを」
「きゃー!僕っ娘!カワイイ!」
興奮したメロディに遮られて、会話の糸口の手前にも辿り着けない。ジャクリーンは、完全に彼女の手中にいた。
マズい。このままではミッションを完遂できない。焦りから嫌な汗が滲んでくる。
「貴女の、お、お話しが聞きたいの」
しまった、どもった。
しかも令嬢口調になってしまった。
「ふふ。本当に素直なお嬢様ね。貴女みたいな人たちは、私のような存在を毛虫がゴミのように思うのでしょうね」
「そ、そんなことはないわ!と、とても、その、頑張っていらっしゃるわ。そうでなければ二年連続でナンバーワンにはなれないもの」
「へえ。貴女はそう思うの?」
メロディは、しどろもどろながら必死に話すジャクリーンに目を細めた。
「ええ。私、人を見る目はあるほうなの。貴女、凄い人だわ」
いつの間にか二人は、すっかりガールズトークになっていた。
「ふ~ん」
メロディはヘーゼルの瞳でジャクリーンを見つめると、クスリと笑った。それだけで、まるで耳元に吐息をかけられたような気持ちになる。
「それで貴女の聞きたいことは何なのかしら?王家の回し者さん」
「え!!」
驚くあまり目を見開いたジャクリーンに、メロディは、今度こそ心から面白いというように破顔した。
そこでジャクリーンは、一旦もとのジャクリーンに戻った。
記憶の端で、薄皮を剥がすように前世の夫が思い出された。
裏切りは確かだったのだろう。彼が病を得たのなら、たとえ理由があるにしても、ジャクリーン以外と交わりを持ったということだ。
だがそれが、心からの裏切りではなかったとしたら。
ジャクリーンは、夫の心変わりに打ちひしがれて、挙句、病を移され、ようやく授かった我が子ともども死なねばならなかった。
それなのに、ただの一度も夫に確かめることをしなかった。
きっと意地になっていた。夫から打ち明けられることを願っていた。
それが誠意だと思ったし、ジャクリーンを愛するなら誤解させたくないと思う筈だと信じていた。
もし過去の自分に会えるなら、伝えたいことがある。
自分一人の胸の内で決めつけてはいけない。
秘密には、愛するゆえに打ち明けられないこともある。
だから、すれ違う前に本心を確かめることを恐れないでほしい。
前世の夫は本当に、妻を裏切るばかりの人だったのか。本当に、ジャクリーンのことなど考えもせず、ほかの女性と関係していたのか。
目の前で不安を瞳に滲ませるクエンティンを見て、あの頃の夫もきっと、こんな瞳を隠していたのではないかと思った。
「クエンティン様。貴方をお慕いいたしております。貴方が何をしたとしても信じております。貴方が私を裏切るとしたら、それはきっと私の幸せを願ってのことなのでしよう」
今の今まで娼館に乗り込もうと勢いづいていた。それが行き成り素に戻ったジャクリーンに、クエンティンは驚くような顔をした。
だがすぐに、真剣な眼差しになって言った。
「君が危うくなる前に、必ず迎えに行くから」
二人はそこで、互いの瞳を見つめて頷き合った。
「いらっしゃい。まあ!なんて可愛らしい男の娘なのかしら」
開口一番、メロディはそう言った。
百戦錬磨のお姉様には、王子ルックのジャクリーンは垂涎の男の娘だった。
ジャクリーンは、部屋に入ったところで立ち止まったまま、一歩も前に進めなかった。
ここに来るまで何パターンものシチュエーションを想定していた。それぞれの対処についてもしっかりシミュレーションしていた。
だから、ひと言も何も言わないうちにバレるなんて思いもしなかった。
「キィ」と扉が小さく音を立てて、室内に足を踏み入れただけで身バレした。
二年連続お客様人気投票第一位。
手練の高級娼婦メロディは、噂通りの歌うような口ぶりでジャクリーンの正体を言い当てた。
ととと、と小走りになって駆け寄ると、ガシッと思いのほか強い力でジャクリーンの手を取った。
——モウ、ニゲラレナイ
脳内で、自分ではない存在が告げるのが聞こえたような気がした。
「やだ、怯えちゃって可愛い。食べちゃいたい」
彼女の声には妙な抑揚がついていて、名前の通り歌うようだった。だが不思議と不快な気持ちにはならなかった。
ジャクリーンは心も身体も自力で制御できなくなった。メロディという蜘蛛の糸に絡め取られてしまったように、彼女のヘーゼル色の瞳を見つめていた。
メロディは、平凡な容姿をしていた。
茶色の髪にヘーゼル色の瞳。それなのに、なぜかとても魅力的だった。
目に輝きがある。彼女の胸に抱かれたなら、きっと大地に抱擁されたように思うだろう。
「お酒は駄目なお年頃?」
手を引かれて、ジャクリーンは誘われるようにソファに座った。光沢のある濃いピンク色の生地が目に染みる。
「ココアにする?さっきお帰りになったお客様からいただいたの」
そう言ってメロディは、いそいそとジャクリーンのためにココアを淹れてくれた。
その間、ジャクリーンはひと言も発していなかった。なのにメロディは、以心伝心で心の声を読み取るようだった。まるで二人で会話をするように一人語りをしている。
それすらなぜか心地よい。
ここに通うのは、貴族か裕福な平民だろう。
地位も財産もあり上流に慣れ親しむ彼らがメロディを頂点に押し上げた。
そんな彼らに、初心なジャクリーンでは知り得ない、めくるめく快楽のひとときを目の前のメロディが提供している。
「もう。緊張しなくてもよいのよ?でも初めてなら仕方ないわね。いいわ」
私が優しく教えてあげる。
そう言ってメロディは微笑んだ。
「あ、んっん」
そこで初めてジャクリーンは声を発した。声というより咳払いと言ったほうが正しかった。
「わた、じゃない、僕のことを」
「きゃー!僕っ娘!カワイイ!」
興奮したメロディに遮られて、会話の糸口の手前にも辿り着けない。ジャクリーンは、完全に彼女の手中にいた。
マズい。このままではミッションを完遂できない。焦りから嫌な汗が滲んでくる。
「貴女の、お、お話しが聞きたいの」
しまった、どもった。
しかも令嬢口調になってしまった。
「ふふ。本当に素直なお嬢様ね。貴女みたいな人たちは、私のような存在を毛虫がゴミのように思うのでしょうね」
「そ、そんなことはないわ!と、とても、その、頑張っていらっしゃるわ。そうでなければ二年連続でナンバーワンにはなれないもの」
「へえ。貴女はそう思うの?」
メロディは、しどろもどろながら必死に話すジャクリーンに目を細めた。
「ええ。私、人を見る目はあるほうなの。貴女、凄い人だわ」
いつの間にか二人は、すっかりガールズトークになっていた。
「ふ~ん」
メロディはヘーゼルの瞳でジャクリーンを見つめると、クスリと笑った。それだけで、まるで耳元に吐息をかけられたような気持ちになる。
「それで貴女の聞きたいことは何なのかしら?王家の回し者さん」
「え!!」
驚くあまり目を見開いたジャクリーンに、メロディは、今度こそ心から面白いというように破顔した。
あなたにおすすめの小説
結婚式の翌朝、夫に「皇太子の愛人だろう」と捨てられました――ですが私は、亡き国王の娘です
柴田はつみ
恋愛
母の遺した薬草店を守りながら、慎ましく暮らしていたアンリ。
そんな彼女に求婚してきたのは、国内でも名高い騎士にして公爵家当主、アルファだった。
真っすぐな想いを向けられ、彼を信じて結婚したアンリ。
けれど幸せなはずの結婚式の翌朝、夫は冷たく言い放つ。
「君を愛していると本気で思っていたのかい? 」
彼はアンリが第一皇太子と深い仲にあり、自分との結婚は身を隠すための偽装だと誤解していたのだ。
アンリは実は、亡き国王の婚外子。
皇太子にとっては、隠して守らなければならない妹だったのである。
家出したとある辺境夫人の話
あゆみノワ@書籍『完全別居の契約婚〜』
恋愛
『突然ではございますが、私はあなたと離縁し、このお屋敷を去ることにいたしました』
これは、一通の置き手紙からはじまった一組の心通わぬ夫婦のお語。
※ちゃんとハッピーエンドです。ただし、主人公にとっては。
※他サイトでも掲載します。
【完結】ご安心を、2度とその手を求める事はありません
ポチ
恋愛
大好きな婚約者様。 ‘’愛してる‘’ その言葉私の宝物だった。例え貴方の気持ちが私から離れたとしても。お飾りの妻になるかもしれないとしても・・・
それでも、私は貴方を想っていたい。 独り過ごす刻もそれだけで幸せを感じられた。たった一つの希望
【書籍化決定】アシュリーの願いごと
ましろ
恋愛
「まあ、本当に?」
もしかして。そう思うことはありました。
でも、まさか本当だっただなんて。
「…それならもう我慢する必要は無いわね?」
嫁いでから6年。まるで修道女が神に使えるが如くこの家に尽くしてきました。
すべては家の為であり、夫の為であり、義母の為でありました。
愛する息子すら後継者として育てるからと産まれてすぐにとりあげられてしまいました。
「でも、もう変わらなくてはね」
この事を知ったからにはもう何も我慢するつもりはありません。
だって。私には願いがあるのだから。
✻基本ゆるふわ設定です。
気を付けていますが、誤字脱字などがある為、あとからこっそり修正することがあります。
✻1/19、タグを2つ追加しました
✻1/27、短編から長編に変更しました
✻2/2、タグを変更しました
筆頭婚約者候補は「一抜け」を叫んでさっさと逃げ出した
基本二度寝
恋愛
王太子には婚約者候補が二十名ほどいた。
その中でも筆頭にいたのは、顔よし頭良し、すべての条件を持っていた公爵家の令嬢。
王太子を立てることも忘れない彼女に、ひとつだけ不満があった。
私の手からこぼれ落ちるもの
アズやっこ
恋愛
5歳の時、お父様が亡くなった。
優しくて私やお母様を愛してくれたお父様。私達は仲の良い家族だった。
でもそれは偽りだった。
お父様の書斎にあった手記を見た時、お父様の優しさも愛も、それはただの罪滅ぼしだった。
お父様が亡くなり侯爵家は叔父様に奪われた。侯爵家を追い出されたお母様は心を病んだ。
心を病んだお母様を助けたのは私ではなかった。
私の手からこぼれていくもの、そして最後は私もこぼれていく。
こぼれた私を救ってくれる人はいるのかしら…
❈ 作者独自の世界観です。
❈ 作者独自の設定です。
❈ ざまぁはありません。
【本編完結】初恋のその先で、私は母になる
妄夢【ピッコマノベルズ連載中】
恋愛
第19回恋愛小説大賞にて、奨励賞を受賞いたしました。読者の皆様のおかげです!本当ありがとうございます。
王宮で12年働き、気づけば28歳。
恋も結婚も遠いものだと思っていたオリビアの人生は、憧れの年下公爵と一夜を共にしたことで大きく動き出す。
優しく守ろうとする彼。
けれどオリビアは、誰かに選ばれるだけの人生を終わらせたいと思っていた。
揺れる想いの中で、彼女が選んだのは――
自分の足で立ち、自分の未来を選ぶこと。
これは、一人の女性が恋を通して自分を取り戻し、母として、そして一人の人間として強くなっていく物語。
※表紙画像はAI生成イラストをつかっています。
旦那様は離縁をお望みでしょうか
村上かおり
恋愛
ルーベンス子爵家の三女、バーバラはアルトワイス伯爵家の次男であるリカルドと22歳の時に結婚した。
けれど最初の顔合わせの時から、リカルドは不機嫌丸出しで、王都に来てもバーバラを家に一人残して帰ってくる事もなかった。
バーバラは行き遅れと言われていた自分との政略結婚が気に入らないだろうと思いつつも、いずれはリカルドともいい関係を築けるのではないかと待ち続けていたが。