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「イーディス」
先程までの諦念の浮かんだ笑みは消えていた。
学生時代によく見たフレデリックが目の前にいる。真摯で誠実で、少しばかり生真面目な王子だった。
「君の献身に感謝している。それから、負担を掛けたことを詫びねばならない。薬は信頼のおける医師に処方させていたが、君の身体に負担を強いたことに変わりはない。ロレインが懐妊するまでと、ウォルデン伯爵にも了承を得てのことではあったが、女人の君には辛いことだったろう」
そこでフレデリックは、眦を下げてイーディスを見つめた。
「幸せになれるか?」
「ええ」
もう幸せだとは言わなかった。ジェフリーに幸せにしてもらえたのだと、フレデリックは解っている。
「そうか。ジェフリーは良い男だ。私とは違う」
「私はそんな貴方様に恋をしましたわ」
「……あの頃は、私も今に比べれば些か青かった」
「真っ直ぐで誠実で、温かな御方でした」
「過去形?今は違うと言いたそうだね」
「今は威厳と風格を増されましたもの」
「褒めてるのかな?」
「勿論です」
フレデリックはそこで「はは」と笑った。気安い間柄の人間にだけ見せる笑いだった。
イーディスが二杯目のお茶を淹れるのを、じっと見つめていたフレデリックは、ソーサーをこちらへと置いたイーディスに言う。
「あの頃も、君が私にお茶を淹れるのを見るのが好きだった。ぎこち無い所作が可愛いと思った」
「……不手際を揶揄うおつもりだったのでしょう。ロレイン様も、お茶を淹れる練習をなさっておられます」
「君はいつでもそうだな、学生時代と変わらない。君と一緒なら、暗い夜道に迷っても、迷い道すら楽しめると思っていた」
フレデリックは、湯気を上げる紅茶を味わうようにひと口含んだ。そうして正面に座るイーディスへと向き直って終いの言葉を口にした。
「君に全てを打ち明けて区切りを付けることにした。ロレインが世話になったね」
フレデリックは気付いているだろうか。
ロレインと口にする声音は、身内に対するものである。
「ロレイン様との未来が明るいものであることを、私は心から信じております」
「それはどうかな。彼女への接し方が解らない」
「あれほどお守りになってですか?」
「守る?」
フレデリックは本当に解らないという顔をした。
「侯爵令嬢とのお茶会の席で」
「当たり前だろう、ロレインは私の妃だ。侮ってもらっては困る」
フレデリックは気付いていないのだろうか。それとも気付かぬふりを通しているのだろうか。
「それは愛ではないのでしょうか。愛でなければ優愛だと、そう思われませんか?」
イーディスの言葉にフレデリックは、訝しむような顔をした。それから何か思い当たることがあったのか、「そうかな」と曖昧な返事をした。
扉の外には側近のヘスターが控えていた。
そのままフレデリックは、ジェフリーとイーディスに見送られて馬車に乗り込んだ。
ヘスターも、ジェフリー同様幼い頃からの長い付き合いである。フレデリックとイーディスとの関わりも、ロレインとの婚姻までの経緯も全てジェフリーと同じく知っている。
知っているからこそ、不用意な事を口にしない。
今も向かいの席にいて、何を考えているのか解らない顔で前を見据えて座っている。以前、それを指摘したら「殿下もそんなお顔をなさっておいでです」と返された。
「ジェフリーが辞意を示した」
そうなることはどこかで覚悟をしていた。彼ならそう言い出すだろう。
「如何なさるおつもりで?」
「預りとした」
「左様でございますか」
面白いほど表情を変えないヘスターを見ていると、可笑しみを感じてしまった。笑いが漏れそうになるのを堪えながら
「夫人は侍女を辞することとなった」
そう言えば、ヘスターは当たり前のことを言うように、
「ロレイン様が淋しがられますな」と真顔で言った。
「緩衝材を失ってしまうな」
ロレインのこととなるとイーディスはいつでも矢面に立っていた。刺客に襲われたときにはロレインに覆いかぶさり自ら盾となった。刃が振り上げられて、それを止められないと解った時の絶望を、フレデリックは生涯忘れられないと思っている。
イーディスの姿を目にすることは、今後は数えるほどになるだろう。
それでも、喩え自分の目の届かないところにいたたとしても、イーディスがこの世界に生きていてくれるのなら、もうそれだけで良いと思えた。
押し付けられるように娶った筈の妻を、ジェフリーが可怪しなほど執着を見せたことには驚いた。
粗末に扱ってほしい訳ではなかったが、次第に睦まじさを深めていくジェフリーとイーディスに、胸が詰まるような苦しさを覚えた。
ジェフリーが護衛の任を退くのは、イーディスとの未来の為だろう。自身が蒔いた種を刈り取る時が来たのだと、フレデリックはそう思っている。
「愛は育めば育つものです」
「は?」
ヘスターの口から出た愛という単語に、フレデリックは思わず気の抜けた反応をした。
「愛とは無尽蔵に湧き出るものではないのです。泉とて何れ枯れることもあるのですから」
「へえ、お前は愛に詳しいのだな」
「私も政略結婚でしたから」
ぴくりとも表情を変えずに大真面目に愛を語るヘスター。
「成る程。先達の言葉とは重いな」
「先達と言われるほど歳は離れておりませんが」
「はは」
側近に恵まれたと思っている。
彼等のお蔭で乗り越えられたことは、ひとつふたつではない。
馬車の揺れに身を任せながら、鮮やかな赤髪の男を思い浮かべる。
フレデリックはジェフリーの進退についてを考えた。
先程までの諦念の浮かんだ笑みは消えていた。
学生時代によく見たフレデリックが目の前にいる。真摯で誠実で、少しばかり生真面目な王子だった。
「君の献身に感謝している。それから、負担を掛けたことを詫びねばならない。薬は信頼のおける医師に処方させていたが、君の身体に負担を強いたことに変わりはない。ロレインが懐妊するまでと、ウォルデン伯爵にも了承を得てのことではあったが、女人の君には辛いことだったろう」
そこでフレデリックは、眦を下げてイーディスを見つめた。
「幸せになれるか?」
「ええ」
もう幸せだとは言わなかった。ジェフリーに幸せにしてもらえたのだと、フレデリックは解っている。
「そうか。ジェフリーは良い男だ。私とは違う」
「私はそんな貴方様に恋をしましたわ」
「……あの頃は、私も今に比べれば些か青かった」
「真っ直ぐで誠実で、温かな御方でした」
「過去形?今は違うと言いたそうだね」
「今は威厳と風格を増されましたもの」
「褒めてるのかな?」
「勿論です」
フレデリックはそこで「はは」と笑った。気安い間柄の人間にだけ見せる笑いだった。
イーディスが二杯目のお茶を淹れるのを、じっと見つめていたフレデリックは、ソーサーをこちらへと置いたイーディスに言う。
「あの頃も、君が私にお茶を淹れるのを見るのが好きだった。ぎこち無い所作が可愛いと思った」
「……不手際を揶揄うおつもりだったのでしょう。ロレイン様も、お茶を淹れる練習をなさっておられます」
「君はいつでもそうだな、学生時代と変わらない。君と一緒なら、暗い夜道に迷っても、迷い道すら楽しめると思っていた」
フレデリックは、湯気を上げる紅茶を味わうようにひと口含んだ。そうして正面に座るイーディスへと向き直って終いの言葉を口にした。
「君に全てを打ち明けて区切りを付けることにした。ロレインが世話になったね」
フレデリックは気付いているだろうか。
ロレインと口にする声音は、身内に対するものである。
「ロレイン様との未来が明るいものであることを、私は心から信じております」
「それはどうかな。彼女への接し方が解らない」
「あれほどお守りになってですか?」
「守る?」
フレデリックは本当に解らないという顔をした。
「侯爵令嬢とのお茶会の席で」
「当たり前だろう、ロレインは私の妃だ。侮ってもらっては困る」
フレデリックは気付いていないのだろうか。それとも気付かぬふりを通しているのだろうか。
「それは愛ではないのでしょうか。愛でなければ優愛だと、そう思われませんか?」
イーディスの言葉にフレデリックは、訝しむような顔をした。それから何か思い当たることがあったのか、「そうかな」と曖昧な返事をした。
扉の外には側近のヘスターが控えていた。
そのままフレデリックは、ジェフリーとイーディスに見送られて馬車に乗り込んだ。
ヘスターも、ジェフリー同様幼い頃からの長い付き合いである。フレデリックとイーディスとの関わりも、ロレインとの婚姻までの経緯も全てジェフリーと同じく知っている。
知っているからこそ、不用意な事を口にしない。
今も向かいの席にいて、何を考えているのか解らない顔で前を見据えて座っている。以前、それを指摘したら「殿下もそんなお顔をなさっておいでです」と返された。
「ジェフリーが辞意を示した」
そうなることはどこかで覚悟をしていた。彼ならそう言い出すだろう。
「如何なさるおつもりで?」
「預りとした」
「左様でございますか」
面白いほど表情を変えないヘスターを見ていると、可笑しみを感じてしまった。笑いが漏れそうになるのを堪えながら
「夫人は侍女を辞することとなった」
そう言えば、ヘスターは当たり前のことを言うように、
「ロレイン様が淋しがられますな」と真顔で言った。
「緩衝材を失ってしまうな」
ロレインのこととなるとイーディスはいつでも矢面に立っていた。刺客に襲われたときにはロレインに覆いかぶさり自ら盾となった。刃が振り上げられて、それを止められないと解った時の絶望を、フレデリックは生涯忘れられないと思っている。
イーディスの姿を目にすることは、今後は数えるほどになるだろう。
それでも、喩え自分の目の届かないところにいたたとしても、イーディスがこの世界に生きていてくれるのなら、もうそれだけで良いと思えた。
押し付けられるように娶った筈の妻を、ジェフリーが可怪しなほど執着を見せたことには驚いた。
粗末に扱ってほしい訳ではなかったが、次第に睦まじさを深めていくジェフリーとイーディスに、胸が詰まるような苦しさを覚えた。
ジェフリーが護衛の任を退くのは、イーディスとの未来の為だろう。自身が蒔いた種を刈り取る時が来たのだと、フレデリックはそう思っている。
「愛は育めば育つものです」
「は?」
ヘスターの口から出た愛という単語に、フレデリックは思わず気の抜けた反応をした。
「愛とは無尽蔵に湧き出るものではないのです。泉とて何れ枯れることもあるのですから」
「へえ、お前は愛に詳しいのだな」
「私も政略結婚でしたから」
ぴくりとも表情を変えずに大真面目に愛を語るヘスター。
「成る程。先達の言葉とは重いな」
「先達と言われるほど歳は離れておりませんが」
「はは」
側近に恵まれたと思っている。
彼等のお蔭で乗り越えられたことは、ひとつふたつではない。
馬車の揺れに身を任せながら、鮮やかな赤髪の男を思い浮かべる。
フレデリックはジェフリーの進退についてを考えた。
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