侯爵夫人の手紙

桃井すもも

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【23】

オーガストは荒ぶっていた。

彼はどちらかと言えば感情の起伏が乏しく、周囲からも冷静な気質だと評されている。それは、侯爵当主としても文官の長としても相応しいものである。

そのオーガストの心が荒れている。
猫の毛を逆手で撫でる様な不快感。全身の毛が髪と言わず体毛と言わず、全てが逆立つ様である。まなじりが吊り上がって睫毛まで逆立った。



オーガストはその日も夜半遅くまで執務室にいた。ルイーザが抜けた穴は、彼女が別荘に向かった直後は問題無く埋められた。
それが、日を追うごとにじりじりと穴を広げて行くのを侯爵家の人間達は皆、気が付いている。

夫人が夏の休暇に出掛けただけの事である。どこの家にもある珍しい事ではない。普通の貴族家なら。
侯爵家に於いて、ルイーザが家の全てを取り仕切っていた訳では無い。だが、彼女が担っていた事は二年の間に裾野を広げて多岐に渡っていた。
夫人の家政も貴族の社交も、領地の差配も当主の執務までも、彼女はあらゆる事に広く深く携わって、彼女が抜けてしばらく経った今になって確かな影響が現れている。

それでも最近のオーガストは、離ればなれの妻と文を交わせる事でモチベーションが上がっていたから、何とか彼女のいない穴を見ずにいられた。彼女の心が癒えるなら、もう暫くは耐えられる。そう思っていた。

だが、もう無理である。こればかりは許せない。

独り無言のまま書類をさばく。只管ひたすら捌きながら、今朝早便で届けられた文の内容が頭から離れない。

ジェイムズから報告が届いた。
その内容に、オーガストは目の前が真っ赤に染まるのを感じた。沸々と血潮が煮えたぎる様に感情が大きく揺さぶられた。直ぐにそれが怒りの感情なのだと気が付いた。

「くそっ、」

考え事をしていたからだろう。書類にインクが一滴垂れて滲んだ。書類を汚すなど新米文官の頃でも無かった事だ。

無意識の内に暦を見る。夏の盛りは過ぎている。黙っていても妻は此処に帰って来る。オーガストは此処で妻を待てば妻はちゃんと戻って来る。

「戻って来るだと?」

本当にそうか?彼女は自分の意志でここを出た。確かにジェイムズに背中を押されはしたが、決めたのはルイーザ自身だ。そうして彼女はそれっきり、文を送って来るだけで戻る気配を見せていない。いつ帰るとも、はっきりした事をルイーザは一言だって文に記してはいない。ひと夏と、漠然とそう思っていただけだ。

「本当に、帰って来るのか?」

オーガストが別荘を訪れたのは幼い時分である。暫く彼処へは行っていない。祖父の終の棲家であっても他領である。

「ローレンス・ヒュー・マーモット。」

ギリッと歯を噛み締める。
記憶の再従兄はとこは少年の姿である。妻を早くに亡くした事は知っている。両親が弔いに出向いていた。マーモット伯爵領には今も別荘があるのだから、無関係の遠縁とは言えない。

だがオーガストは、ローレンスを許し難く思っている。

りにも選って、我が最愛に手出しをするとは、」

書類の紙面にペン先がぐっとめり込む。

「許すまじ」



オーガストは、翌朝まで執務室に籠もった。
早朝、家令と執事を呼び、細々と指示を出した。一睡もせぬまま城に上がり、早朝の無人の部屋で執務の段取りをする。

「これはまた、お早い登城で。」

彼が早い時間に来るのは解っていた。今日はそれを待っていた。

「サフォーク子爵、頼まれてはくれないか。」

子爵が頷くのを確かめて、オーガストは細々と指示を出す。緊急事案ならその全ては彼と共有しているから任せられる。近々の事も問題無いだろう。ひと月先となれば流石に調整が必要となる。それも彼なら請け負ってくれると頼みにした。

メモを取る暇すら与えずに、時間を惜しむ様に次々指示を出すオーガストを、子爵は呆気なく呼び止めた。

「オーガスト殿。」

子爵は義父として話している。

「全て我らにお任せなさい。城の事は私に、邸の事は貴方の使用人達に。彼等は皆優秀だ。そうして此処に詰めている貴方の部下達も皆一人残らず優秀だ。暫く貴方がいなくとも地球は回るし城も回る。侯爵家だって揺るがない。」

時間に追われるように気が急くオーガストを、子爵はやんわりとストップを掛けて、全て任せて大丈夫だと言う。

「娘を頼みましたよ。いつまでも呆けて遊んでもらっては困るのでしょう?ならばしっかり捕まえて、貴方の下へ連れ帰って下されば宜しい。だがその前に。貴方も少しくらいは時間を取るべきだ。夏は毎年訪れるが、今年の夏はもう二度と訪れない。」

さあ、帰った帰ったと子爵に追い立てられて、オーガストは部屋から追い出された。部屋を出た扉の前で後ろを振り返ったオーガストに、子爵はにっと笑って扉を閉めた。


オーガストは王都を出る。ただ帰りを待つのはもう飽き飽きだ。待って妻が帰って来るか、それすら不確かに思えて来る。
オーガストはルイーザを信じている。けれども、ルイーザはオーガストを信じてくれているだろうか。妻の心の琴線に触れることを恐れて、あと一歩を踏み出せずにいた夫に、彼女が愛想を尽かさないと言い切れるのか。そうなれば、捨てられるのはオーガストだ。

誰にも手出しをさせるものか。
今度妻に会えたら言葉にしよう。君が大切なんだと伝えよう。君を傷付けたかった訳じゃない。
君だけを愛しているんだ。


ジェイムズの報告には、ルイーザに接近するローレンスの事が記されていた。
以前から度々彼の事は報告に上がっていたが、最近、大きな変化があった。
街中で領民達のいる前で、はっきりとルイーザに告げたと言う。後添いにルイーザを望んでいることを。

「ルイーザは私の妻だ。」

不貞を誘う行為であるのに、領民達もそれを望み、どうやら加担しているらしい空気が窺えると言う。
ジェイムズからの一連の報告に目を通して、湖の水底より冷静沈着な男である筈のオーガストの心中は、熱く茹だって燃えたぎった。


侯爵邸に戻る馬車の中で、オーガストはこれからの算段をする。邸は使用人達が守りを固めて、城の仕事は義父に任せた。これから先の事はオーガストにしか出来ない事だ。

ルイーザを迎えに行く。彼女の心を取り戻す。待ってる時間は、もう終いである。


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