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学院の最終学年も半ばを過ぎた、冬の初めの朝だった。
教室に入れば、アイリスは既に登校していた。
「お早う御座います、アイリス様」
「お早う、エリザベート。今日も美しいわね」
アイリスこそ麗しい笑みで、エリザベートへ微笑んだ。
「陰」の王女、王国の第五王女アイリスは、清々しい気質の聡明な王女である。
やや吊り目がちなロイヤルブルーの瞳は涼し気で、立っても座しても背筋の伸びた凛とした王女である。
王女の身分でありながら、伯爵令嬢のエリザベートを側に置いて、背格好が似ている二人こそ「真実の姉妹」などと呼ばれていた。
淑女学院にも高位貴族令嬢はいるにはいるが、数はそれほど多くはなかった。貴族子女の大半が貴族学園に入学していたから、淑女学院の生徒は元より少数であった。そうして精鋭揃いであった。
筆頭公爵家の子女も高位貴族の嫡男嫡女も、その殆どが貴族学園に入学している。
それは学園には王族も学んでいたからで、アイリスの双子の姉であるリリーがそうであった。アイリスの様に女学院に入る王女は過去にもそれほど多くない。
アイリスは、世間では「陰の王女」の名で通っていても、彼女自身はそんな事を気にする様子はなかった。前を見据えて歩く姿は王族の風格と気品に溢れていた。
そうしてやはり頭脳は明晰で、瞬時に解を導き出すのに思慮深い、どこまでも聡明な王女であった。
アイリスとエリザベートは、どちらともなく気が合い惹かれ合って、気が付けば髪型もリボンの色まで揃いになって、二人は大抵いつも一緒に並び歩いていた。
最終学年に上がり季節が過ぎて、初冬を迎える頃だった。
凍てつく早朝の教室で、アイリスはエリザベートに語り掛けた。
「エリザベート。貴女、城に来ない?」
一瞬、茶会のお誘いなのだろうかとエリザベートは思った。その思い違いを正す様にアイリスは続けた。
「私付きの女官にならない?貴女だったら登用試験を受けてみる価値はあると思うわ。もう宜しいのではなくて?貴女の御母様も、今の貴女を見たならきっと背を押して下さるのではないかしら。不義に生涯付き合うのと、独り立ちして貴女の人生がどう開くのか確かめるのと、どちらが愉快か試してみたいと思わない?」
呆気に取られて言葉を返せずにいるエリザベートに、
「狡い言い方をしてしまったわ。私、貴女を気に入っているの。この先の人生をあの魔窟で生きて行くのに、貴女が側にいてくれたならちょっとはやる気が出るのではないかと思ったのよ」
そう言って、吊り目がちの眦をほんのちょっと下げて見せた。
即答を控えたエリザベートであったが、決断は早かった。折しも文官女官の登用試験の申込み期間であった。試験は学院を通して受けられる。アイリスは思い付きで誘ったのではなく、明らかにこの時期を狙っていたのだろう。
エリザベートが侯爵家嫡男の婚約者である事は、別のゴシップめいた噂と共に広く知られていたから、申込み書類を提出した際に教師は驚いた表情を見せた。だがそれは一瞬の事で、「確かに」と言って申込み書類を受け取ってくれた。
成人したエリザベートが女官の登用試験を受けるのに、生家の同意は不要だった。
女官や侍女や文官は、家の縛りに左右されない様に、成人済みで学園や学院で学んだ者には広く門戸が開かれていた。
もしも登用試験に合格したなら、父に打ち明けよう。そうしてこの胸に巣食い硬くこびり付いた恋心を消し去ってしまおう。
消し方を、エリザベートは知っている。
それは母が教えてくれた。
病を得る少し前、母はエリザベートを連れて教会を訪った。
教会の待合室で、母はエリザベートに小瓶を見せてくれた。その頃には司祭であったマーキスから手渡された小瓶であった。
小瓶には透明な液体が入っていた。母の指先で日射しを受けて虹色の光が見えていた。
今でもはっきり憶えている。
ほっそりとした白い指が小瓶の蓋を開けて、母は少し何かを考える様に瞳を閉じた。そうして瞼を開いてエリザベートを見つめて言った。
「シシィ、綺麗でしょう?」
母だけが呼んでくれたエリザベートの愛称。母はにこりと微笑んで、「見ていてね」と言った直後に小瓶を呷った。小さな瓶に入った液体は、直ぐに母の口内に消えてしまった。母はそれを嚥下して、それから、
「綺麗さっぱり忘れたわ」
そう言って白い歯を見せて笑った。エリザベートが初めて見る、母の少女の様な笑みだった。
母が消してしまいたかったのは、父への愛だったのだろう。母は義母とローズの存在を知っていたのだろう。身重の母を置いて他所に愛を移した父を、何年も愛しながら許し難く思っていたのだろう。
父への愛を消し去った母は、それから間もなく不調をきたす様になった。
母は、自身の身体が重篤な病を得ていることに気付いていたのではないだろうか。
死を覚悟して、この世の未練、父への愛を消し去ったのではないだろうか。
帰りの馬車まで続く教会の通路で、エリザベートは母に尋ねた。
「お母様、何を飲んだの?」
「祈りの聖水よ」
「いのりのせいすい?」
「ええ。司祭様が深い祈りを捧げて下さったの。母様と貴女の幸せを祈って下さったのよ」
「お母様も幸せになるのね?」
「もう幸せよ。ずっと前から、貴女を生んだその日から、母様は幸せだったのよ」
それから母は、床に伏せる日が少しずつ増えた。そうして身体を起こせる日には、何かを書き記していた。多分、あれが遺言状だったのだろう。
父への愛を「祈りの聖水」で綺麗さっぱり消し去った母は、エリザベートの幸福を願って、長い長い遺言状を認めた。
教室に入れば、アイリスは既に登校していた。
「お早う御座います、アイリス様」
「お早う、エリザベート。今日も美しいわね」
アイリスこそ麗しい笑みで、エリザベートへ微笑んだ。
「陰」の王女、王国の第五王女アイリスは、清々しい気質の聡明な王女である。
やや吊り目がちなロイヤルブルーの瞳は涼し気で、立っても座しても背筋の伸びた凛とした王女である。
王女の身分でありながら、伯爵令嬢のエリザベートを側に置いて、背格好が似ている二人こそ「真実の姉妹」などと呼ばれていた。
淑女学院にも高位貴族令嬢はいるにはいるが、数はそれほど多くはなかった。貴族子女の大半が貴族学園に入学していたから、淑女学院の生徒は元より少数であった。そうして精鋭揃いであった。
筆頭公爵家の子女も高位貴族の嫡男嫡女も、その殆どが貴族学園に入学している。
それは学園には王族も学んでいたからで、アイリスの双子の姉であるリリーがそうであった。アイリスの様に女学院に入る王女は過去にもそれほど多くない。
アイリスは、世間では「陰の王女」の名で通っていても、彼女自身はそんな事を気にする様子はなかった。前を見据えて歩く姿は王族の風格と気品に溢れていた。
そうしてやはり頭脳は明晰で、瞬時に解を導き出すのに思慮深い、どこまでも聡明な王女であった。
アイリスとエリザベートは、どちらともなく気が合い惹かれ合って、気が付けば髪型もリボンの色まで揃いになって、二人は大抵いつも一緒に並び歩いていた。
最終学年に上がり季節が過ぎて、初冬を迎える頃だった。
凍てつく早朝の教室で、アイリスはエリザベートに語り掛けた。
「エリザベート。貴女、城に来ない?」
一瞬、茶会のお誘いなのだろうかとエリザベートは思った。その思い違いを正す様にアイリスは続けた。
「私付きの女官にならない?貴女だったら登用試験を受けてみる価値はあると思うわ。もう宜しいのではなくて?貴女の御母様も、今の貴女を見たならきっと背を押して下さるのではないかしら。不義に生涯付き合うのと、独り立ちして貴女の人生がどう開くのか確かめるのと、どちらが愉快か試してみたいと思わない?」
呆気に取られて言葉を返せずにいるエリザベートに、
「狡い言い方をしてしまったわ。私、貴女を気に入っているの。この先の人生をあの魔窟で生きて行くのに、貴女が側にいてくれたならちょっとはやる気が出るのではないかと思ったのよ」
そう言って、吊り目がちの眦をほんのちょっと下げて見せた。
即答を控えたエリザベートであったが、決断は早かった。折しも文官女官の登用試験の申込み期間であった。試験は学院を通して受けられる。アイリスは思い付きで誘ったのではなく、明らかにこの時期を狙っていたのだろう。
エリザベートが侯爵家嫡男の婚約者である事は、別のゴシップめいた噂と共に広く知られていたから、申込み書類を提出した際に教師は驚いた表情を見せた。だがそれは一瞬の事で、「確かに」と言って申込み書類を受け取ってくれた。
成人したエリザベートが女官の登用試験を受けるのに、生家の同意は不要だった。
女官や侍女や文官は、家の縛りに左右されない様に、成人済みで学園や学院で学んだ者には広く門戸が開かれていた。
もしも登用試験に合格したなら、父に打ち明けよう。そうしてこの胸に巣食い硬くこびり付いた恋心を消し去ってしまおう。
消し方を、エリザベートは知っている。
それは母が教えてくれた。
病を得る少し前、母はエリザベートを連れて教会を訪った。
教会の待合室で、母はエリザベートに小瓶を見せてくれた。その頃には司祭であったマーキスから手渡された小瓶であった。
小瓶には透明な液体が入っていた。母の指先で日射しを受けて虹色の光が見えていた。
今でもはっきり憶えている。
ほっそりとした白い指が小瓶の蓋を開けて、母は少し何かを考える様に瞳を閉じた。そうして瞼を開いてエリザベートを見つめて言った。
「シシィ、綺麗でしょう?」
母だけが呼んでくれたエリザベートの愛称。母はにこりと微笑んで、「見ていてね」と言った直後に小瓶を呷った。小さな瓶に入った液体は、直ぐに母の口内に消えてしまった。母はそれを嚥下して、それから、
「綺麗さっぱり忘れたわ」
そう言って白い歯を見せて笑った。エリザベートが初めて見る、母の少女の様な笑みだった。
母が消してしまいたかったのは、父への愛だったのだろう。母は義母とローズの存在を知っていたのだろう。身重の母を置いて他所に愛を移した父を、何年も愛しながら許し難く思っていたのだろう。
父への愛を消し去った母は、それから間もなく不調をきたす様になった。
母は、自身の身体が重篤な病を得ていることに気付いていたのではないだろうか。
死を覚悟して、この世の未練、父への愛を消し去ったのではないだろうか。
帰りの馬車まで続く教会の通路で、エリザベートは母に尋ねた。
「お母様、何を飲んだの?」
「祈りの聖水よ」
「いのりのせいすい?」
「ええ。司祭様が深い祈りを捧げて下さったの。母様と貴女の幸せを祈って下さったのよ」
「お母様も幸せになるのね?」
「もう幸せよ。ずっと前から、貴女を生んだその日から、母様は幸せだったのよ」
それから母は、床に伏せる日が少しずつ増えた。そうして身体を起こせる日には、何かを書き記していた。多分、あれが遺言状だったのだろう。
父への愛を「祈りの聖水」で綺麗さっぱり消し去った母は、エリザベートの幸福を願って、長い長い遺言状を認めた。
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