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「お気持ちにお変わりはないと?」
「はい。司祭様」
教会の司祭であるマーキスは、エリザベートの決心が変わらないことを確かめて、胸ポケットから小さな瓶を取り出した。
「戻られてからになさいますか?」
「いいえ、今ここで」
「貴方に見届けて頂いても宜しいでしょうか」
エリザベートの言葉にマーキスが頷いた。
「綺麗な色ですのね」
手渡された小瓶を目の前に掲げれば、窓から差し込む午後の日射しに照らされて、琥珀色の液体が燦いて見えた。
祈りが捧げられた液体は、見る人により色を変えるのだろうか。マーキスにはどんな色に見えているのだろう。
エリザベートは瞳を閉じた。そうして瞼に浮かぶデマーリオを思い浮かべた。こちらに向かって微笑むシトリンの瞳、風に靡く金色の髪。
聖水を飲み込む前に、この胸を静かに焦がす確かな愛を味わった。絶え間なく湧く清水の様に、どんなに孤独を感じても尽きることの無い愛だった。滲むように胸の内から沸き上がるこの感情も、もうこれが最後となる。
エリザベートはシトリンの瞳を思い浮かべた。
デマーリオ様。
最後の想いを捧げるように、心の中で名を呼んだ。まだ婚約したばかり、ローズも義母も居なかった頃、エリザベートだけを見つめてくれた少年の笑みが思い浮かんだ。
瞼を開ければデマーリオの瞳と同じ色の液体は、変わらず琥珀色に耀いていた。
胸の奥に残る愛を手放すことへの寂しさに、心を動かされることは無かった。
小瓶の蓋を空けて、一気に呷った。とろりと冷たい液体が喉を通る。ほんのりと甘い味がして、遠い昔に吸った花弁の蜜の味に似ていると思った。あれは蓮華の花だったろうか。
聖水を飲み終えても、世界は何も変わらなかった。苦かったらどうしようとそればかりは不安であったが、思い掛けず甘かった。
「具合は如何でしょうか」
「特段何も変わりませんわ」
「痛みは、お身体に変化はございませんか」
「いいえ。どこも」
馬車までマーキスが送ってくれて、その間、二人の間に会話は無かった。
頬を撫でる風は冷たいが、早春の気配が風の匂いに感じられた。
春が来る。
ただ季節が巡るだけなのに、何故だか春は胸が弾む。春は母がエリザベートを生んでくれた季節だ。
馬車に着いて御者が扉を開き、エリザベートはステップを上がろうと一歩踏み出した。
「お手を」
御者より先にマーキスが手を貸してくれたのは初めてで、聖水を飲んだばかりのエリザベートを案じているのだろうと、彼の気遣いに感謝した。
「また祈りを捧げに参ります」
「お待ちしております。神の御加護が貴女にあらんことを」
マーキスの言葉を最後に扉が閉まり、馬車が走り出す。
馬車の窓から見える風景はいつも通りで、身体も感情も変化は無かった。デマーリオのシトリンの瞳をもう一度思い出して、久しく彼の瞳を見つめていない事に気がついた。だからだろう、懐かしいという気持ちが沸いて来た。
思い出になったのだわ。
神の加護が確かであったことが解って、エリザベートは嬉しくなってしまった。
デマーリオを思い浮かべても、もうエリザベートの心は騒がない。
誰も何も変わらない。ただ、エリザベートが心を一つ手放して、その分身体が軽くなった。そんなささやかな変化であった。
邸に戻って自室で独りになると、窓の外から小鳥が囀るのが聴こえた。春を告げる渡り鳥だ。
「胸が静かだわ」
デマーリオに愛を抱いてから、いつも胸を騒がせていたざわめきは、跡形もなく綺麗に消え失せていた。
「なんて事をしてくれたんだっ」
その日は、父が離れの邸で晩餐を共にする日であった。
半月前には女官に採用が内定した知らせを受け取っていたが、エリザベートはそれを未だ父に伝えてはいなかった。教会で『祈りの聖水』を飲んで、デマーリオへの愛を消してから父に伝えるのだと決めていた。
父が多少なりとも慌てることは予想していた。婚姻の決まっている娘が、それを目前にして王城に勤めるだなんて思いもしない事だろう。
「なんということをしたのだ。お前はもう直ぐ嫁ぐのだぞ。それなのに女官だなんて、侯爵閣下に何と言う」
二人きりの晩餐の席で父の声が響く。
「ですがお父様、私の婚姻は日取りすら決められておりませんわ。お父様からも侯爵家からも、勿論デマーリオ様からも、何も知らされてはおりません。私は二週間後には学院を卒業しますのよ」
「お前が卒業してからでも、侯爵家で夫人教育を受けながらゆっくり決めても遅くはなかろう。お前自身が確かめて式を段取りする方が良いだろうと、侯爵家ともそう話していた」
「私はどなたからも何も聞かされてはおりません。ですからこの婚約は、何れは解消されるのだと思っておりました」
「そんな事がある訳が無かろう!」
「ですが、お父様。婚約者との交流は月に一度。こちらかあちらの邸でお茶を頂くだけですわ。十年です。十年の間、私がデマーリオ様と二人きりで外出したのは、お父様からお許しを頂いた夜会だけですわ。ローズは毎日デマーリオ様と、同じ馬車で学園に通っておりますでしょう」
「どうしてローズの名が出る」
「そう云う事なのだと思ったのです」
「そう云う事とはどう云う事だ」
「お父様だってお分かりでしょう?もう、ずっと前から」
手に持つカトラリーを一旦置いてナプキンで口元を拭う。
エリザベートは両手を揃えて膝の上に置き、エリザベートと同じ父の群青色の瞳を見据えた。そうれから、父だって分かり切っている事を言葉にした。
「デマーリオ様がローズをお望みなのだと。そうしてローズも同じ気持ちなのだと」
「はい。司祭様」
教会の司祭であるマーキスは、エリザベートの決心が変わらないことを確かめて、胸ポケットから小さな瓶を取り出した。
「戻られてからになさいますか?」
「いいえ、今ここで」
「貴方に見届けて頂いても宜しいでしょうか」
エリザベートの言葉にマーキスが頷いた。
「綺麗な色ですのね」
手渡された小瓶を目の前に掲げれば、窓から差し込む午後の日射しに照らされて、琥珀色の液体が燦いて見えた。
祈りが捧げられた液体は、見る人により色を変えるのだろうか。マーキスにはどんな色に見えているのだろう。
エリザベートは瞳を閉じた。そうして瞼に浮かぶデマーリオを思い浮かべた。こちらに向かって微笑むシトリンの瞳、風に靡く金色の髪。
聖水を飲み込む前に、この胸を静かに焦がす確かな愛を味わった。絶え間なく湧く清水の様に、どんなに孤独を感じても尽きることの無い愛だった。滲むように胸の内から沸き上がるこの感情も、もうこれが最後となる。
エリザベートはシトリンの瞳を思い浮かべた。
デマーリオ様。
最後の想いを捧げるように、心の中で名を呼んだ。まだ婚約したばかり、ローズも義母も居なかった頃、エリザベートだけを見つめてくれた少年の笑みが思い浮かんだ。
瞼を開ければデマーリオの瞳と同じ色の液体は、変わらず琥珀色に耀いていた。
胸の奥に残る愛を手放すことへの寂しさに、心を動かされることは無かった。
小瓶の蓋を空けて、一気に呷った。とろりと冷たい液体が喉を通る。ほんのりと甘い味がして、遠い昔に吸った花弁の蜜の味に似ていると思った。あれは蓮華の花だったろうか。
聖水を飲み終えても、世界は何も変わらなかった。苦かったらどうしようとそればかりは不安であったが、思い掛けず甘かった。
「具合は如何でしょうか」
「特段何も変わりませんわ」
「痛みは、お身体に変化はございませんか」
「いいえ。どこも」
馬車までマーキスが送ってくれて、その間、二人の間に会話は無かった。
頬を撫でる風は冷たいが、早春の気配が風の匂いに感じられた。
春が来る。
ただ季節が巡るだけなのに、何故だか春は胸が弾む。春は母がエリザベートを生んでくれた季節だ。
馬車に着いて御者が扉を開き、エリザベートはステップを上がろうと一歩踏み出した。
「お手を」
御者より先にマーキスが手を貸してくれたのは初めてで、聖水を飲んだばかりのエリザベートを案じているのだろうと、彼の気遣いに感謝した。
「また祈りを捧げに参ります」
「お待ちしております。神の御加護が貴女にあらんことを」
マーキスの言葉を最後に扉が閉まり、馬車が走り出す。
馬車の窓から見える風景はいつも通りで、身体も感情も変化は無かった。デマーリオのシトリンの瞳をもう一度思い出して、久しく彼の瞳を見つめていない事に気がついた。だからだろう、懐かしいという気持ちが沸いて来た。
思い出になったのだわ。
神の加護が確かであったことが解って、エリザベートは嬉しくなってしまった。
デマーリオを思い浮かべても、もうエリザベートの心は騒がない。
誰も何も変わらない。ただ、エリザベートが心を一つ手放して、その分身体が軽くなった。そんなささやかな変化であった。
邸に戻って自室で独りになると、窓の外から小鳥が囀るのが聴こえた。春を告げる渡り鳥だ。
「胸が静かだわ」
デマーリオに愛を抱いてから、いつも胸を騒がせていたざわめきは、跡形もなく綺麗に消え失せていた。
「なんて事をしてくれたんだっ」
その日は、父が離れの邸で晩餐を共にする日であった。
半月前には女官に採用が内定した知らせを受け取っていたが、エリザベートはそれを未だ父に伝えてはいなかった。教会で『祈りの聖水』を飲んで、デマーリオへの愛を消してから父に伝えるのだと決めていた。
父が多少なりとも慌てることは予想していた。婚姻の決まっている娘が、それを目前にして王城に勤めるだなんて思いもしない事だろう。
「なんということをしたのだ。お前はもう直ぐ嫁ぐのだぞ。それなのに女官だなんて、侯爵閣下に何と言う」
二人きりの晩餐の席で父の声が響く。
「ですがお父様、私の婚姻は日取りすら決められておりませんわ。お父様からも侯爵家からも、勿論デマーリオ様からも、何も知らされてはおりません。私は二週間後には学院を卒業しますのよ」
「お前が卒業してからでも、侯爵家で夫人教育を受けながらゆっくり決めても遅くはなかろう。お前自身が確かめて式を段取りする方が良いだろうと、侯爵家ともそう話していた」
「私はどなたからも何も聞かされてはおりません。ですからこの婚約は、何れは解消されるのだと思っておりました」
「そんな事がある訳が無かろう!」
「ですが、お父様。婚約者との交流は月に一度。こちらかあちらの邸でお茶を頂くだけですわ。十年です。十年の間、私がデマーリオ様と二人きりで外出したのは、お父様からお許しを頂いた夜会だけですわ。ローズは毎日デマーリオ様と、同じ馬車で学園に通っておりますでしょう」
「どうしてローズの名が出る」
「そう云う事なのだと思ったのです」
「そう云う事とはどう云う事だ」
「お父様だってお分かりでしょう?もう、ずっと前から」
手に持つカトラリーを一旦置いてナプキンで口元を拭う。
エリザベートは両手を揃えて膝の上に置き、エリザベートと同じ父の群青色の瞳を見据えた。そうれから、父だって分かり切っている事を言葉にした。
「デマーリオ様がローズをお望みなのだと。そうしてローズも同じ気持ちなのだと」
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