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王城に上がって三月以上が経つのに、結局エリザベートは一度も伯爵家へは帰っていなかった。
そんな事はあり得ないのに、今戻ってしまったら、もう城に帰ってこれなくなってしまう様に思えた。
馴染んだ使用人等は今も変わらず離れの邸にいて、いつ何時エリザベートが帰宅しても良いように整えてくれているだろう。
それが解っているのに、帰る気にはなれずにいる。
デマーリオとの婚約は変わらず継続されていたから、月に一度の婚約者の会合は持たれている。最初の月ばかりは多忙を理由に断ったが、それ以降は二度ほど彼とは会っていた。
互いの邸で会うのは気が進まずに、王都のカフェに行ってみたいと提案すれば、デマーリオはそれを快諾して、良さそうな店を見繕っておくと文にはあった。
デマーリオとは十年も婚約していたにも関わらず、エリザベートは彼と街を歩いた事が一度も無かった。デマーリオへの恋を消してしまってからそんな機会を得られるのは、なんとも皮肉な事に思われた。
「エリザベート」
待ち合わせをしたのは王立図書館で、図書館は広く階層も多いのに、デマーリオは待ち合わせ時間の五分前にはエリザベートを見つけてしまった。
「ん?少し痩せたのではないか?城の務めで無理が祟っているんじゃないか?」
王立図書館からほど近い場所にある小洒落たカフェの個室に入ると、デマーリオは向かいの席からエリザベートを探るような目で見る。
ここまで来る馬車の中で、二人は殆ど言葉を交わしておらず、お互いがお互いに何を言うべきか言葉を選ぶ様であった。
デマーリオは文に書かれた通りにカフェの一室を押さえてくれた。城務めをする様になって漸く世間が広くなってきたエリザベートであるが、デマーリオの早耳には到底及ばない。
彼は学生の時分から、こんな風に街歩きにも慣れていたのだろう。学友と歩く事もあっただろうし、その中にはローズもいたのだろう。
王城に上がってから生家には戻っていなかったから、父の事も義家族の事も、勿論ローズの事も、多忙な日常の中で忘れる日が増えていた。
デマーリオは、そんなエリザベートの過ぎた日々を思い出させる。
「女官とはそれほど忙しいのか?一度も邸に戻っていないと聞いた」
「どなたから?」
エリザベートの問いにデマーリオは答えなかった。父やエミリオだと言えないのは、それがローズから聞いたことで、彼はローズとの関係を否定しながら交流は続けているらしい。
小さく溜め息を付いたエリザベートに、デマーリオは僅かに眉を顰めた。
「私達には何も無い」
「私達」
エリザベートの周りはいつでもこちらとあちらに分けられる。大抵が「君」と「私達」で分けられた。エリザベートはいつでも単体で表される。
気まずいのだろうか、デマーリオがこちらに向けた視線を逸らしたのが、伏せた目からも気配で解った。
「衣装なら、」
「ん?なんだ、言ってくれ」
「文にも書きましたが、夜会の衣装ならご心配には及びません。それから装飾品も。私は夜会の間はアイリス殿下から離れませんし、アイリス殿下をお一人にするつもりもございません。貴方は貴方でご参加下さって宜しいのです。私にお気遣いを頂くのは心苦しいです。どうぞ、これまで通りローズと交流なさって下さい」
間を挟まずに言い切れば、途端に沈黙が訪れた。丁度、お茶が用意されて、それを切っ掛けにデマーリオが口を開いた。
「ここはタルトが美味いんだ」
見た所、店の設えも調度品もそれほど時を経たものには見えない。個室に入るまでに見た店内も、貴婦人や令嬢達で賑わっていた。この店は開店して間もないのだろう。そうしてその新たに人気を博している店に、デマーリオはメニューに詳しくなるほどには通っているのだろう。
王太子の執務を助け自身も公務を持つアイリスに仕えるエリザベートは、文官紛いの地味な日々であったから社交から最も遠い場所にいた。
婦人方が撒き散らす白粉の臭いも香水の香りも、とりどりに鮮やかなドレスの色も、エリザベートからは遠い世界のものだった。
結局、タルトは頼まずに二杯目のお茶を注文した。
「珈琲は飲めるかな?」
「苦味が駄目なのです」
「ん?君は苦いのは駄目だったか?ああ、」
ああ、と言ったのは、苦い物が不得手ではない別の令嬢と間違えたのに気付いたのだろう。ローズはあんな甘やかな顔で苦い物が大丈夫なのだろうか。異母妹の事をよく知らないエリザベートはそう思った。
何となく気まずい空気が漂ったところで、デマーリオが再び口火を切る。
「伯爵が、君のお父上が、君のことを案じておられた。休暇はあるのだから、お父上に顔を見せて差し上げてはどうか。私の母も君に会いたいと言っている」
夏至も過ぎて季節は夏を迎えていた。離れの邸の庭にも夏花が咲くころだろう。使用人達は息災だろうか。老齢のロバートは暑さに体調を崩してはいないだろうか。
「折をみて帰ります」
離れの邸の使用人達が気掛かりでそう言えば、デマーリオは安堵した様な顔をした。きっと誰かに頼まれていたのだろう。恐らくは父に。
だが、頼むくらいなら文の一つ送る方が余程早いだろう。王城勤めとなってから、エリザベートに届く文とはデマーリオ以外には母方の祖父母だけであった。
後はすっかり没交渉で、父は結局何一つ以前と変わらなかった。
そんな事はあり得ないのに、今戻ってしまったら、もう城に帰ってこれなくなってしまう様に思えた。
馴染んだ使用人等は今も変わらず離れの邸にいて、いつ何時エリザベートが帰宅しても良いように整えてくれているだろう。
それが解っているのに、帰る気にはなれずにいる。
デマーリオとの婚約は変わらず継続されていたから、月に一度の婚約者の会合は持たれている。最初の月ばかりは多忙を理由に断ったが、それ以降は二度ほど彼とは会っていた。
互いの邸で会うのは気が進まずに、王都のカフェに行ってみたいと提案すれば、デマーリオはそれを快諾して、良さそうな店を見繕っておくと文にはあった。
デマーリオとは十年も婚約していたにも関わらず、エリザベートは彼と街を歩いた事が一度も無かった。デマーリオへの恋を消してしまってからそんな機会を得られるのは、なんとも皮肉な事に思われた。
「エリザベート」
待ち合わせをしたのは王立図書館で、図書館は広く階層も多いのに、デマーリオは待ち合わせ時間の五分前にはエリザベートを見つけてしまった。
「ん?少し痩せたのではないか?城の務めで無理が祟っているんじゃないか?」
王立図書館からほど近い場所にある小洒落たカフェの個室に入ると、デマーリオは向かいの席からエリザベートを探るような目で見る。
ここまで来る馬車の中で、二人は殆ど言葉を交わしておらず、お互いがお互いに何を言うべきか言葉を選ぶ様であった。
デマーリオは文に書かれた通りにカフェの一室を押さえてくれた。城務めをする様になって漸く世間が広くなってきたエリザベートであるが、デマーリオの早耳には到底及ばない。
彼は学生の時分から、こんな風に街歩きにも慣れていたのだろう。学友と歩く事もあっただろうし、その中にはローズもいたのだろう。
王城に上がってから生家には戻っていなかったから、父の事も義家族の事も、勿論ローズの事も、多忙な日常の中で忘れる日が増えていた。
デマーリオは、そんなエリザベートの過ぎた日々を思い出させる。
「女官とはそれほど忙しいのか?一度も邸に戻っていないと聞いた」
「どなたから?」
エリザベートの問いにデマーリオは答えなかった。父やエミリオだと言えないのは、それがローズから聞いたことで、彼はローズとの関係を否定しながら交流は続けているらしい。
小さく溜め息を付いたエリザベートに、デマーリオは僅かに眉を顰めた。
「私達には何も無い」
「私達」
エリザベートの周りはいつでもこちらとあちらに分けられる。大抵が「君」と「私達」で分けられた。エリザベートはいつでも単体で表される。
気まずいのだろうか、デマーリオがこちらに向けた視線を逸らしたのが、伏せた目からも気配で解った。
「衣装なら、」
「ん?なんだ、言ってくれ」
「文にも書きましたが、夜会の衣装ならご心配には及びません。それから装飾品も。私は夜会の間はアイリス殿下から離れませんし、アイリス殿下をお一人にするつもりもございません。貴方は貴方でご参加下さって宜しいのです。私にお気遣いを頂くのは心苦しいです。どうぞ、これまで通りローズと交流なさって下さい」
間を挟まずに言い切れば、途端に沈黙が訪れた。丁度、お茶が用意されて、それを切っ掛けにデマーリオが口を開いた。
「ここはタルトが美味いんだ」
見た所、店の設えも調度品もそれほど時を経たものには見えない。個室に入るまでに見た店内も、貴婦人や令嬢達で賑わっていた。この店は開店して間もないのだろう。そうしてその新たに人気を博している店に、デマーリオはメニューに詳しくなるほどには通っているのだろう。
王太子の執務を助け自身も公務を持つアイリスに仕えるエリザベートは、文官紛いの地味な日々であったから社交から最も遠い場所にいた。
婦人方が撒き散らす白粉の臭いも香水の香りも、とりどりに鮮やかなドレスの色も、エリザベートからは遠い世界のものだった。
結局、タルトは頼まずに二杯目のお茶を注文した。
「珈琲は飲めるかな?」
「苦味が駄目なのです」
「ん?君は苦いのは駄目だったか?ああ、」
ああ、と言ったのは、苦い物が不得手ではない別の令嬢と間違えたのに気付いたのだろう。ローズはあんな甘やかな顔で苦い物が大丈夫なのだろうか。異母妹の事をよく知らないエリザベートはそう思った。
何となく気まずい空気が漂ったところで、デマーリオが再び口火を切る。
「伯爵が、君のお父上が、君のことを案じておられた。休暇はあるのだから、お父上に顔を見せて差し上げてはどうか。私の母も君に会いたいと言っている」
夏至も過ぎて季節は夏を迎えていた。離れの邸の庭にも夏花が咲くころだろう。使用人達は息災だろうか。老齢のロバートは暑さに体調を崩してはいないだろうか。
「折をみて帰ります」
離れの邸の使用人達が気掛かりでそう言えば、デマーリオは安堵した様な顔をした。きっと誰かに頼まれていたのだろう。恐らくは父に。
だが、頼むくらいなら文の一つ送る方が余程早いだろう。王城勤めとなってから、エリザベートに届く文とはデマーリオ以外には母方の祖父母だけであった。
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