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ミネルバの愛
【1】Prologue
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ミネルバには、幼い頃から祖母とだけ通じる事があった。
父も母も祖父にも通じないものであったから、それが祖母とミネルバだけの秘密事なのだと理解した。
異国から嫁いで来た祖母とは、美しい人だった。
そうして何処か不思議な人だった。
薄い青い瞳がとても綺麗だった。その瞳で見つめられると、ミネルバは嘘を言えなくなってしまう、そんな気持ちにさせられた。
彼女は幼いミネルバにだけ解る言葉で話し掛けた。
「ミネルバ。貴女には私の言う言葉が解るでしょう?」
そう尋ねられて、幼いミネルバは頷いた。
ミネルバは伯爵家の両親の下に生を受けた。
兄が一人おり、ミネルバは他家に嫁ぐ身の貴族令嬢として、極一般的な教育を受けた。そうミネルバは思っていたが、少し特殊な環境であったのは成長してから解った事だ。
伯爵家には両親と兄の他に祖父母がいた。王都郊外の別邸に住まう祖父母に、ミネルバはとても可愛がられた。
特に祖母は幼いミネルバに、令嬢としての教養を指南してくれた。ミネルバ付きのガヴァネスも祖母が選び、物心が付く頃には、ミネルバは生家の本邸と祖父母のいる別邸を行ったり来たりする生活を送っていた。
両親は、領地に戻る際にはミネルバを祖父母のいる別邸に預けた。兄は両親と共に領地に戻り、後継教育を受けていた。
ミネルバには王都で良縁を得てほしい、嫁ぐなら王都に住まう貴族が良いだろう。そう考える両親は、ミネルバが王都で暮らすことを望んでいた。
ミネルバは祖母から沢山の事を教えてもらった。
祖母は、二人きりになるとこの国では聞き慣れない言葉を話した。
それは祖母が生まれた西国の言葉で、祖父も両親も解らないのだと言う。
だがミネルバには、祖母が発する音が確かな言葉なのだと幼いながら理解が出来た。
ガヴァネスから教えられる学びとは別に、祖母から学ぶ時間がある。その時間をミネルバは今も懐かしく思い出す。
そのうち祖母は、祖母が生まれた国の言葉を教えてくれるようになった。
文字は初め、意味の解らない図形に見えたが、それも直ぐに文字と読みが一致していく。
そんな祖母との学びは面白かった。
ある日、祖母は幼いミネルバを連れて、白く大きな美しい建物を訪れた。今なら解る。あれは王城であった。
馬車が止まると扉が開いて、祖母はミネルバを連れて馬車を降りた。
何故、馬車に侍女を残していくのだろう。ミネルバは不思議に思った。
「お祖母様、ハンナは置いていくの?」
「ええ、そうよ。ハンナは馬車でお留守番なのよ」
祖母はそう言ってにこりと笑った。
馬車を降りると目の前に男が一人立っていた。彼はミネルバにちらりと目をやってから、祖母の前になって歩き出した。
長い長い廊下の先に大きな扉が見えて、扉の前には二人の騎士が立っていた。
男が扉を開くと部屋の中は薄暗がりだった。
明かり取りの窓が小さくて、差し込む光は僅かだった。
室内には本が並ぶ棚が天井まで高く伸びている。あのてっぺんにある本を読むには、とても長い梯子がいるだろう。幼い頭でそう考えた。
ゆったりと広い通路を先頭になった男の持つランプが照らす。
整然と並び立つ棚の間を通り抜けて、ここはどこなのかと怖くなった。
繋がれた祖母の手をぎゅっと握れば、祖母は小さな声で「大丈夫」と囁いた。
ここは大切な本を集めた場所なのだと教えてくれた。
後にミネルバは、あの場所こそ禁書が収められた書庫なのだと合点がいくのだが、この時には鼻を突く湿った紙の匂いが溢れる暗い場所という印象だった。
更に奥に進むと、部屋の最奥に突き当たった。
窓から入る日射しも僅かしか届かない暗がりが広がっていた。男が照明をかざせば、照らされた明かりに壁一面に並ぶ書物が姿を現した。
それは硝子の扉で覆われた棚であった。
重厚な硝子扉で守られた棚には、背の草臥れた古い本が並んでいた。
「これは王様の大切な御本なのよ」
男に聞こえぬように、祖母が耳元で囁き教えてくれた。
それはミネルバが初めて目にする禁書棚であった。
男が大きな硝子扉に向かい立って鍵を外し、スライド式の扉を開けた。そうして一冊の古い本を取り出して、祖母へ手渡した。
祖母と男が何かを話し、それから男はランプを置いて出て行った。暗がりの中で歩けるのかとミネルバは薄闇に消えるその背中を見つめた。
壁の隅に小さなテーブルと長椅子があり、祖母はそこに腰掛けた。ミネルバも隣りに座り、それからは祖母が良いと言うまで大人しく座っていた。
祖母は多分、あの書物の翻訳をしていたのだろう。厚みのある、本と言うよりも手帳の様な古本であった。
「ミネルバ、貴女も何れ読める様になるわ」
祖母がそう言ったのを憶えている。
それから何度かあの場所には、祖母に連れられ通っていた。
その日はそんな何度目かの日で、祖母はいつものように古本を読んでいた。
翻訳に違いないのだろうが、祖母はそれらの訳をメモや手帳など何かに書き記してはいなかった。なんでも、文字に残してはいけないのだと言う。
古本の内容をどうやって記憶に留めているのか、祖母の頭の中はどうなっているのだろうと思った。
終いのページに目を通していた祖母は、それからページを戻って目ぼしいページを探る様な素振りを見せた。
それから、
「あ、」
ミネルバは小さく声を漏らした。
祖母は行き成り一枚のページを破り取った。
「これはね、た・い・かと言うのよ」
「たいか?」
「そう。頑張った私へのご褒美よ。貴女の役に立ちそうだから」
そう言って祖母は、悪戯の共犯者にする様に、ミネルバに向かって笑って見せた。
あれが、古の秘術である『祈りの聖水』の製法が記されたページだったのだろう。
父も母も祖父にも通じないものであったから、それが祖母とミネルバだけの秘密事なのだと理解した。
異国から嫁いで来た祖母とは、美しい人だった。
そうして何処か不思議な人だった。
薄い青い瞳がとても綺麗だった。その瞳で見つめられると、ミネルバは嘘を言えなくなってしまう、そんな気持ちにさせられた。
彼女は幼いミネルバにだけ解る言葉で話し掛けた。
「ミネルバ。貴女には私の言う言葉が解るでしょう?」
そう尋ねられて、幼いミネルバは頷いた。
ミネルバは伯爵家の両親の下に生を受けた。
兄が一人おり、ミネルバは他家に嫁ぐ身の貴族令嬢として、極一般的な教育を受けた。そうミネルバは思っていたが、少し特殊な環境であったのは成長してから解った事だ。
伯爵家には両親と兄の他に祖父母がいた。王都郊外の別邸に住まう祖父母に、ミネルバはとても可愛がられた。
特に祖母は幼いミネルバに、令嬢としての教養を指南してくれた。ミネルバ付きのガヴァネスも祖母が選び、物心が付く頃には、ミネルバは生家の本邸と祖父母のいる別邸を行ったり来たりする生活を送っていた。
両親は、領地に戻る際にはミネルバを祖父母のいる別邸に預けた。兄は両親と共に領地に戻り、後継教育を受けていた。
ミネルバには王都で良縁を得てほしい、嫁ぐなら王都に住まう貴族が良いだろう。そう考える両親は、ミネルバが王都で暮らすことを望んでいた。
ミネルバは祖母から沢山の事を教えてもらった。
祖母は、二人きりになるとこの国では聞き慣れない言葉を話した。
それは祖母が生まれた西国の言葉で、祖父も両親も解らないのだと言う。
だがミネルバには、祖母が発する音が確かな言葉なのだと幼いながら理解が出来た。
ガヴァネスから教えられる学びとは別に、祖母から学ぶ時間がある。その時間をミネルバは今も懐かしく思い出す。
そのうち祖母は、祖母が生まれた国の言葉を教えてくれるようになった。
文字は初め、意味の解らない図形に見えたが、それも直ぐに文字と読みが一致していく。
そんな祖母との学びは面白かった。
ある日、祖母は幼いミネルバを連れて、白く大きな美しい建物を訪れた。今なら解る。あれは王城であった。
馬車が止まると扉が開いて、祖母はミネルバを連れて馬車を降りた。
何故、馬車に侍女を残していくのだろう。ミネルバは不思議に思った。
「お祖母様、ハンナは置いていくの?」
「ええ、そうよ。ハンナは馬車でお留守番なのよ」
祖母はそう言ってにこりと笑った。
馬車を降りると目の前に男が一人立っていた。彼はミネルバにちらりと目をやってから、祖母の前になって歩き出した。
長い長い廊下の先に大きな扉が見えて、扉の前には二人の騎士が立っていた。
男が扉を開くと部屋の中は薄暗がりだった。
明かり取りの窓が小さくて、差し込む光は僅かだった。
室内には本が並ぶ棚が天井まで高く伸びている。あのてっぺんにある本を読むには、とても長い梯子がいるだろう。幼い頭でそう考えた。
ゆったりと広い通路を先頭になった男の持つランプが照らす。
整然と並び立つ棚の間を通り抜けて、ここはどこなのかと怖くなった。
繋がれた祖母の手をぎゅっと握れば、祖母は小さな声で「大丈夫」と囁いた。
ここは大切な本を集めた場所なのだと教えてくれた。
後にミネルバは、あの場所こそ禁書が収められた書庫なのだと合点がいくのだが、この時には鼻を突く湿った紙の匂いが溢れる暗い場所という印象だった。
更に奥に進むと、部屋の最奥に突き当たった。
窓から入る日射しも僅かしか届かない暗がりが広がっていた。男が照明をかざせば、照らされた明かりに壁一面に並ぶ書物が姿を現した。
それは硝子の扉で覆われた棚であった。
重厚な硝子扉で守られた棚には、背の草臥れた古い本が並んでいた。
「これは王様の大切な御本なのよ」
男に聞こえぬように、祖母が耳元で囁き教えてくれた。
それはミネルバが初めて目にする禁書棚であった。
男が大きな硝子扉に向かい立って鍵を外し、スライド式の扉を開けた。そうして一冊の古い本を取り出して、祖母へ手渡した。
祖母と男が何かを話し、それから男はランプを置いて出て行った。暗がりの中で歩けるのかとミネルバは薄闇に消えるその背中を見つめた。
壁の隅に小さなテーブルと長椅子があり、祖母はそこに腰掛けた。ミネルバも隣りに座り、それからは祖母が良いと言うまで大人しく座っていた。
祖母は多分、あの書物の翻訳をしていたのだろう。厚みのある、本と言うよりも手帳の様な古本であった。
「ミネルバ、貴女も何れ読める様になるわ」
祖母がそう言ったのを憶えている。
それから何度かあの場所には、祖母に連れられ通っていた。
その日はそんな何度目かの日で、祖母はいつものように古本を読んでいた。
翻訳に違いないのだろうが、祖母はそれらの訳をメモや手帳など何かに書き記してはいなかった。なんでも、文字に残してはいけないのだと言う。
古本の内容をどうやって記憶に留めているのか、祖母の頭の中はどうなっているのだろうと思った。
終いのページに目を通していた祖母は、それからページを戻って目ぼしいページを探る様な素振りを見せた。
それから、
「あ、」
ミネルバは小さく声を漏らした。
祖母は行き成り一枚のページを破り取った。
「これはね、た・い・かと言うのよ」
「たいか?」
「そう。頑張った私へのご褒美よ。貴女の役に立ちそうだから」
そう言って祖母は、悪戯の共犯者にする様に、ミネルバに向かって笑って見せた。
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