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【46】
「アリアドネ。学園では決して一人になるな。」
帰りの馬車の中で、ハデスは真剣な表情を浮かべた。
放課後を「水曜日ならぬ月曜日の報告会」で過ごした為に、ハデスが邸まで送ってくれる事となった。
ハデスは、アリアドネが思った以上にアリアドネの言葉を重く受け止めた様だった。
Eクラスの男子生徒の三人。
彼等の暴挙は夢の中の出来事でしかないのに、現実には何の根拠も無い話に耳を傾けてくれた。
その上で、アリアドネの身辺を案じているらしい。
「はい。暫くは、帰りはヘンドリックと一緒に帰ろうと思います。」
「ああ、うん。そうだ、」
そう言ってハデスは鞄を開き平らな小箱を取り出す。
「夜会でハンカチを借りただろう。これを。」
「まあ、開けても?」
「ああ。」
アリアドネの為にシャンパンを取りに行ってくれたハデス。その指先が濡れていたのをアリアドネはハンカチを差し出した。
ハンカチはそのままハデスが持ち帰ってしまったから、その代わりの品なのだろう。
婚約してから一貫して、ハデスはアリアドネへの贈り物に配慮を欠くことが無い。
そして美的感覚の優れたハデスの審美眼は確かなものである。
「まあ!素敵!」
「気に入ったか。」
「ええ!勿論!」
「そうか。」
大判のシルクのレースハンカチであった。
レースの編み目がとても美しい。繊細な紋様をもっと見たくて、アリアドネはハンカチを開いて翳してみた。
「素敵..」
「そうか。」
今までも度々こんな贈り物を貰っていたのに、果たして自分は素直な気持ちでお礼を伝える事が出来ていたのだろうか。
形式上の礼を述べて受け取るばかりでなかったか。
一度でも彼の面前で贈り物を開いた事はあっただろうか。
アリアドネは、ハデスからの贈り物ならいつだって飛び切り嬉しかった。
邸に戻れば時間を忘れて眺める程には嬉しかった。
しかし、その嬉しさを伝える事は無理なのだと思っていた。彼は礼儀に則っただけであり、そんな事をハデスは望んでいないのだとアリアドネは思い込んでいた。
嬉しい気持ちを素直に嬉しいと言えば良かった。
そうしたらハデスは、きっと喜んでくれたのではないだろうか。
今も目の前のハデスは、ハンカチを翳して愛でるアリアドネを、眩しいものを見るような眼差しで見つめてくれている。
「ハデス様。有難うございます。大切に致します。それと、今まで頂戴したものも、全て大切にしておりますの。宝物にして。」
「そうか。」
どこまで口下手なのか。他には何か言えないのか。
けれども、これがハデスなのだろう。
口が無くなったのかと思うほど言葉の無い婚約者は、言葉はなくても心はあった。
今も視線が合わないのは彼が照れているからなのではと、婚約して二年も経ってからハデスの心中に思い至る。
もっと早く気付けば良かったのに。そうしたら、あんな悲しい別れをせずとも済んだのに。あんな笑顔を浮かべさせずとも済んだかも知れないのに。
夢の中で、今にも泣き出しそうな笑みを浮かべたハデスが目の前のハデスと重なる。
あの夢は、何処か現実と繋がっていたのではないだろうか。夢と現実の奥深く狭間の境界で、過去と未来、夢と現実、それらが互いが交わる様に。
だって、あの泣き出しそうなハデスは、確かにここにいるはハデスと同じに思えた。
柔らかな心を持て余していたのはアリアドネばかりでなく、ハデスもまた不器用な感情を持て余していたのではないだろうか。
「アリアドネ。」
馬車が邸に着いて、ハデスに手を差し伸べられて馬車を降りるアリアドネに、ハデスが呼び掛けた。
「これからは帰りは私が君を送る。」
「それは..」
「放課後、用事があるなら待っている。」
「でもそれではハデス様のお務めに差し障ります。」
「君を失ってまで得る程のものでは無い。」
「え?」
ハデスの思いも寄らない言葉に、アリアドネは何か大切な事を見落としているような気がした。
「また明日。」
一瞬考え込んだアリアドネに、ハデスは別れの言葉を残して馬車に戻る。
邸を出る馬車を見送りながら、先程の言葉を心の中で何度も反芻する。
ハデス様。貴方は私を失う事を望んでいないの?
王族へ仕える誉れとアリアドネとを秤にかけて、アリアドネに重きを置くと言うのだろうか。
確かめられなかったハデスの気持ち。
けれど、自分の気持ちなら良く解る。
ハデスの言葉が耳に溶けて心に沁みて、そのうち全身が熱くなる。
火照る頬を秋風が冷ます。
秋の夕暮れ。沈む太陽に照らされて、染まる頬をハデスは知らない。
そうして同じくらい頬を染めたかも知れないハデスを、アリアドネもまた知らずにいた。
「ハデス殿が送り迎えを?」
「はい。お父様。」
「しかし、彼には王城での務めがあるだろう。」
「私もそう申しました。帰りならヘンドリックと一緒にと思って。」
晩餐の席で、今日の事を父に話した。
「まあ、宜しいではないですか。婚約者が送ってくれるのですもの。」
「まあ、それはそうだが、」
「今迄が交流がなさ過ぎたのです。貴方は学園の休みの日にも迎えに来たでしょう?あれこれ理由を付けて。」
「うっ、ううむ。」
「それに、」
と、母は言葉を続ける。
「あの可怪しな娘。何やらアリアドネに因縁を吹っ掛けていたではないですか。」
夜会の場にいた母は、ファニーを令嬢とは呼ばなかった。
貴族と認める気はないらしく、娘呼ばわりをした。
帰りの馬車の中で、ハデスは真剣な表情を浮かべた。
放課後を「水曜日ならぬ月曜日の報告会」で過ごした為に、ハデスが邸まで送ってくれる事となった。
ハデスは、アリアドネが思った以上にアリアドネの言葉を重く受け止めた様だった。
Eクラスの男子生徒の三人。
彼等の暴挙は夢の中の出来事でしかないのに、現実には何の根拠も無い話に耳を傾けてくれた。
その上で、アリアドネの身辺を案じているらしい。
「はい。暫くは、帰りはヘンドリックと一緒に帰ろうと思います。」
「ああ、うん。そうだ、」
そう言ってハデスは鞄を開き平らな小箱を取り出す。
「夜会でハンカチを借りただろう。これを。」
「まあ、開けても?」
「ああ。」
アリアドネの為にシャンパンを取りに行ってくれたハデス。その指先が濡れていたのをアリアドネはハンカチを差し出した。
ハンカチはそのままハデスが持ち帰ってしまったから、その代わりの品なのだろう。
婚約してから一貫して、ハデスはアリアドネへの贈り物に配慮を欠くことが無い。
そして美的感覚の優れたハデスの審美眼は確かなものである。
「まあ!素敵!」
「気に入ったか。」
「ええ!勿論!」
「そうか。」
大判のシルクのレースハンカチであった。
レースの編み目がとても美しい。繊細な紋様をもっと見たくて、アリアドネはハンカチを開いて翳してみた。
「素敵..」
「そうか。」
今までも度々こんな贈り物を貰っていたのに、果たして自分は素直な気持ちでお礼を伝える事が出来ていたのだろうか。
形式上の礼を述べて受け取るばかりでなかったか。
一度でも彼の面前で贈り物を開いた事はあっただろうか。
アリアドネは、ハデスからの贈り物ならいつだって飛び切り嬉しかった。
邸に戻れば時間を忘れて眺める程には嬉しかった。
しかし、その嬉しさを伝える事は無理なのだと思っていた。彼は礼儀に則っただけであり、そんな事をハデスは望んでいないのだとアリアドネは思い込んでいた。
嬉しい気持ちを素直に嬉しいと言えば良かった。
そうしたらハデスは、きっと喜んでくれたのではないだろうか。
今も目の前のハデスは、ハンカチを翳して愛でるアリアドネを、眩しいものを見るような眼差しで見つめてくれている。
「ハデス様。有難うございます。大切に致します。それと、今まで頂戴したものも、全て大切にしておりますの。宝物にして。」
「そうか。」
どこまで口下手なのか。他には何か言えないのか。
けれども、これがハデスなのだろう。
口が無くなったのかと思うほど言葉の無い婚約者は、言葉はなくても心はあった。
今も視線が合わないのは彼が照れているからなのではと、婚約して二年も経ってからハデスの心中に思い至る。
もっと早く気付けば良かったのに。そうしたら、あんな悲しい別れをせずとも済んだのに。あんな笑顔を浮かべさせずとも済んだかも知れないのに。
夢の中で、今にも泣き出しそうな笑みを浮かべたハデスが目の前のハデスと重なる。
あの夢は、何処か現実と繋がっていたのではないだろうか。夢と現実の奥深く狭間の境界で、過去と未来、夢と現実、それらが互いが交わる様に。
だって、あの泣き出しそうなハデスは、確かにここにいるはハデスと同じに思えた。
柔らかな心を持て余していたのはアリアドネばかりでなく、ハデスもまた不器用な感情を持て余していたのではないだろうか。
「アリアドネ。」
馬車が邸に着いて、ハデスに手を差し伸べられて馬車を降りるアリアドネに、ハデスが呼び掛けた。
「これからは帰りは私が君を送る。」
「それは..」
「放課後、用事があるなら待っている。」
「でもそれではハデス様のお務めに差し障ります。」
「君を失ってまで得る程のものでは無い。」
「え?」
ハデスの思いも寄らない言葉に、アリアドネは何か大切な事を見落としているような気がした。
「また明日。」
一瞬考え込んだアリアドネに、ハデスは別れの言葉を残して馬車に戻る。
邸を出る馬車を見送りながら、先程の言葉を心の中で何度も反芻する。
ハデス様。貴方は私を失う事を望んでいないの?
王族へ仕える誉れとアリアドネとを秤にかけて、アリアドネに重きを置くと言うのだろうか。
確かめられなかったハデスの気持ち。
けれど、自分の気持ちなら良く解る。
ハデスの言葉が耳に溶けて心に沁みて、そのうち全身が熱くなる。
火照る頬を秋風が冷ます。
秋の夕暮れ。沈む太陽に照らされて、染まる頬をハデスは知らない。
そうして同じくらい頬を染めたかも知れないハデスを、アリアドネもまた知らずにいた。
「ハデス殿が送り迎えを?」
「はい。お父様。」
「しかし、彼には王城での務めがあるだろう。」
「私もそう申しました。帰りならヘンドリックと一緒にと思って。」
晩餐の席で、今日の事を父に話した。
「まあ、宜しいではないですか。婚約者が送ってくれるのですもの。」
「まあ、それはそうだが、」
「今迄が交流がなさ過ぎたのです。貴方は学園の休みの日にも迎えに来たでしょう?あれこれ理由を付けて。」
「うっ、ううむ。」
「それに、」
と、母は言葉を続ける。
「あの可怪しな娘。何やらアリアドネに因縁を吹っ掛けていたではないですか。」
夜会の場にいた母は、ファニーを令嬢とは呼ばなかった。
貴族と認める気はないらしく、娘呼ばわりをした。
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