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【62】
今夜はハデスが戻らないからと、夕餉は軽めに済ませた。
その代わり、食後の紅茶にはミルクをたっぷり入れてもらう。それからチョコレートも一粒付けてくれるように頼んだ。
ロジャーからの手紙には、彼が来春帰国する旨が書かれていた。
ロジャーが戻るのを、可愛い婚約者が待ちわびているのだと言う。
彼は帰国した後は、その道を極めた学者として王都にある大学で教鞭を執る事が決まっている。帝国での教育課程を修了する人材は貴重である。
夢の中で、アリアドネはロジャーを学者か教師が似合うと思った。あの綺麗な銀髪を長く伸ばして背中で結って、ついでに眼鏡なんて掛けたなら、とっても素敵な教師の姿に見えるだろう。
まだ学園生であった頃に、アリアドネはそれをロジャーに話してみた。
「きっと似合うと思うのよ。」
「奇遇だね。婚約者殿にも同じ事を言われたよ。仕方が無いから、今日から髪を伸ばすとしよう。」
ロジャーはそう言って眩しい笑顔を見せたのだった。
「まあ、こんなに疲れたお顔をなさって。」
「それ程疲れていない。」
嘘仰い。目元が隈だらけですよ。
如何ほどフランシス殿下は、夫に無理難題を突きつけるのか。賢明な為政者に仕えるのに凡人では務まらない。もれなく激務が付いてくる。
「夕餉の前に少し休む。」
「ええ、それが宜しいわ。」
「君も一緒に来るんだ。」
「え、」
「抱き枕は安眠には必須だろう。」
ハデス様!皆が聴いているでしょう!!
侯爵家の優秀な使用人達は、こんな若夫婦の惚気には顔色一つ変えたりしない。全て承知しておりますと言わんばかりに、夜着の用意をしてくれる。
え。もしやこれは夕餉はベッドの上で摂るのだろうか。侍女頭が軽食の指示を出している。
「ハ、ハデス様。お疲れでしょう?休める時にはしっかりお休みになって。」
「君以外に私を癒すものがあるなら。」
そう言いながら、ハデスはアリアドネを抱き上げてしまう。細身であるのに、ハデスは軽々とアリアドネを抱き上げる。
ハデス様。貴方、眠ってないのでしょう?
昨日から休まずお勤めなさっていたのでしょう?
なのに、
「は、は、ハデス様、そろそろお休みになって、」
アリアドネは、胸に顔を埋めるハデスの背をタップする。両の手が怪しい動きをしている。真逆、まだ元気なの?!
ランナーズハイと云う言葉を教えてくれたのはパトリシアであった。負荷が掛かり過ぎた後に一層多幸感を得る現象。
激務を終えて戻った夜の夫君がそうであると、彼女はそれをランナーズハイに喩えて話していた。
友人の閨事情を聞かされるのは恥ずかしい。そうして、それが自身のそれと重なるのもなんだかとっても恥ずかしい。
「考え事が出来るならもう一回いいだろう?」
返事を返す事など許されず、あっと言う間に転がされる。視界が反転したと思うよりも先に、背中に熱い体温を感じた。
湿った肌がどちらのものか、多分どちらも汗だくだ。
ハデスの手の平。こんなに大きかったか。指先はこんなに節くれだっていたか。
毎日一緒にいた筈なのに、ハデスは益々落ち着きと気品を増して、鍛錬を重ねた精悍な美丈夫になって行く。
あんなに恥ずかしがり屋で純情であった青年は、今宵も夫人を甘く鳴かせてひと時の休みさえ与えてくれない鬼畜となった。
「柔らかい。」
ハデスに後ろから伸し掛かる様に抱きすくめられてその重みが苦しい筈なのに、我が身が夫を楽しませているのが嬉しくて堪らない。
ハデスはアリアドネの気質も心も身体も、全て余す所なく愛してくれる。
どうしてこんな愛しく可愛い男を手離そうと思ったのか。
若かった自分に会えたなら、教えてあげたい事がある。
この男の手を決して離してはならないと。足りないものがあったなら二人で埋めて、しっかり手を携えて離してはならないと。
夢の中なら過去の自分に会えるのだろうか。
そう考えて、ああ、あの遠い夏の終わりに見た長い夢。あれはもしかしたら先の未来のアリアドネが若く潔癖な過去の自分に教えてあげたいと見せた夢であったのかも知れないと思った。
「ふ、う、」
耳朶を喰れて思わず声が漏れる。
柔らかく豊かな乳房は、ハデスの手の平では足りずに溢れている。
やわやわとその感触を味わう夫。
「君は何処も彼処も甘くて柔らかい。」
耳朶が甘いわけがない。
けれども、そんなベッドの中の睦言にアリアドネは身体の芯から溶かされる。
背から圧迫されたまま、ゆらりゆらりと揺すぶられ、夫と寝台に挟まれて押し潰されて声が漏れて。
その声に煽られるのか、ハデスに更に追い込まれる。
「うっ、はっ、ハデス様、」
二人一緒にいる幸せ。
二人一緒になる幸せ。
夢の中なら出来る筈。
アリアドネは嘗ての令嬢アリアドネを思いやる。
未熟で青くて潔癖なアリアドネ。
ハデス様の心を見つめてあげて。彼は貴女を求めているの。まだ若過ぎて上手く言えない、ただそれだけなのよ。
完璧でない貴女と完璧でないハデス様。
心を寄せられないもどかしさを埋めてくれるのは素直な心よ。
心を開いて語り合うのよ。
そうすれば、愛し合う未来が訪れる。
夫の胸に抱かれて、アリアドネは微睡みの湖に沈んで行く。
ハデスの深い翠の瞳に見つめられながら、穏やかな寝息を立て始める。
そうして夢を見た。
長い長い夢の中では、今より幼い令嬢アリアドネが熱に浮かされ眠っていた。
その代わり、食後の紅茶にはミルクをたっぷり入れてもらう。それからチョコレートも一粒付けてくれるように頼んだ。
ロジャーからの手紙には、彼が来春帰国する旨が書かれていた。
ロジャーが戻るのを、可愛い婚約者が待ちわびているのだと言う。
彼は帰国した後は、その道を極めた学者として王都にある大学で教鞭を執る事が決まっている。帝国での教育課程を修了する人材は貴重である。
夢の中で、アリアドネはロジャーを学者か教師が似合うと思った。あの綺麗な銀髪を長く伸ばして背中で結って、ついでに眼鏡なんて掛けたなら、とっても素敵な教師の姿に見えるだろう。
まだ学園生であった頃に、アリアドネはそれをロジャーに話してみた。
「きっと似合うと思うのよ。」
「奇遇だね。婚約者殿にも同じ事を言われたよ。仕方が無いから、今日から髪を伸ばすとしよう。」
ロジャーはそう言って眩しい笑顔を見せたのだった。
「まあ、こんなに疲れたお顔をなさって。」
「それ程疲れていない。」
嘘仰い。目元が隈だらけですよ。
如何ほどフランシス殿下は、夫に無理難題を突きつけるのか。賢明な為政者に仕えるのに凡人では務まらない。もれなく激務が付いてくる。
「夕餉の前に少し休む。」
「ええ、それが宜しいわ。」
「君も一緒に来るんだ。」
「え、」
「抱き枕は安眠には必須だろう。」
ハデス様!皆が聴いているでしょう!!
侯爵家の優秀な使用人達は、こんな若夫婦の惚気には顔色一つ変えたりしない。全て承知しておりますと言わんばかりに、夜着の用意をしてくれる。
え。もしやこれは夕餉はベッドの上で摂るのだろうか。侍女頭が軽食の指示を出している。
「ハ、ハデス様。お疲れでしょう?休める時にはしっかりお休みになって。」
「君以外に私を癒すものがあるなら。」
そう言いながら、ハデスはアリアドネを抱き上げてしまう。細身であるのに、ハデスは軽々とアリアドネを抱き上げる。
ハデス様。貴方、眠ってないのでしょう?
昨日から休まずお勤めなさっていたのでしょう?
なのに、
「は、は、ハデス様、そろそろお休みになって、」
アリアドネは、胸に顔を埋めるハデスの背をタップする。両の手が怪しい動きをしている。真逆、まだ元気なの?!
ランナーズハイと云う言葉を教えてくれたのはパトリシアであった。負荷が掛かり過ぎた後に一層多幸感を得る現象。
激務を終えて戻った夜の夫君がそうであると、彼女はそれをランナーズハイに喩えて話していた。
友人の閨事情を聞かされるのは恥ずかしい。そうして、それが自身のそれと重なるのもなんだかとっても恥ずかしい。
「考え事が出来るならもう一回いいだろう?」
返事を返す事など許されず、あっと言う間に転がされる。視界が反転したと思うよりも先に、背中に熱い体温を感じた。
湿った肌がどちらのものか、多分どちらも汗だくだ。
ハデスの手の平。こんなに大きかったか。指先はこんなに節くれだっていたか。
毎日一緒にいた筈なのに、ハデスは益々落ち着きと気品を増して、鍛錬を重ねた精悍な美丈夫になって行く。
あんなに恥ずかしがり屋で純情であった青年は、今宵も夫人を甘く鳴かせてひと時の休みさえ与えてくれない鬼畜となった。
「柔らかい。」
ハデスに後ろから伸し掛かる様に抱きすくめられてその重みが苦しい筈なのに、我が身が夫を楽しませているのが嬉しくて堪らない。
ハデスはアリアドネの気質も心も身体も、全て余す所なく愛してくれる。
どうしてこんな愛しく可愛い男を手離そうと思ったのか。
若かった自分に会えたなら、教えてあげたい事がある。
この男の手を決して離してはならないと。足りないものがあったなら二人で埋めて、しっかり手を携えて離してはならないと。
夢の中なら過去の自分に会えるのだろうか。
そう考えて、ああ、あの遠い夏の終わりに見た長い夢。あれはもしかしたら先の未来のアリアドネが若く潔癖な過去の自分に教えてあげたいと見せた夢であったのかも知れないと思った。
「ふ、う、」
耳朶を喰れて思わず声が漏れる。
柔らかく豊かな乳房は、ハデスの手の平では足りずに溢れている。
やわやわとその感触を味わう夫。
「君は何処も彼処も甘くて柔らかい。」
耳朶が甘いわけがない。
けれども、そんなベッドの中の睦言にアリアドネは身体の芯から溶かされる。
背から圧迫されたまま、ゆらりゆらりと揺すぶられ、夫と寝台に挟まれて押し潰されて声が漏れて。
その声に煽られるのか、ハデスに更に追い込まれる。
「うっ、はっ、ハデス様、」
二人一緒にいる幸せ。
二人一緒になる幸せ。
夢の中なら出来る筈。
アリアドネは嘗ての令嬢アリアドネを思いやる。
未熟で青くて潔癖なアリアドネ。
ハデス様の心を見つめてあげて。彼は貴女を求めているの。まだ若過ぎて上手く言えない、ただそれだけなのよ。
完璧でない貴女と完璧でないハデス様。
心を寄せられないもどかしさを埋めてくれるのは素直な心よ。
心を開いて語り合うのよ。
そうすれば、愛し合う未来が訪れる。
夫の胸に抱かれて、アリアドネは微睡みの湖に沈んで行く。
ハデスの深い翠の瞳に見つめられながら、穏やかな寝息を立て始める。
そうして夢を見た。
長い長い夢の中では、今より幼い令嬢アリアドネが熱に浮かされ眠っていた。
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